津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和四年」を読む (1)

2023-05-06 09:36:26 | 先祖附

忠興文書-元和四年(1618年)

148、正月九日書状
 ・閏三月頃小倉ヲ出立セン
 ・肩衝ノ掘出物                                                           肩衝=肩が張った茶入れ                                                              
 ・竹千代西丸移徙ノ祝儀ト継目朱印ノ禮
 ・曽我尚祐煩気遣千萬ニ候

149、正月九日書状
 ・江戸屋敷ノ路地ノ植木

150、二月十九日書状
 ・拝領ノ若鷹ニ鶴ヲ鶴ヲとらせ献上
 ・忠興ノ眼病本復ノ望半バナリ

151、三月十九日書状
 ・忠利室(千代姫)ニ服薬ヲ勧ム

152、三月廿五日書状
 ・忠利室不食、吉左右待申候

153、閏三月二日書状
 ・二月七~八日時分ゟ目煩出
 ・同廿日時分ゟ両眼共ニ見え不申候事
 ・大坂ノ眼醫師ヲ招く
 ・京都ノ眼醫師ノ下向ヲ板倉勝重ニ依頼す
 ・江戸へ上ル覚悟候処ニ迷惑事付、京都ニテ療養セン
 ・先月廿日比迄ハ寝間ヲ出候事ナク、醫師サへモ寝間ニ呼申候コト、顔面腫ル
 ・(病の原因)今迄身ヲあらくあつかい聲高ニ候
 ・癪ヲ併発ス
 ・(母)光壽院ヘハ(病状を伏せ)本復ノ旨申送ル
 ・中津城石垣ノ修復

154、閏三月二日書状
 ・角石献上
 ・石灯篭献上
 ・黒田長政来年江戸城天守普請ノコトヲ内聞シ石ヲ献上ス

155、閏三月廿四日書状
 ・秀忠使者ヲ小倉ニ遣シテ忠興ノ眼病ヲ問ハシム
 ・推量之外草臥

156、四月朔日書状
 ・尾張馬島ノ大法院ヲ眼病治療ノ為招ク
 ・秀忠ヨリノ見舞ニ禮使ヲ遣ス
 ・秀忠へ袷ヲ献上ス
 ・寺澤家中ノ眼醫師ハ唐津ニ戻ス

157、四月朔日書状
 ・小倉・中津両城大雨ニテ破損ス
 ・溜池ノ石塘等事之外損

158、四月朔日書状
 ・忠興、江戸光壽院屋敷ノ土居ニ小唐竹ノ薮ヲ仕立ントス・・いかにもやせたる小藪か能
 ・土居下ノ水付ニハ柳ヲ植ウベシ

159、四月三日書状
 ・曽我尚祐ノ病ハ半井驢庵ノ薬ニテモ験ナシ
 ・全齋ノ投薬ニツキ懸念ス

160、四月廿三日書状
 ・忠利室千代姫快方ニ向フ

161、五月廿一日書状
 ・千代姫懐妊、京都ノ産醫板坂大膳亮ヲ同船下向スベシ

 

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■「肥後の西郷」は池辺吉十郎には非ず

2023-05-06 07:25:52 | 人物

                   
 司馬遼太郎は「大兵」ぶりから、池辺吉十郎を「肥後の西郷」と呼んだらしいが、それは間違いだとされている。
       ■司馬遼太郎が間違ったと思われる一節

昨日図書館で見つけた「池辺吉十郎の写真」だが、「大兵」という印象は薄い。
身体がでかく、京都公用人(留守居役)を勤めたのは上田久兵衛だとされるのは、鈴木喬先生や西末喜先生である。
司馬先生は事実誤認をしておられるというご指摘であった。だからと言って、上田久兵衛を「肥後の西郷」と呼ぼうというのではない。
久兵衛はとばっちりを受けて、西郷の一味扱いにされて首を跳ねられた。


              
          各藩の京都留守居の宴会の席で、裸でつっ立っているのが上田久兵衛である。

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