9年前の今時分■落髪令とは・・・?を書き、その後数回にわたるという遊行上人の肥後入りの跡をいろいろ調べて来たが、この資料の中で触れられている「藩主の不幸後」について、はっきりした年次が判らずにいた。
今般いろいろ資料を整理する中で、下津先生から戴いたお手紙が出てきたが、それがまさしくこの事に触れられていた。
その文章を御紹介して遊行上人に関する私の調査は打ち止めにしたいと思う。
「遊行上人一行は文政九年(1862)三月二十九日、柳川を出立、三池(大牟田市三池)町役人内田宅で昼食(中略)、長洲往還を通って今の荒尾市大島町から肥後に入ります。柳川からの見送りの侍たちは肥後の侍に引き継ぎ帰国。出迎えた侍たちは月代を伸ばしてむさくるしい状態だったとのこと。その訳は同年二月十二日、第九代藩主の斎樹公が逝去。喪中のため細川家では入国を断るけれど葵の御紋の幟を立てて入国します。その日は長洲泊まり。翌日は岱明町の千人塚で島原大変肥後迷惑の犠牲者の追悼を行って高瀬の願行寺に行きます。肥後では珍しい時宗のお寺です。」
願行寺のサイトを見て、竜造寺隆信の首塚がある事を知り、導かれるように島原市の沖田畷合戦場跡のサイトを拝見、思わぬ勉強に及んだ。