『慶長日件録』に現れる佐久間備前守安政とその一族
吉原 実
天武天皇第三皇子である親王を遠祖とし、公家で半家の清原国賢を父に持つ舟橋秀賢が、慶長五年(一六〇〇)正月より同十八年正月十八日まで著した日記『慶長日件録』という文献がある。その原本は不明だそうだが、写本は前田家が所蔵との事。当時の日本には、東に関ヶ原ノ合戦で勝利した徳川家康・秀忠父子、西には淀殿・秀頼母子の豊臣政権、相方が相並んで存在するという複雑な時代であった。その様な混沌とした時代を両方のバランスを取りながら生き抜こうとした公家衆のしたたかな姿を見る事ができた。日記には秀賢と親しく交わる近江高島藩主・佐久間備前守安政やその一族の様子も登場する。安政の室の実家である勧修寺家も義兄・光豊の時代で、もちろん秀賢との関わりも方々に登場する。それらに目を向けながら当時の時代背景を理解する事も、歴史を知る観点からも必要かと思われるのである。
慶長六年(一六〇一)
十二月廿四日
「參揚明處、廣橋大納言、勸修寺宰相、御前有之、秀賢堂上之事、以兩人御披露之處、御免由兩人被申、則稱号舟橋可稱之由仰也、稱号代々高倉雖相搆、高倉他家有之、粉敷被思召之由、如此被改者也、」
(近衛、広橋兼勝、勧修寺光豊らが立ち合い、秀賢の姓を清原から船橋に変える事が認められた時の様子である。この日が初昇殿でもある)
慶長八年(一六〇三)
七月廿八日
「今日、内大臣秀頼公被迎妻室云々、江戸大納言家、御息女也、伏見ヨリ大坂ニ到舟船悉、」
(大坂の豊臣秀頼の所へ江戸から千姫が輿入れした日である)
八月十一日
「乙未、晴、秀頼卿御祝、其爲御禮諸公家下向、及予也亦大坂ニ下、冷泉、山科、四條令同船、申刻到大坂、着岸、秀頼卿拝出、長印軒宅一宿、」
十ニ日
「晴、齋了、着衣冠、秀頼卿亭参、先揃家衆御禮、有御振舞、次淸花等也、有一献、御太刀進上、晡時各退出、平野大炊人道己雲齋許ヘ行、」
(大坂城の豊臣秀頼の所へ、冷泉為景・山科言継・四條隆昌たち他の公家衆と共に下向した。前月にあった秀頼と千姫の婚礼の祝いを持参したようである。秀賢が十二日に寄った平野氏は、平野大炊九朗右衛門長景の事であろう。父の長治は清原宣賢の孫であるので、秀賢とは親戚にあたる。細川幽斎(藤孝)も親戚にあたる。長景の弟・長泰は賤ヶ岳七本槍の一人)
十三日
「晴、早々長印許へ行、長印令同道、片桐市正許へ行、式目假名抄遺之、一段満足由也、今度、秀頼卿自萓堂、式目假名抄之事被仰出、書本出來間、市正令同道、城ニ参、則式目抄上下ニ冊、居臺并錫酒鍋三つ進上也、見事出來御祝着之由、御返事也、帷子壹重袷壹銀子五枚致拝領、尤眉目之至也、未刻退出、長印令同道、長印私宅に歸、次今中彌三郎許、振舞行、今中勘右衛門始逢宅、及黄昏、歸大炊許ニ、」
(長印を同道させて片桐市正(且元)の所へ行く。とは、京都の行政権を司る役職()の責任者の事。式目名抄とは御成敗式目(貞永式目)を注釈し本にした物。秀賢の四代前の清原が著した。秀頼の母(・淀殿の事)からも要望があり、持参したようである。今中勘右衛門とは光安の事で、元々足利将軍家の奉公衆であったが、この当時は浅野長政に仕えている。秀賢が大坂に下向した折には泊まる長印軒、この家の長印という人物は誰であろうか。専門家の方のご教示も頂いたが、長印という者らしいと言う事以外は判明しない。御調も名なのか職業なのかも判らない。秀賢に写本を依頼しているので、裕福な商人なのかも知れない)
