このシリーズは、東京深大寺にある医療法人社団‐欣助会・吉祥寺病院の医師で明智光秀のご子孫である西岡暁先生によるものであり、これも光秀の血を引く三宅艮斎やそのご子孫、これに連なる江戸時代から、近代初頭にいたる江戸・東京の医学の系統を明らかにされた、大変興味深いものである。
季刊であるため3ヶ月の間が空いたが、その「じんだい・第71号」をお送りいただいたので全文を文字おこしをしてご紹介申し上げる。
今回は細川家にも関りある森鴎外の「護持院ヶ原の敵討」や、三宅藤兵衛と赤穂浪士との関りなども取り上げられている。お楽しみいただきたい。
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吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2023:4:28日発行 第71号
本能寺からお玉が池へ ~その⑮~ 医局・西岡 曉
春なれや 名もなき山の 薄霞 (芭蕉)
この句は、芭蕉さんが「桃青(とうせい)」と名乗っていた時代に「野ざらし紀行」で故郷・伊賀から大和への道行の途中、大和国に入
るにあたって詠んだ句で、季節は春です。そして、芭蕉さんの代表作と云われるのも、春の句です。
その句は、今では誰もが知るところとなっていたので、芭蕉さんの作品だと言うばかりではなく「俳句の中の俳句」とまで云われています。
古池や 蛙飛び込む 水の音 (芭蕉)
この句は、「本能寺の変」(とは無関係ですが、)から百年ほど後の1868年(貞享3年=「野ざらし紀行」の翌年)に江戸・深川の芭蕉
庵で詠まれたもので、芭蕉さんは初めに「蛙とんだり 水の音」という下の句を思い付きました。
これだけでも「俳句の革命」なのだそうです。(ですが、その話はこちらのテーマからは外れるので、ここでは触れません。)
さてここで、これまで幾度も登場された「お玉ヶ池生まれ」(異説あり、と言うか「お玉ヶ池生まれ」が異説とされています。)の「蕉
門四天王」&「蕉門十哲」筆頭で「月下を医す」人=宝井其角(1661~1707)にはいま一度お出まし戴きましょう。芭蕉庵の「蛙」の
(?)句会に参加した其角は、師匠の芭蕉さんに上の句のアイディアを訊かれると直ちに「山吹や」と答えました。
(その後芭蕉さんが直した下の句と合わせると次のようになります。
山吹や 蛙飛び込む 水の音 (芭蕉&其角?)
これはこれで「山吹」(の花の姿)と「水の音」の対比が際立つ名句です。芭蕉さんがこれを採ったとしても、蛙の鳴き声ではなく水の
音を採り入れたことだけで「俳句の革命}と云われたことでしょう。ただ芭蕉さんはそうは思わず、「古池や」としました。
そのお陰でこの(「古池や・・・」の)句は、世にあるすべての俳句の代表作と云われるまでになったのです。
「古池や・・・」の句が「俳句の革命」なら、種痘は「医学の革命」と言えるでしょう。(強引なのは百も承知です。)
「お玉ヶ池種痘所」の発起人・三浦艮斎の先祖である明智岸の妹・ガラシャは、辞世「散りぬべき時・・・」に桜花を詠っています。
ガラシャの辞世の歌は、(土岐)明智一族の心と(日本の)キリシタンの心を重ねて詠ったものです。それから400年、「日本人の心を詠
った」と称する桜花の俳句があります。
ちるさくら 海あをければ 海へちる (高屋窓秋)
この句を詠った高屋窓秋は、三浦艮斎・坪井信道(二代目)等が開設した「お玉ヶ池種痘所」を源流とする東京帝国大学医科大学に学ん
だ産婦人科医でもあった水原秋櫻子の(窓秋は医師ではなく俳句の)弟子の一人です。
