長くご厚誼いただいている金沢在住の歴史家・小説家の吉原実氏は、佐久間盛政の弟にして近江・高島藩主及び信濃飯山藩主を勤めた
佐久間備前守安政のご子孫である。
この度、氏の著作(安政公のサイトに紹介あり)並びに論考をお送りいただいた。
論考については当ブログでの掲載に御承引いただいたので、全国の歴史フアンのために四回にわたりここにご紹介申し上げる。
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石川郷土史学会々誌 48号 掲載
近江高島・幡岳禅寺に伝わる佐久間安政像
吉原 実
我が家の菩提寺でもあり、江戸の初期に近江・高島藩主と信濃・飯山藩主を勤めた佐久間備前守安政が慶長年間に建立した禅寺(当時は幡岳寺)という佐久間・柴田両家の菩提寺は、近江高島(滋賀県高島市マキノ町中庄)にある。
金沢城初代城主となった佐久間盛政を兄に、越前勝山城主であった柴田勝政と越中富山城にいた佐々勝之を弟に持つ私の先祖である安政は、元亀元年(一五七〇)の近江・野洲河原ノ戦いを初陣として、織田信長の下で多くの戦いを生き抜いて来た。
その信長が本能寺で自害した後、伯父である柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳ノ戦いに生き残り、北条氏政、蒲生氏郷、豊臣秀吉に仕え、やがて関ヶ原ノ戦いと大坂ノ陣には徳川方として参陣。元和二年、高島から飯山に移封して初代飯山藩主になるのである。
高島藩から飯山藩の飛地となった近江・高島で、佐久間・柴田両家の菩提寺として現在に至っているのがその幡岳禅寺である。
その幡岳禅寺の位牌堂には、柴田勝家と佐久間安政や佐久間一族、吉原家の位牌が多く残るが、それと供に「伝佐久間安政像」という一幅の軸装の肖像画も残されている。
その画は寛永年間に多く描かれたという武家像であり、その画風や時代から長谷川等伯の弟子の手によるものではないかと言われている。
その上部にある賛は、その時代を生き、京都花園・妙心寺(臨済宗)の住持を勤め、後に奥州仙台の伊達氏に招かれ瑞巌寺の中興の祖となった高僧・により、安政の遠忌の折に書き加えられたもののようである。
その内容は生前の安政の人となりを評価したものである。像に描かれている安政の姿は、多くの戦いを生き抜き、一族の死を見つめ、自分自身も多くの敵の将兵を手に掛けた後に得た安楽の人生最後の時を静かに過ごす姿のように見える。数年前に仙台の瑞巌寺により、『訓注雲居和尚語録』『雲居和尚墨蹟続』として詳しく調査され、賛も専門家により解読されたが、その解釈は仏法に何ら縁の無い素人の私によるものであり、正しいかどうかは判断できないが、参考にして頂きながら読者それぞれの心の中での解釈を試みて頂きたい。
将門柱礎、軍壘藩墻。純忠純義、能柔能剛、咲韓彭無王霸之材、威風凛凛。
論蘇張少縦横之策、気宇堂堂。同途不同轍、扶弱不扶強。造次於仁、
知應對進退之有節。自然悟道、會生死涅槃之無常。多時忘喜怒哀楽、平居得恭儉温良
老涯雄志猶益加、暮年壮心終末止。施恩士卒、望功君王。眼晴如閃電、髭髪似微霜。