九月廿一日
「さくま久衛門女中より二荷三種給之」
(佐久間安政の奥方より四個(二荷)の酒樽と三種類の酒の肴を頂く)
十二月七日
「勸修寺宰相殿へ兩種二荷遺之、儀同殿爲一周期故也、」
(勧修寺光豊の父であった晴豊(儀同)の一周忌のお供えを届けたようである。命日は翌日の八日であるが、我が家の菩提寺である近江高島の幡岳寺の過去帳にもその様に記載が残る)
慶長九年(一六〇四)
二月廿日、
「佐久間久右衛門、簾中令來給、杉原一束給也、」
(佐久間安政の奥方が訪れ、紙を一束戴いたそうである。安政の奥方は公家・勧修寺晴豊の娘で、後の光寿院である。杉原紙は播磨国杉原で透かれた和紙)
四月十六日
「晴、朝食、片桐市正可被振舞由、被示之間、僧正令同心、向彼宅、於書院、片市相伴、有振舞、此間榜庵被來、則令雑談畢、巳刻、市正令同途、御城へ登、有暫、秀頼様御対面、御手取熨斗鮑給也、予秀頼様へ進物、御太刀一腰、三畧踈本一字不見點也、黄昏書之進也、則有御被見、御祝着之由也、次秀頼様御母堂様へ杉原一束、箔帯ニ筋裁一筋上ニ置之進上、又秀頼様政所様へ錫五封進上、午刻歸宅、次平野己雲齋嫡男五郎左衛門、加藤主計頭家中ニ居住也、」
(秀賢が片桐市正を同道させて大坂城へ行く。大坂城では秀頼や淀殿、千姫に色々な進物を献上している。親戚の平野長治の嫡男・五郎左衛門長時と会う。長時は加藤清正の家臣であった)
六月三日
「今夜九條殿、殿中納言、御納婦迎也、其身三好小吉息女也、小吉死後、秀頼卿御母堂爲猶子養育也、今度秀頼卿御母堂、悉皆御造作也、路次行粧擔物等驚目者也、」
(言中納言・九条幸家が正室を迎える。相手は三好小吉(豊臣秀吉の姉の子である羽柴秀勝)の娘で。実は秀勝と淀殿(茶々)の妹であるとの間にできた娘であったが、秀勝亡き後に淀殿の猶子として育てられた。その嫁入り支度を淀殿がすべて行い、輿入れ道中の荷物の豪華さに人々が驚いたと書いている)
七月四日
「晴、佐久間九(久)右衛門女中天朔誕生女子云々、日取共書付遺也、従女房衆、爲祝義、双樽兩種遺也、」
(佐久間安政の奥方に女子が誕生したので、日取共書付と祝いを持って行かせたようである。天朔とは、天(神)が示した第一日目という意味か暦の事だろうか。当時、安政は伏見の屋敷にいたと思われるので、七月一日に生まれた情報が三日後のこの日に着いたのかもしれない。安政と奥方の間には六人の娘がいたが、この日に生まれたのは何人目の子であったのだろうか。我が家の初代の腹違いの妹たちにあたる)
十二月八日
「今日勸修寺儀同、晴豊卿第三回忌也、昨日可焼香之由、内々被示之間、辰刻、向彼亭、座敷相伴衆、廣橋大納言、中御門中納言、亭主、飛鳥井宰相、鷲尾宰相、阿野少将、左衛門佐、小川坊城、土御門左馬助、予等也、此外僧俗卅人斗有也、」
(公家の勧修寺晴豊の命日である。その三回忌。秀賢たち公家衆は昨日すでに焼香を済ませていたようである。この時の勧修寺家の当主は光豊で、父の跡を継ぎ後陽成天皇の武家伝奏をしていた。佐久間安政の室・光寿院の兄にあたる)
慶長十年(一六〇五)
六月十五日
「佐久間九衛門息女來入、三荷三種与給之、奴僕以下悉薦晩飡、」
(佐久間安政の娘が酒と肴を持ってきたので、下男たちも含めて皆で夕食に頂いたとの事である)
十二月十八日