ところで、一昨昨年の「深大寺道をゆく」旅では、芭蕉さんの桜の句をご覧頂きました。
さまざまなこと 思ひ出す 櫻哉 (芭蕉)
この句は、芭蕉さんが「芭蕉」になって7年、江戸へ下って16年の1688年(貞享5年。「野ざらし紀行」から3年。)春、故郷・伊賀上
野に帰省した芭蕉さんが伊賀の桜を詠んだもので、その桜の屋敷=芭蕉さんの旧主・藤堂良忠(藤堂藩侍大将。俳人・蟬吟でもありました。1642~1666)の遺児・良長(俳号・探丸)の屋敷は、今「様々園」の名で遺されていて(私邸のため)園内には入れませんが、毎年塀越しに桜花を愛でることが出来ます。
[17] 湯島
「お玉ヶ池種痘所」の発起人・三宅艮斎の先祖である明智岸の妹・玉に洗礼を授けて「ガラシャ」にしたのは、侍女の清原マリア(生没年不詳)でした。清原マリアの父・清原枝賢(1520~1590)の伯母・智慶院は、ガラシャの夫・細川忠興の祖母です。
昔の昔のその昔、清原マリアの先祖と云われる清少納言(同じく生没年不詳)が「春はあけぼの・・・ 夏は夜・・・ 秋は夕暮れ・・・ 冬はつとめて・・・」と書いた時代になるのでしょうか。
不忍池もその東にあった姫ヶ池も、その北の千束池も(と云うことは「お玉ヶ池」も)海だったその頃、海の上から(後に江戸の町になる)陸を眺めた時、上野の山も本郷台地も島に見えたことから本郷台地(の海寄り部分)は湯島と呼ばれるようになりました。
江都名所「湯しま天満宮」(歌川広重)
これが湯島の「島」の由来ですが、「湯」の由来は良く分っていません。(本来なら[8]か[11]でお話しすべきでしたが、)その頃この辺りはまだ「本郷」ではありませんでしたので、「本郷台地」とは言えません。尤も「台地」もは見えなかったから(現在の本郷も含めて)「湯島」と呼んだ訳で、湯島に出来た集落の中主なものが「湯島本郷」と呼ばれ、室町時代に略して「本郷」になったと云われています。
(「本能寺の変}の主要メンバー・斎藤利三の曽孫と思われる)徳川綱吉は、湯島の地に1690年(元禄3年)、湯島聖堂(@文京区湯島1丁目)を建てました。百年後ここは幕府の学問所=正平坂学問所になったので、「学校教育発祥の地」とされていますが、元は儒学に傾注していた綱吉が孔子廟として建立(正確には、林羅山が1632年に上野に建てた施設の廟=忍岡聖堂を移築)したものです。
正平坂学問所は、明治維新後明治政府の「昌平学校」になり、1869年に([9]で述べたように、医学校が「大学東校」、開成学校が「大学南校」になったのと同時に)「大学校」になりました。大学侯は国学と漢学の学校でしたが、国学と漢学との抗争(?)が激化したため、2年後に廃校されてしまいました。一方(?)大学南校は外国語と洋学の学校でしたが、1874年に「東京開成学校」と統合して「東京大学」となります。その際、東京大学文学部が「史学哲学及び政治学科」と「和漢文学科」の二学科で発足しましたので、廃校されて6年の(大学南校の源流である)昌平学校が、ちゃっかり(?「東京大学文学部」の名称で)復活したとも言えるようです。
ところで、芭蕉さんは「奥の細道」の旅から戻った次の年・1692年(元禄5年)の桃の節句に、宝井其角ともう一人の高弟・服部嵐雪(1654~1707)を招きました。その折芭蕉さんは、「草庵に桜桃あり。門人に其角・嵐雪あり」と称えた上で、次の句を詠みました。
両の手に 桃と桜や 草の餅 (芭蕉)
それに応えて、という訳ではありませんが、嵐雪は春の句と言えば、次の梅の句でしょう。
