津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■チャットGPTにチャレンジしてみました。

2023-05-09 13:04:23 | 徒然

チャットGPTにチャレンジしてみました。
まずは「インターネットサイト・肥後細川藩拾遺について」と質問しましたら、回答次の通り。

「肥後細川藩拾遺」というインターネットサイトについて、私は2021年9月までの情報しか持っていませんので、具体的な詳細については知りません。そのため、このサイトに関する最新の情報や具体的な内容についてはお答えすることができません。

ただし、一般的な情報として、肥後細川藩は日本の江戸時代に存在した藩の一つで、現在の熊本県を治めていました。細川藩は歴史的に重要な藩であり、その歴史や文化に関連する情報を提供しているウェブサイトである可能性があります。

もし「肥後細川藩拾遺」という具体的なウェブサイトについて詳細を知りたい場合は、インターネットで検索するか、直接そのサイトを訪れることをおすすめします。

ものの数秒で帰ってきた答えですが、誠に正直というかあっけないというか、まだまだ我がサイトの認識とはこんなものなのだと思ったことでした。

 

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■不平等条約と開かずの金庫

2023-05-09 10:12:42 | 歴史

 昨日は午後から熊本市南区の釈迦堂にある清田家をH氏にお供して訪問した。約2時間半ある事についてのH氏の取材である。
以前所さんのそこんトコロ「開かずの金庫」-熊本・清田家を書いたが、私はわざわざ録画したBL-Rをお送りいただいた。
この際出てきたメダルが「万延元年遣米使節」の小栗上野に随伴した熊本藩士・木村哲太がその記録にとどめたそのメダルであった。
清田家ご当主・清田泰興氏の解説によるとこの旅は「日米不平等条約」の解消を意図するものであったろうと仰る。
それはまさに、木村哲太の詳細な記録の中に遺されている。
青潮社版の木村哲太の「航米記」p189に大統領の俸禄が書かれている。「二万五十圓($)。我銀一万八千七百五十両」という書き込みがあるが、銀一両といえば銀4.3匁、18,750×4.3匁=80,625匁、60匁が1両だから約1,000両、1両=10万円とすると約1億円となる。
そして当時の大統領の給料が1億円だという話になるが、この計算からすると1$は5,000円ほどになる。
まさに外交的非力がこう事態を招いた。

 さて清田家の「開かずの金庫」実際拝見すると「船箪笥」状のものであったが、ここから出てきたのが大統領から贈られたというメダルであった。
それぞれの役職に従い、金・銀・銅のメダルが送られているが、哲太は銅メダルを頂戴している。
直径約30㎜ほどのその実物を拝見した。

                      

 2時間半ほどH氏の質問は続いたが、それは何故清田家に此のメダルが存在するのかという事であろう。
木村哲太の渡米の費用約100両は肥後藩が負担している。この決済に清田新兵衛なる人が関わっていなかったかという疑問である。
残念ながらそれにこたえる資料は得られなかったが、大変有意義な時間を過ごすことが出来た。
以前訪問したのは熊本大地震の前であったが、このお宅も大被害が出た。熊本市の「重要建築文化財」の指定を受けたこの建物の修復には1億数千万円がかかったそうだが、熊本市の多額の補助が入っている。
そういう意味において、是非活用の機会を含め見学(無料)にお出でいただきたいとはご当主・泰興氏のお話しである。

付け足し:昔は住まいの周辺に堀が掘られていたらしく「船着き」がある事に気が付いた。
     その他、種々の文書の写真撮影などをさせて頂いた。

                                                               
                  

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■所在不明ー自主製作映画「山頭火」

2023-05-09 06:00:33 | 熊本

             

 40年ほど前、新町在住の榎本茂・健造兄弟が自主制作された8㎜映画「山頭火」(正式題名不詳)が行方不明になっている。
この写真はその映画で山頭火を演じた弟の健造氏である。そしてその背後にある絵は、この映画が鶴屋百貨店で試写会が催されるにあたり、急遽日本画家・MT氏(元・史談会会員)が描かれたものである。
お話を伺うと、京都西陣から生地を取り寄せ、昼夜兼行で8日間で書き上げられたという。試写会会場に飾られた。
40年が経過しているから、大変失礼だがお二人の御存命のほどは存じ上げないが、この映画のフイルムをどなたかが借り受けたままお返しにならないらしい。たしかな話ではないが山頭火ゆかりのH町の方ではないかという。
新町の古家を見付て「貸家札」を張り付けたり、諸道具を集めたり、兄の茂氏がカメラマンを勤めそれこそ阿蘇のススキ原に踏み入り、ススキの葉で顔を切り血だらけの姿で撮影に臨まれたという。
まさに兄弟お二人の魂の籠った映画なのだが、何とかその所在を知りたいものだ。
出来うれば複製のフイルムを制作して新町に保存できればと考える。私が所蔵する8㎜映写機を寄贈しても良いと考えている。

コメント (2)
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