津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御扶持方御切米御帳(2)

2023-05-15 08:50:50 | 史料

後家衆
                     西山左京殿    (西山左京=13代将軍足利義輝の遺児尾池義辰の子、熊本藩士1,000石)         
 一 貮拾人扶持               御母儀
                     鳴海丹後
 一 貮拾人扶持               後家
                     桑原主殿助
 一 貮拾人扶持               後家
                                   谷主膳
 一 拾五人扶持               後家
 一 拾人扶持                阿蘇神主娘
 一 拾人扶持                徳雲院
                                   嘉恵九左衛門
 一 拾人扶持                後家
                                   三宅平太夫
 一 五人扶持                後家
 一 五人扶持                多寺瑞仙母
                     波多中庵
 一 拾人扶持                後家
 一 五人扶持                匂當後家
 一 拾人扶持                下田与左衛門女房・娘 (忠利殉死)
 一 五人扶持                田中意徳後家     ( 同上 )
 一 五人扶持                伊藤太左衛門女房   ( 同上 )   
 一 五人扶持                津崎五助女房     ( 同上 )     
 一 五人扶持                小林理右衛門母    ( 同上 )   
 一 三人扶持                野田喜兵衛女房    ( 同上 )    
 一 貮人扶持                杉原少三郎母     ( 同上 )     
 一 拾石                  河田猪兵衛母     ( 同上 )     
 一 貮人扶持五石              宮原勝左衛門女房   ( 同上 )   

 〇御扶持方合百六拾七人扶持
 〇御切米合拾五石

御上臈衆
 一 四人扶持貮拾石             ていよ
 一 三人扶持拾五石             かも
 一 右同                  おとく
 一 貮人扶持拾石              おミや
 一 三人扶持銀六百貮拾目          おやな
 一 貮人扶持銀三百五拾目          おたん
 一 右同断                 おなつ
 一 貮人扶持銀貮百目            おかち
 一 貮人扶持拾石              おすま
 一 貮人扶持拾石              おかめ
 一 壹人扶持三石              くま
 一 貮石                  せき
 一 右同断                 夕きり
 一 壹石五斗                梅かえ
 一 銀八拾目                たつ
 一 貮人扶持七石              おち
 一 貮人扶持六石              なか

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■霜女宛米田是季書状

2023-05-15 07:16:53 | 先祖附

 ガラシャ夫人の最期を伝えるものとしてつとに有名なのが、侍女「霜」が光尚の乞いに対して書き遺した所謂「おしも覚書」である。
今回はその内容ではなく、光尚の指示により霜に対して義兄(姉聟)米田監物(助右衛門是政)の子是季がその旨を依頼した書簡を取り上げる。

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正保四年三月光尚君江戸江御参勤之前、監物是季に御意御座候ハ、秀林院様御生害の事今程覚候者可有之哉、監物母雲仙庵か妹しもと申者御側に相勤、其節之儀覚居可申候、当年ハ御急被成候間、来年御登り之節京都御まん様(烏丸光賢簾中)江御寄可被遊候、其時分しも罷出候ハゝ可被聞召との事ニ付、監物より其段しもに申遣候

    又申まいらせ候 しかれハ ひこさまこゝもと御のほり前われらに おゝせられ候ハ、しうりん院さまの御さひこのやうすついに御聞不被成候、もはや今
    ほとその折ふしの事共くわしく存候ものハあるましく候、それさまハ御そんし有へきとおゝせられ候まゝ私申上候ハ、一段其とうりニて御座候、御はて被
    成候前かとの御つかひをもそれさまなされ候、御さひ期まて付て御入候、御ゆいごんをも御聞候て御出候ニ付、くわしく存られ候と申候得ハ、左候ハゝ今
    度江戸御下りニハ御急きなされ候まゝならせられす候、来年御のぼりの節ハ御まんさま江御より可被成候間、そのきざミそれさま 御まんさまへ御出ニて
    御入候へ、やうす御聞可被成候まゝ此よし私ところより申進候へとおゝせ置れ候、ふしミニて野々口丹波ニも左様ニ仰られ候よしニ御座候、もはやとしま
    かりよられ候まゝ、何事もわすれ申さるへく候へとも、まつ御意の通申つかハし申へきよし御返事申あけ候、めて度かしく
       (正保三年)五月十五日                       なか岡けん物
                御しもさま
                    人々申給へ

  右之通ニ付翌年霜より書付(おしも覚書)差上申候

ハ江州佐々木一族、田中之城主一ニ田中坊比良内蔵助江州比良之城主なり、比良太郎兵衛か親なりか妹也、米田助右衛門是政妻・野々口丹波妻ハ右内蔵助か為ニも姉也、しもハ同国和尓之城主入江兵衛尉に嫁す、兵衛尉父ハ入江順幸入道とて生国ハ摂津之由、織田信長に仕へ候
   一書、霜ハ近江七人衆の内比良娘にて、入江兵衛太夫一本ニ摂津侍女房、入江仁兵衛母と云々、又一書、霜は比良内蔵助妻之妹と有之米田家記 
夫ト兵衛尉山崎合戦の時明智殿の手にて討死、依之其子仁兵衛と共ニ助右衛門方ニ参、仁兵衛ハ与七郎と一所に在之、霜ハ秀林院様江相勤候、外ニ娘壱人有名ハかめ、後ニ京都浪人臼井九左衛門友甫と云者ニ嫁す、此故を以秀林院様御生害後ハ九左衛門所ニ罷越候、

    長岡監物室・雲仙庵とシモ(入江兵衛尉室)との関係を示す略系図
     

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