梅一輪 いちりんほどの 暖かさ (嵐雪)
服部嵐雪は、江戸・湯島の生まれと云われ(異説もあります。)、湯島天神の鳥居には、嵐雪の本名=服部久馬之助の名前が刻まれているそうです。もし嵐雪が湯島の生まれならば、この句の「梅」は、当時から有名だった湯島天神の梅(=「湯島の白梅}?実際、湯島天神の梅はその8割が白梅だそうです。)を詠ったものかもしれませんね。
[18] 一橋
徳川幕府五代将軍・綱吉は、母・桂昌院(お玉の局)の祈祷所として1681年(天和元年)に護国寺(@文京区大塚5丁目)を、幕府の祈祷所として1688年護持院(現共立女子大学@千代田区一ツ橋2丁目)をと、二つの巨刹を建立しました。この中護持院は、綱吉の死後1717年(享保2年)に火災で焼失したため護国寺の境内に移され、護持院の跡地は火除け地となり、「護持院ヶ原」と呼ばれるようになりました。「江戸名所図会」によれば、護持院ヶ原はその後、冬から春にかけては将軍家の狩場として使われましたが、夏から秋にかけては江戸の市民に開放され、市民の憩いの場になったそうです。
森鴎外の小説に、「播磨国飾東郡姫路の城主酒井雅楽頭忠実の上邸は、江戸城の大手向左角にあった。・・・」と始まる話があります。
この「姫路の城主酒井雅楽頭忠実」は、[10]で触れた酒井抱一の兄・忠以(姫路藩第2代藩主)の次男(ですが、藩主としては4代目)です。この小説のヒロインは「細川長門守興建の奥に勤めていた」娘ですが、細川興建は、ガラシャの夫・忠興の弟・興元を初代とする矢田部藩(@茨木県つくば市)の第8代藩主です。細川興元は、忠興とガラシャの次男(=明智光秀の孫でガラシャがキリシタンとした)興秋を養子にして、後には興秋とその母・ガラシャの勧めで自身もキリシタンになったそうです。ガラシャの夫・忠興の母・沼田麝香も、ガラシャの死の翌年キリシタン沼田マリアになりました。
鴎外のこの小説は、漱石の「吾輩は猫である」の8年後同じ雑誌「ホトトギス」に掲載されました。題名を「護持院ヶ原の敵討」と言い、そのクライマックスの舞台に護持院ヶ原が使われています。「ホトトギス」主宰・高浜虚子(1874~1959)が居(兼「ホトトギス」発行所)を構えたのは、護持院ヶ原から九段坂を挟んで西に半里ほどの処でした。
灯をともす 掌にある 春の闇 (虚子)
ところで「敵討」といえば、なんといっても「忠臣蔵」でしょう。討ち入りの後、大石内蔵助始め17名の赤穂浪士が熊本藩お預けとなり、浪士を引き取りに赴いた旅家老(他藩で言う江戸家老)が明智光秀の玄孫・三宅藤兵衛重経で、下屋敷で出迎えたのが藩主で同じく明智光秀の玄孫だったこと、そして熊本藩士・堀内傳右衛門が大石内蔵助に三宅藤兵衛は明智左馬之助(秀満)の子孫であると教えたことを[8]でお話ししました。この時の将軍事件のきっかけ(=浅野内匠頭の切腹)を作ったと云われるのは、誰あろう(斎藤利三の曽孫と思われる)徳川綱吉です。また討ち入りの日の月番老中は稲葉正往でしたが、正往は[14]で述べたように斎藤利三の玄孫です。
赤穂浪士の討ち入りから150年近く後の1856年(安政3年)、徳川幕府は洋楽の研究教育のため「蕃書調所」を九段坂下(@千代田区九段北1丁目)に開きました。「蕃書」とは、今でいう「洋書」のことです。蕃書調所の教授(後には頭取)には、後年「お玉ヶ池種痘所」の発起人筆頭となる箕作阮甫が、同じく発起人(で織田信長末裔・坪井信道の娘婿)になつ坪井信良が教授手伝いになりました。6年後蕃書調所は、護持院ヶ原に移転して「洋書調所」になります。
絵本江戸土産「護持院ヶ原」(歌川広重)