津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠利嫡男六丸(光尚)という幼名は第六子故

2023-05-12 10:19:27 | 人物
 先の■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和四年」を読む (1)に、忠利室・千代姫が懐妊したことを忠興が江戸在の忠利に伝えている。(4)当初、忠利の嫡男・光尚のことかと考えたが、どうもその誕生からするとすると時期が早すぎる。
光尚より一年ほど前同腹に一人お子が生まれている可能性がある。

     系譜家伝録、光尚多兄弟生在第六故以爲幼名、兄皆夭死、忠利立光尚爲家嫡云々
細川忠利の嫡男・光尚の幼名は「六丸」、その名の由来は「第六子」の故と綿考輯録は記す。
つまり光尚誕生前に5人のお子が誕生していたことになる。過去の記録を辿ってみよう。
忠利室・千代姫の輿入れは慶長十四年だが、六丸誕生までは十一年かかっている。
実はその間、正室・側室の子が五人誕生していたのだが、細川家家譜は正式な記録には留めていない。忠利公は11人のお子があった

  1,慶長15・6年比千代姫様御腹に御一男御誕生、
  2,元和二年御誕生の御子様御名ニ辰の字を可被用思召之趣、忠利君江戸より豊前に被下御書有(下津久馬所持)
  3,双子と思える女子の存在が、忠利-三斎の書簡で伺える。妾腹か?
    亀・福 寛永六年正月忠利君御書「かめふく儀不便なる仕合(死去)可申上様も無御座・・」
    三斎君御書「亀福儀承驚申候・・・右之仕合無是非儀ニ候事」
  4,元和四年五月十一日忠利在府 三斎からの書状に「御姫(千代姫)御懐妊の儀ニ付・・」
    この前に数度にわたり在小倉の忠興は、中津に在る千代姫が不食気味である事を心配し服薬を進めていることを江戸の忠利に
    知らせている。

    そして此の記事に至るのだが、光尚の生年からすると光尚ではない。綿考輯録の編者小野武次郎は、六・七月にお産があった
    のではないかと記している。
    詳しい記録がないところを見ると「死産」「夭折」の可能性も伺える。
  5,元和五年九月十八日、第六子として御六(光尚)誕生

「其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代」で「五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之」「(光尚は)唯六人目の御子様と云はかり」と小野武次郎は当時の記録の杜撰なことを指摘している。
細川家家譜は1~4までの5人のお子については正式に記録していない。

光尚誕生後、妾腹に「藤」「宗玄」「竹」「尚房」「元知」の二男三女が誕生している。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和五年」を読む (1)

2023-05-12 08:31:42 | 史料

忠興文書-元和五年

183、正月五日書状(忠興江戸・忠利中津)
 ・年頭之祝儀到来祝着
 ・小笠原忠眞ニ中津城ノ天守ヲ贈ル(元和三年七月廿八日、信濃松本ヨリ播磨明石ニ移ル)

184、正月十二日書状
 ・忠利帰国、祝着
 ・拝領之馬死ス(其外人十人果候由、無是非儀)?
 ・興元忠利ノ茶釜ヲ所望ス(人ニ御やり候ハゝ此方へ可給候)
 ・秀忠四月日光社参、五月御上洛之沙汰

185、二月十六日書状
 ・天千代(興孝)二忠利玩具ヲ送ル  (正月二證人トシテ江戸ニ赴ク・三歳)(注に五男とあるが七男が正解)
 ・西国大名ニ帰国ノ暇出デズ
 ・忠利當秋江戸下向ノコトハ忠興賜暇ノ様子タルベシ
 ・後藤又一郎母ノ儀
 ・忠興屋敷東ノ長屋ノ儀
 ・秀忠招請(御成)ハ西国大名衆ノ順番ニ依ルベシ

186、三月四日書状
 ・横山掃部死亡ソノ替人ヲ伊丹康勝土井利勝ニ談合ス
 ・掃部知行ノ処置
 
187、三月九日書状
 ・屋敷拝領ノ由相聞候哉、一切沙汰ナキコト
 ・播磨・備前ニツキ風説
 ・明石城普請ニツキ雑説
 ・大坂城主交代ノ噂
 ・出府中ノ諸大名ニ帰国ヲ許ス(森忠政・蜂須賀至鎮・堀尾忠晴・有馬豊氏・寺嶋廣高、其外ハ沙汰無之)
 ・伊達政宗はしめ奥東之衆参勤セン

188、三月十五日書状
 ・忠興弟・興元病ニ伏ス(三月十八日歿)

189、四月八日書状
 ・忠利ヨリ天千代(興孝)ニ帷子ヲ贈ル

190、四月十四日書状
 ・秀忠廿九日上洛ノ予定
 ・忠興モ二三日中ニ出立
 ・土井利勝ヨリ忠興・忠利ノ上洛ニツキ指示アリ
 ・秀忠伏見到着ノ日取、利勝日程ヲ言ハズ

191、四月廿五日書状
 ・秀忠忠興ニ帰国ノ暇ヲ與フ
 ・秀忠忠興ヲ被召往時ヲ談ズ
 ・福島正則許可ナクシテ廣島城ヲ普請シ咎ヲ受ク、詫言ニテ身上別儀ナシ  (後改易)
 ・秀忠江戸出立ヲ五月五日二相延

192、五月六日書状(附・五月五日忠利書状)
 ・土山ニテ書状披見、秀忠上洛出迎ノコトハ他ノ大名竝ニスベシ
 
 ・忠利四月廿八日中津出船、五月四日吉田到着予定
 ・秀忠上洛ノコトハ利勝ニ尋ネン

193、六月廿七日書状
 ・忠興、京都烏丸邸ニ着ス

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