津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和四年」を読む (2)

2023-05-08 08:20:21 | 史料

忠興文書-元和四年(1618年)

162、六月二日書状
 ・来年江戸城本丸普請ノ延期、献上石ハ廻送ス
 ・馬島大法院ノ療治ヲ受ケテ症状悪化ス、再ビ大坂ノ眼醫師ヲ招ク
 ・田中忠政(柳川藩)家中ノ紛争ハ別儀アルマジ
 ・堀親良ゟ竹五十株ヲ贈ラル

163、六月廿六日書状
 ・小倉・中津両城ノ普請ノ許可ヲ受ク
 ・秀忠来年上洛 ・牢人衆赦免ノ書立、石川康長ハ除外
 ・福島正則廣島城普請
 ・島津義弘危篤
 ・曽我尚祐煩散々
 ・木下延俊江戸著ノ由
 ・普請奉行山岡景長・小澤忠重改易・・秀忠上洛ノ宿割ノ不首尾
 ・再来年江戸城本丸普請
 ・大坂ノ眼醫師ノ治療ニテ験ヲ得

164、七月朔日書状
 ・忠興母光壽院病ム・・くるしかるましきやうニ
 ・忠興ノ眼病験氣ヲ得
 ・秀忠光壽院ノ病ヲ問ハシム  (光壽院ハ江戸證人である)

165、七月十日書状
 ・忠興母光壽院ノ病気見舞ノタメ十三日出立ノ予定
 ・秀忠ヨリ病気見舞ノ御内書ヲ受ク
 ・中務(忠興弟・孝之)早出立ス
 ・自身病気ノタメ道をはやくありき候事成間敷候、光壽院ノ病状報知ノタメノ早打ヲ下ス

166、七月十日書状
 ・筑前往還ニツキテノ書状ヲ土井利勝ニ示スベシ

167、七月廿五日書状
 ・十三日小倉ヲ出船ス、仕合悪風むかひ風ニテ難渋、十六日二中国地ニ取付ケドモ室マデ参事不成躰
 ・母ノ臨終ニ間ニ合ハズトモ訃報アル迄ハ下向セン
 ・葬禮ノ指示
 ・眼病再悪化

 (7月26日忠興母光壽院(沼田麝香)死去、77歳)

168、八月二日書状(曽我又左・谷羽州・内記・玄蕃・木右衛門太 宛)
 ・光壽院危篤ノ報 七月廿九日京都吉田ニ到着(下々一人モ著不申)
 ・土井利勝忠興ニ帰国ヲ指示ス
 ・我等心中御推量候而可被下候

169、八月十八日書状
 ・光壽院没す
 ・秀忠光壽院ノ死ヲ弔シ且ツ御目見衆ノ對面ヲ止ム
 ・弔問ノ諸家ヘノ挨拶
 ・光壽院殿大事ノ物御入候長持ニ鍵
 ・光壽院ノ画像ヲ描カシム
 ・法事後上洛シ吉田ニテ眼病ノ治療セン
 ・来年秀忠上洛ニツキ替米ヲ望ム者アラバ才覚スベシ
 ・再来年江戸城本丸普請ノ石ノ用意
 ・小判五百両ヲ使者ニ託す

170、八月十八日書状
 ・秀忠光壽院ノ死ヲ弔シテ七日間碁将棋ヲ止ム
 ・弔問ニ一色範勝ヲ小倉ニ遣ス

 

 

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■肥後熊本藩士中村家伝来 頭立付越中具足

2023-05-08 06:22:09 | オークション

   肥後熊本藩士中村家伝来 頭立付越中具足 陣羽織・陣笠付き *兜鎧甲冑武士戦陣弓刀鞍鐙鍔目貫縁頭大名侍

                                     

 このオークションはすでに終了している。時間切れか?出品者の言い値は1,800,000円とあり、それが肥後細川藩士・中村家の者と有るから驚いてしまった。
この家紋(丸に毬挟み紋)からすると、この中村家は、幽齋公から幼い忠興を預かり京に身を隠して育てた中村新助夫妻を祖とする200石取りのお宅である。
奥方は乳母であり、後には「大局」と呼ばれた。
まさに由緒あるお宅の甲冑一式、又時間をおいて出品されることであろう。

 中村新平  【青龍寺以来】(南東29-17)
    1、新助  
妻・忠興公御乳母(父藤孝公、義昭公御漂伯御供の折、町屋に隠れ御育永禄十一年
           御感賞、御乳を大局被仰付新助知行百五拾石、妻に百石被為拝領、二人共豊前病死

           
末娘ごう・・坂根長右衛門室    (綿考輯録-巻9 P6~)
    2、茂助 (養子 実・坂根長右衛門嫡子・茂介) 
           御馬廻組 二百石 
           
岐阜戦功吟味--首取申候衆次第不同  (綿考輯録-巻14 P257)
             与一郎様衆・中村茂助 新助子、忠興君御乳おとゝい也

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