「晴、齋了、佐久間久右衛門息女歸宅、此中依病惱、於予宅、養生也、本復之間、被歸宅、」
(安政の娘が病の為に秀賢の自宅で療養していた様子。病が癒えたので、この日に帰宅したとの事である。佐久間家との昵懇な間柄が判る記事である。齋了とは、毎日の神事を終了したという事)
慶長十一年(一六〇六)
十一月廿ニ日
「晴、早朝、板倉伊賀守へ予知行所、人足、爲公儀、淀之塘、御普請、罷出由、承届候、然は予也手前屋敷相替ニ付、屋作普請、人足無之間、被用捨様ニト申遺處、則同心也、仍人足召遺畢、次九條殿ヘ参、御對面也、次親王御方へ参、論吾従今日令讃初給、次曼受院宮より二種二荷給也、次九條殿二荷三種給也、次佐久間久右衛門女中、二荷二種遺也、」
(朝早くに京都所司代・板倉勝重の所へ行っている。秀賢の知行地にある淀の堤での公儀の普請の為に人足が必要なのだが、自分の屋敷の建て替えの人足が無くなるが構わないと言ってあった様子。それを重勝が了承したので、早速人足を送ったとの事。この勝重の嫡男が重宗である。親王の所へ論語を教えに行っている。この日が初回のようである。親王とは、後陽成天皇の皇子・政仁親王(後の後水尾天皇)の事だと思われる。曼殊院(天台宗)は宮門跡なので、この時の宮はであろうか。佐久間安政の所へ物を届けている。「二荷二種」とは天秤棒で担がれる荷物二つで一荷と数えるそうであるので、二荷で四個の荷物。この場合は酒樽の事であろう。「種」とはおそらく酒の肴の事ではないだろうか。二種で二種類の酒の肴)
三月廿一日
「晴、今夜新宅へ移徒、仍爲祝義、佐久間久右衛門女中より双樽兩種被恵也、」
(禁裏増築の為に移転した秀賢の新居が完成し、この日から移ったようである。佐久間備前守奥方よりお祝いの酒樽二つと肴を贈られる)
慶長十二年(一六〇七)
四月廿一日
「晴、女房衆、八千代丸、金丸等、伏見叔母之許へ行、佐久間久右衛門女中衆、予女房衆姉也、」
(秀賢に仕える女たちの姉たちが、佐久間安政の奥方に仕えていた様子。因みに、「船橋家譜」には、秀賢の妻は近江の六角義賢(承禎)の娘(従妹・叔母の子)となっている。当時の佐久間家の伏見屋敷は古地図で確認すると、現在の京阪電車・墨染駅の近くにあるが、京屋敷は二条城の近くにあったのであろうか。伏見と京を結ぶ鳥羽街道や竹田街道を往復したのであろう)
十月四日
「佐久間久右衛門息女三人、被來、美濃帋五束給也、」
(安政の娘三人が、秀賢の所へ来たようである。美濃紙を三束、手土産に持参した)
慶長十五年(一六一〇)
正月十五日
「十帖たひ一足佐久間久右衛門女中より給也、」
(安政奥方から十足の足袋の一束を貰ったようである)
十八日
「晴、今日右府、惣禮也、仍早々令衣冠、殿下令御禮、登城御禮之次第、先摂家二献、次公家衆一献有也、」
(豊臣秀頼(右府)が公家衆たち皆の礼を受けた。秀賢が九条忠栄(殿下)と共に大坂城に登城したようである。秀頼より摂関家と門跡には二献、その他の公家衆には一献があった)
廿八日
「晴、参番、内義、伏見佐久間久右衛門へ行、」
(秀賢が宮中へ出向く当番であったようである。奥方が伏見の佐久間屋敷に出向いたとの事)
六月十五日
「壽光院得度、法身院僧上、戒師、」
(佐久間安政の正室・光寿院の母で、勧修寺晴豊の妻であった寿光院が得度した。寿光院は土御門有脩の娘で修子の事である。法身院僧上とは高雄山・神護寺の法身院普海僧上の事だろう)
