かたずけ資料の中から、次の資料が顔を出した。読んでみると忠興の死の寸前八代に派遣されていた沼田勘解由が、
松井興長・米田是季に宛てた書状を読んだ光尚の驚いた様子が書かれている。
ここに書かれているように、いつも沼田家は割の合わぬ仕事を押し付けられて鬱憤をためている。
2代・延元代の関ヶ原出陣の際、3代・延之代では天草島原の乱出陣の際と二度にわたり留守居を仰せつかっている。
家臣たちの鑓働きの機会を失い大反発をしているが、藩主や重臣が何とか納得させようと努力するが、夫々暗礁に乗
り上げて難儀している。
特に光尚が指揮をした天草島原の際も留守居役を仰せ付けられたが、戦いが集結し大方が帰陣した後も納得出来ない
延之の抵抗は激しく、終には「門」を閉ざした。
武家が門を閉ざすということは、主家に対する公然たる抵抗の意思表示だとされる。家臣らは討手が遣わされること
を覚悟したようだ。
そのことは、花畑邸も知る処とになり、主席家老・松井興長が一人沼田邸を訪ねて懇切に説得に努めた結果延之はよ
うやく「門」を開かせたという。
沼田家と言えば、三卿家老に次ぐ家格と言っても良い、幽齋室・麝香の実家の家柄である。
熊本城の二の丸には、細川家重臣の屋敷がずらりと並んでいる中、その沼田家の屋敷は、西大手門の真正面にあるこ
とも沼田家の家格を伺わせている。
光尚の死後、幼い六丸の家督相続を成就させるために多大な尽力をした延之が、江戸城内でその沙汰が申し下される
と「三間し(す)ざり」をして感涙にむせび平伏し続けたという逸話が残る。
いつも正面から御家の為に身命を尽くしたいという気概が見て取れる。それは細川家根本家臣としての矜持であろう。
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長岡勘解由八代へ被遣付自然世上不慮之儀も候時ハ
八代ニ居申間敷由佐渡監物へ充候而誓帋差上驚申候
一、追而申候長岡勘解由儀今度八代へ遣候付自然世上不慮之儀も候有之時ハ八代ニ居申間敷之ニ而其方并監物なとへ
當候而誓帋を差上候由ニ而其方共なとより指越見届驚申候
一、惣而勘解由儀加藤肥後守没落之砌豊前より人数参事茂可 在之哉と申候節小倉之城之留守ニ可被置之由妙解院殿よ
り御申付候砌勘解由断を申候由其節重而御留守御申付間敷由被仰候然處ニ有馬一揆発起之刻人數入候節又勘解由
儀熊本之留守ニ可被置之由妙解院殿重而御申付候其節最前之首尾ニ而候故達而断可申之由ニ而有馬へ勘解由方よ
り使者を指越候陣中之事故兎角之儀不被申様ニと存我等かたより状を勘解由かたへ遣異見申候ニ付訴訟申儀存■
候事
一、其以後熊本に而以来ハふつと留守を仕間敷旨勘解由誓文立候由ニ候主人ニ對候而ハ慮外之様ニ存候得共一陳茂不
仕勘解由両度留守を御申付候間勘解由存分之通候尤之様ニ存妙解院殿へ我等茂達而勘解由儀取合なと申候つる■
と覚へ候其故ニ而候哉又自分ニ被思召直候哉其以後御帰国之砌者勘解由へ懇之様ニ粗及候事
一、右之通候故我等内存ニは勘解由儀以来とても留守居なとニ置可申とハ聊不存候就其今度留守中之書附ニ茂不慮之
事茂候ハヽ先手ニ加へ可申候若人数少入事候共勘解由なとをハ先へ遣之与之内ニ書入置候此段少茂偽無之候帰国
之上其方へ其書付見せ可申候其上異国船なと着岸之砌勘解由ニ平野孫ニ右衛門なと差加遣之由申渡候事
一、右之通ニ候故勘解由儀留守なとニ置可申とハ少茂不存候此度八代遣候儀ハ三齋御逝去之砌ニ候間萬事■かハしき
儀も可有之候間目付心ニ遣候条諸事公儀へ聞へ悪さニ成事茂候ハヽ指引を茂可仕候為其勘解由召置候由御老中へ
咄申候得者尤之由御申候つる其故右之段申遣候但最前之状ニ何事茂在之時留守ニ居申候様ニ書成候哉又長く城番
可申付なとヽ申様ニ書中相聞候哉其段ハ覚へ不申候事
一、必竟勘解由内存ニハ此度八代へ遣候砌若不慮之儀有之時ハいつかたへも可参候當分目付心ニ遣候との儀此方より
不入念ニ付唯今何茂迄申候と相見へ候此段者我等違ニ而茂可在之候乍去最前より勘解由留守ニ居候儀断申候通を
我等 茂渕底存候其断勘解由茂可被存候間誓紙ニ者及申間敷事之様ニ我ニハ存候但不慮之仕合存之時者とても八代
ニ居不申候間仕置之心得ニも成可申と存候ての事ニ候ハヽ内證ニ而其方迄申候而事済ニ候于今誓紙ニ而理之段我
等合点不参候此状之通具ニ勘解由へ申聞せ内存之通急度返事可被申越候為其如此段候謹言
正月十一日 肥後光尚・御判
長岡佐渡守殿