忠興文書-元和五年(1619)
(九月十九日、於中津六丸=光尚誕生ス)
194、十月十一日書状(忠興八月九日ニ賜暇、十月ハ在国)
・来春大阪城普請ニ付摂津御影・飯森辺ニ石場ヲ取ル、淡路ノ石場ハ蜂須賀家(忠利相婿)ノ年寄衆ニ交渉スベシ
195、十月十五日書状
・筑紫主水(後広門)ノ出府ヲ了承
・山名禪高屋敷ヲ才覚(取得?)スベシ
・墨蹟ノ表具ハ気分回復セザル為遅ル
・茶入レヲ忠利ニ送ル、代金ハ内密ニスベシ
・大阪城普請ノ指令出ズ
・渡邊筑後ニ万事頼ミ入ルベシ
・普請奉行(花房正成・長谷川守知・日下部五郎八・渡邊筑後)、花房・長谷川ハ黒田長政ト知音(細川ー黒田家の関係悪シ)
日下部五郎八ト入魂ニスベシ
・惣奉行戸田氏銕ニツキテハ土井利勝ヨリ依頼アル筈
・小田原城ヲ土井利勝ニ下賜ノ噂
・田中忠政出府、福島正勝越後下向
・木下延俊(室忠興女・加賀)女ノ縁談ハ土井利勝ノ同意ヲ得テ定ムベシ
・墨蹟・茶入及ビ茶入袋箱ニハ例ノ印ヲ押ス
196、十一月十三日書状
・秀忠ニ鷹野道服ヲ献ズ
・土井利勝・伊丹康勝ニモ道服ヲ贈ル
197、十二月三日書状
・土井利勝・酒井忠世・本多正純・伊丹康勝等年寄衆加増ヲ受ク
・大坂城普請坪数決定次第通知ヲ待ッ
・後藤又一郎(又兵衛二男)母ハ以前ゟ豊前ニ招ク積リ
・眼痛ノ為不干(佐久間正勝)妻木之徳ニハ返書ヲ遣サズ
・忠利米千俵拝領之由
・江戸茶湯流行
・所望ノ豊前焼無之ニ付、長崎ゟ取寄ノ品進之候
・秦宗巴ノ香炉ハ興元遺物目録ニ書入レシ故忠利所望ニ応ジガタシ
・伊達政宗駿府ニ屋敷ヲ望ム
198、十二月十九日書状
・鷹ノ鶴拝領ノ御礼を早打ヲ以テ申入ル
・高羽ノ鳥箒・保呂羽