十六日
「壽光院より諸白樽、肴等給也、豊國ニ位、一折恵也、」
(豊國ニ位とは豊臣秀頼の事である)
七月十一日
「佐久間久右衛門女房衆來入、朝食薦也、諸白双樽、肴三種給也、午刻久右衛門始而被來、太刀折帋、帷子、單服等恵也、女房衆、單服、帷子被恵之也、子共各々有音信、」
(京の秀賢宅に佐久間久右衛門の女房衆(婦人たち)が来訪。朝食を薦め、諸白両樽と肴三種を給わった。諸白(もろはく)とは、麹米と蒸米両方に精白米を使う酒造りの製法。今の清酒のようなものらしい。午後には久右衛門自身が初めて来訪。太刀折帋(折紙)・帷子(かたびら)・単服などを戴く。女房衆には単服と帷子を戴く。子供達にもそれぞれ音信(いんしん・贈り物)を戴く)
慶長十六年(一六一一)
十月十六日
「晴、早朝、佐久間備前女中より重箱餅給也、」
(佐久間備前の奥方から重箱の餅を給わった。これより先、秀賢は九月廿四日に京から江戸に出府。駿府滞在を経て十月十四日に江戸に到着し、日本橋近辺に借宿している)
十七日
「佐久間備前女中より白米壹石五斗、塩噌給也、朝喰二佐久間備前へ行、」
(白米や塩・味噌を給う。その後に朝食まで御馳走になったようである。佐久間家との親しい間柄を表している)
十八日
「佐久間備前守より酒樽、鮭一尺海老、豆腐等贈給也、」
(いろいろと戴いているようである)
廿日
「晴、午刻御豪様へ進物共進也、備前より案内者被添遺也、御豪様へ箔貼帯五筋、京殿へ帯一筋、女共より縫箱帯二筋進也、」
(秀賢が将軍・秀忠夫人のを訪ねるにあたり、佐久間安政より案内者を遣わされたようである。高価な帯を土産に持参するようだ。京殿とは京極高次の室で江の姉、の事であろう)
廿三日
「佐久間備前守へ朝飡ニ行、次三縁山増上寺へ見物に行、」
(佐久間備前守邸へ朝食に出向き、その後、増上寺へ行ったようである)
廿六日
「山、冷令同心、佐久間大膳亮許へ朝飡に行、」
(冷泉為景・山科言継と共に佐久間大膳亮勝之の所で朝食を馳走になったようである。佐久間勝之は安政の弟である)
十一月朔日
「晴、佐久間備前女中より鳥子榮螺等給也、」
(安政の奥方より、とりのこ和紙やサザエを戴いたようである。とりのこ和紙とは鳥の卵のような色をした厚手の)
四日
「吉田周慶來談、晩飡ニ行、論吾一部遺也、入夜新庄越州より紅花廿袋賜也、佐久間備前へ朝飡行、山冷令同心畢、盛法印参會、新庄越州へ行、」
(新庄越州は麻生藩二代藩主・新庄直定の事。佐久間盛政の娘・虎姫の違父弟にあたる。山科と冷泉と共に佐久間備前の所に朝食に行く。盛方院とは、堂上家の吉田兼右の一族で宮内卿・吉田浄慶の事であり、幕府の医官でもあった。周慶も一族であろうか)
五日
「晴、拂曉、佐久間備前より使者被示、鶏時後、女中男子誕生云々、木造長吉より蝋燭五十挺給也、次佐備州へ男誕生見舞ニ行、太刀馬遺也、有盃圴、従盛方院、書状共致來也、佐久間備前より紅花五十袋給也、同大膳亮より蝋燭百挺給也、同久六より紅花十五袋給也、木造左馬助内義より紅花十袋給也、板根傳三郎見舞ニ來、」
