明日20日の史談会では在熊の歴史研究家・福田正秀氏の「宮本武蔵」についてのお話しをお聞きする。
今回の企画は、武蔵の命日を意識してのことではないが、奇しくも今日は武蔵の命日である。
講演に参加したいというある方からのお電話で、「西の武蔵塚」では今日19日に武蔵の墓前祭があるとお聞きして気が付いた。
ふと、又武蔵の本当のお墓は何処なのだろうと改めて考えてしまった。武蔵のお墓と伝聞されるものは「武蔵塚」「西の武蔵塚」そして「泰勝寺内」の三ヶ所がある。
「古今肥後見聞雑記」(寺本直廉編著)に以下のような記事がある。これは龍田町弓削にある、いわゆる「武蔵塚(公園)」を指している。
しかし後段では自らの伝聞として、武蔵の墓は「無雙寺内」だと語っている。泰勝寺のことだと理解すると、現在では墓石も見受けられるが、当時はなかったらしく、これは光尚の賢慮で「武蔵には国中に敵が多く墓が荒らされることを考慮してのこと」だとしている。
私はこの記述の中にある「無雙寺」について詳しい事を知らないが、泰勝寺の塔頭として存在したのか?
国道57号線から泰勝寺に到る道筋の途中に大渕和尚(春山和尚とも)の「引導石」というものが存在する。
これを考えると、泰勝寺境内の墓地が武蔵のお墓だとするのが妥当のように思える。
弓削の武蔵塚は細川家代々の参勤交代・御帰国を見守り、西の武蔵塚では女人のお墓が寄り添い武蔵の一面が垣間見える。
それぞれのお墓がそれぞれの意味合いを伺わせている。
一、飽田郡弓削村邊に松山の月に武蔵塚あり石塔五尺七寸程
厚さ九寸計幅下の方にて二尺壱寸計り二重臺之上の臺石
高壱尺五寸程幅三尺二寸四方下の■ハ四尺余也将棊頭也銘に云
正保二乙酉年
兵法第一 新免武蔵居士之墓
五月十九日
右武蔵塚明白なりといへ共予曽て聞しハ武蔵死去の時
光利公御意にして此所ハ石塔にて等して骸骨は龍田の無雙
寺境界に葬しと云墓石なし是 國君の賢慮ゟ出たり武
蔵事諸国に為敵人多若又尋来り死骸を堀て仇を報ん
イてかくハ被仰付しものならん
事を恐れさせ及ふ故也ときけり