光尚より一年ほど前同腹に一人お子が生まれている可能性がある。
つまり光尚誕生前に5人のお子が誕生していたことになる。過去の記録を辿ってみよう。
忠利室・千代姫の輿入れは慶長十四年だが、六丸誕生までは十一年かかっている。
実はその間、正室・側室の子が五人誕生していたのだが、細川家家譜は正式な記録には留めていない。忠利公は11人のお子があった
1,慶長15・6年比千代姫様御腹に御一男御誕生、
2,元和二年御誕生の御子様御名ニ辰の字を可被用思召之趣、忠利君江戸より豊前に被下御書有(下津久馬所持)
3,双子と思える女子の存在が、忠利-三斎の書簡で伺える。妾腹か?
亀・福 寛永六年正月忠利君御書「かめふく儀不便なる仕合(死去)可申上様も無御座・・」
三斎君御書「亀福儀承驚申候・・・右之仕合無是非儀ニ候事」
4,元和四年五月十一日忠利在府 三斎からの書状に「御姫(千代姫)御懐妊の儀ニ付・・」
この前に数度にわたり在小倉の忠興は、中津に在る千代姫が不食気味である事を心配し服薬を進めていることを江戸の忠利に
知らせている。
そして此の記事に至るのだが、光尚の生年からすると光尚ではない。綿考輯録の編者小野武次郎は、六・七月にお産があった
のではないかと記している。
詳しい記録がないところを見ると「死産」「夭折」の可能性も伺える。
5,元和五年九月十八日、第六子として御六(光尚)誕生
「其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代」で「五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之」「(光尚は)唯六人目の御子様と云はかり」と小野武次郎は当時の記録の杜撰なことを指摘している。
細川家家譜は1~4までの5人のお子については正式に記録していない。
光尚誕生後、妾腹に「藤」「宗玄」「竹」「尚房」「元知」の二男三女が誕生している。