(佐久間備前守安政に、朝早くに二人目の男子(安長)が誕生したようである。腹違いの嫡男の勝宗とは二十三歳の年の差があった。秀賢が慌てて見舞いに行き、太刀と馬を遣わした。盃酌があった。医師・吉田浄慶から書状が来る。お産の現場にいたのであろうか。佐久間勝之や勝宗から紅花や蝋燭を給わっている。木造長吉・左馬助は福島正則家臣の南伊勢の木造(北畠)氏の一族だろうか。嫡男・勝宗(久六)は元和二年(一六一六)三月に、二十八歳で家督を継ぐことなく早世してしまう。その奥方は信濃・上田藩主の真田信之の娘・まさ(見樹院)であった。佐久間家の家督は結局、この日に生まれた安長が将来継ぐ事になる。一方、佐久間安政には三人の奥方がいた。最初の奥方は、織田信長が紀州を手中に収めた折に、紀州有田の土豪・保田(湯浅)知宗が、安政の伯父である柴田勝家に人質に差し出した娘を娶り、その婿養子となり保田安政と名乗った。勝宗は保田氏との間の子である。次に佐々成政の娘を娶る。二人の間には娘が一人いたと伝わる。最後は公家・勧修寺晴豊の娘を奥方にする。この日記に登場する光寿院で、勧修寺宰相・光豊の妹、京・鹿苑寺の住持・の姉である。因みに、我が家の初代は紀州・保田氏の庶家である吉原氏を継いだと思われる。最初の奥方との間の子で、佐久間家の系図に出ない勝宗の弟であろう)
六日
「晴、上洛令用意畢、備前女中より小袖一重給也、及晩、新庄越州へ行、此間備前暇乞、被來云々、逐跡、備州、越州へ被來、越州内者新亟、折檻佗言、再三令助言、今夜相済畢、」
(秀賢が上洛の用意をした。佐久間安政の奥方より小袖一重を戴く。晩に新庄直定の所に行っている間に安政が暇乞いに来たが、秀賢がいないので追って新庄邸にやって来たようである。因みに、新庄直定の嫡男・直好の奥方は佐久間安政の娘である)
七日
「晴、新因州、同蔵人暇乞、被來、四時出宿、佐備前處立寄、令暇乞、有盃圴之後、乗馬、山、冷同心畢、狩野川一宿、入夜雨沃、」
(秀賢が京への帰路に着く。出発の前に新庄因幡守(直定の従兄弟・秀信か)と蔵人(祖父の直昌か)が暇乞に寄る。四時に宿を出て、佐久間備前の屋敷に寄り別れを告げる。一献酌み交わして乗馬。冷泉爲景が同道する。川で宿を取るがひどい雨のようである。狩野川は静岡県の伊豆にある天城から沼津に至る川)
最初に述べたように、この船橋秀賢の日記『慶長日件録』が書かれた時期は、歴史的にも非常に混沌とした時代であった。
しかし、秀賢の日記からはその様な緊張感が伝わらない。日常的な公家衆や武家たちとの交流に勤しむ姿が描かれている。
その中に、当時の近江高島藩主であった佐久間備前守安政や、その奥方との交流の様子が多く現れる。おかげでこの時代に生きていた先祖の姿を見る事ができたのである。
安政同様、親戚である細川家、平野家や浅野幸長、加藤清正、最上義光、池田輝政、松浦鎮信、山名豊国、結城秀康、京極高知、吉田兼見・兼治、三渕藤利や京都所司代・板倉勝重などとの交流も盛んである。
秀賢は慶長十八年六月ニ十八日(異説あり)に四十歳で亡くなっている。ちょうど大坂ノ陣の二年前である。元々虚弱な体質であったようで、豊臣氏の滅亡をその目で見る事なく、その早い生涯を閉じたのである。
参考文献
『慶長日件録一・ニ』(続群書類従完成会)
『新訂寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)
『系図纂要』(名著出版)
『勧修寺家系図』
『公家諸家系図』
『宮廷公家系図集覧』(東京堂出版)
『新庄家系図』
拙稿「初代金沢城主・佐久間盛政の系譜」(同人誌「櫻坂」十四号)
拙稿「隔冥記に見る勧修寺家と飯山佐久間家の交わり」