三斎忠興の死後の八代は、まるで謀叛でも起こりそうな雰囲気が伝えられている。
実際はそうでもなかったのだろうが、三斎附の重臣たちが三斎の遺言の履行のために本藩の意向もうかがわずに独自の行動を行ったことによる、光尚の強い不信感が見て取れる。溺愛した立孝の遺児・行孝の宇土に於ける立藩は、薩摩に対しての八代の重要性を考えると、本藩の意を十分に機能させ得ないと感じている。
そこで松井興長が八代城主に起用されるのだが、次の書状によると興長に対して光尚は隠密裏の中で、この人事を画策していたことが判る。そして幕府の粗方の同意が得られたうえで、興長に対して理の書状ともいうべきこの書簡を送った。
三斎の死後、遺族は七日間のうちに八代を退去することを求められ小川のお茶屋に移った。
八代城は誰に委ねられるのかは、細川家家臣たちの最重要関心事であったろうし、松井氏の入城も選択肢の一つとして噂されていたのかもしれない。しかし光尚は、本人松井氏ほか藩の誰にも相談することなく、幕閣や小笠原家などと隠密裏に松井興長の起用を考えていたのであろう。まさに深謀遠慮の光尚が名君と呼ばれる所以の一つのエピソード共いえるのではないか。
■正保三年五月廿六日、興長を八代城ニ被差置へきに付而、公儀ニ御伺被成、御内書被成下候、
(綿考輯録・巻61ー出水叢書・第7巻p324)
貴殿八代へ召置候事、かくし申事ニ而ハ無之候得共、八代向之事未被仰出候間、
其方迄内証申遣候間、可得其意候、其方外聞無残所候、此段式部少江可有物語候、
八代向之儀、四五日中ニ被 仰出可有之候間、其刻一度ニ急度可申遣候条、それ
迄ハ不存分ニ可被仕候、謹言
肥後
五月廿六日 光尚
長岡佐渡守殿