津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■史談会講演会と武蔵の命日

2023-05-19 07:12:03 | 熊本史談会

 明日20日の史談会では在熊の歴史研究家・福田正秀氏の「宮本武蔵」についてのお話しをお聞きする。
今回の企画は、武蔵の命日を意識してのことではないが、奇しくも今日は武蔵の命日である。
講演に参加したいというある方からのお電話で、「西の武蔵塚」では今日19日に武蔵の墓前祭があるとお聞きして気が付いた。

 ふと、又武蔵の本当のお墓は何処なのだろうと改めて考えてしまった。武蔵のお墓と伝聞されるものは「武蔵塚」「西の武蔵塚」そして「泰勝寺内」の三ヶ所がある。
「古今肥後見聞雑記」(寺本直廉編著)に以下のような記事がある。これは龍田町弓削にある、いわゆる「武蔵塚(公園)」を指している。

しかし後段では自らの伝聞として、武蔵の墓は「無雙寺内」だと語っている。泰勝寺のことだと理解すると、現在では墓石も見受けられるが、当時はなかったらしく、これは光尚の賢慮で「武蔵には国中に敵が多く墓が荒らされることを考慮してのこと」だとしている。
私はこの記述の中にある「無雙寺」について詳しい事を知らないが、泰勝寺の塔頭として存在したのか?
国道57号線から泰勝寺に到る道筋の途中に大渕和尚(春山和尚とも)の「引導石」というものが存在する。
これを考えると、泰勝寺境内の墓地が武蔵のお墓だとするのが妥当のように思える。
弓削の武蔵塚は細川家代々の参勤交代・御帰国を見守り、西の武蔵塚では女人のお墓が寄り添い武蔵の一面が垣間見える。
それぞれのお墓がそれぞれの意味合いを伺わせている。

     一、飽田郡弓削村邊に松山の月に武蔵塚あり石塔五尺七寸程
    厚さ九寸計幅下の方にて二尺壱寸計り二重臺之上の臺石
    高壱尺五寸程幅三尺二寸四方下の■ハ四尺余也将棊頭也銘に云
            正保二乙酉年
      兵法第一 新免武蔵居士之墓
            五月十九日


    右武蔵塚明白なりといへ共予曽て聞しハ武蔵死去の時
    光利公御意にして此所ハ石塔にて等して骸骨は龍田の無雙
    寺境界に葬しと云墓石なし
是 國君の賢慮ゟ出たり武
    蔵事諸国に為敵人多若又尋来り死骸を堀て仇を報ん
       イてかくハ被仰付しものならん
    事を恐れさせ及ふ故也ときけり

 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和六年」を読む (2)

2023-05-19 06:10:18 | 先祖附

忠興文書-元和六年(閏十二月廿五日、忠興致仕し隠居す)

211、六月八日書状
 ・木下延俊(忠興女婿)ノ家臣丹羽九郎兵衛幕府ニ目安ヲ上グ
 ・同上、幕府取上ズ
 ・同上、九郎兵衛妻子ヲ捕フ
 ・同上、土井利勝ノ帰府ヲ待チ九郎兵衛ノ身柄ヲ延俊ニ渡ス様ニ才覚
 ・延俊女(忠興孫)ノ縁談・・・(未だ確定せず)

212、六月八日書状
 ・(松井家江戸證人)松井政次帰国ス(替り之證人に松井興長母・自得院江戸着による)
 ・栗石ノ売却
 ・和子入内ノ進物ハ不要ノ由ナルモ便宜次第差上ゲベシ
 ・市橋長勝歿シ、甥長政家督ヲ相続ス、驚申候事
 ・小倉城修理ヲ許サル
 ・酒井忠行ト松平定勝女トノ婚礼
 ・先年五百石積以上ノ船ヲ禁止スルニ大船建造ノ噂アリ、小倉藩ニハ四百石以上ノ船ナシ
 ・黒田長政竹千代及徳川頼房トノ縁談ヲ才覚ス
 ・長政危篤ノ事小倉ニテハ噂ナシ

213、六月八日書状
 ・興元女(忠興姪)ヲ善悪ニ構ハズ嫁セシメタシ、
 ・興昌、井上正就女トノ縁談ノ吉左右ヲ待ツ

214、六月晦日書状
 ・(六月十八日和子入内)土井利勝ヨリ入内ノ祝儀ハ手軽ニスベシトノ指示アリ
  国松ニ緞子・銀子ヲ進献スベシ
 ・藤堂高次トノ親交ヲ勧ム
 ・忠利、毛利高成ト佐久間安政女ノ婚約ヲ斡旋ス
 ・奉公人之儀、知足院ハ各別ニ候間、抱可申候
 ・竹千代・国松叙位ノ祝儀ニツキ土井利勝ヨリ指図アリ
 ・大阪城普請ハ十月中ニ終ラン
 ・江戸下向ハ一月トナラン

215、七月三日書状
 ・江戸・小倉・京上方ニ流行病
 ・烏丸光賢室(忠興女・萬姫)男児出産
 ・上方・小倉大水
 ・黒田長政病癒ニテ出仕
 ・長政、権門ト姻戚タラント才覚ス
 ・後藤又一郎(又兵衛子息)ノ病、唐人薬ノ使用
 ・立花宗茂ノ書状詳報セザルハ不念
 ・在国ノ大名ヨリ幕府出頭衆へ普請ノ様子ヲ報ズル者アレド左様ノコト厭ナリ
 ・普請ニ遅レズ石垣を崩サズ竣工スレバコトナシ

216、八月十日書状
 ・志んほち(六丸=光尚)病気・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・志んほち= 新發智)
 ・忠利、加藤嘉明と入魂、左様ニ可在之こと
 ・黒田長政徳川頼房トノ縁談を才覚ス
 ・小倉ニ唐船著ク

217、九月十日書状
 ・竹千代任官ノ祝儀ノ進物ニ付土井利勝ノ指示未無之
  銀子十五貫目・金入緞子二十端ヲ送ル
  入内祝儀ノ進物ノ輕キハ大阪城普請ニ支出多キ諸大名ヲ勞ル為ナラン
 ・木下延俊家臣ノ目安
 ・與安法印女、本多正純養女トナシ松倉勝家ニ嫁
 ・島津家久トノ親交ハ無用
 ・田中忠政ノ訃(柳川城主‐元和六年八月七日歿)
 ・柳川藩仕置ノ為岡田将監下向予定ノ報懇切、小倉ヲ通ラバ謝礼セン

218、九月十日書状
 ・細川興昌(矢田部藩主・忠興甥)及び同人姉ノ夫々ノ縁談ノ吉左右
 ・忠興眼病再発ス

219、九月二十三日書状
 ・土井利勝ヨリ至急出府スベシトノ指図アリ
 ・遠路病中ノコトナレバ十月中出発ハ不可能ナラン

220、十月十三日書状
 ・忠興去四日小倉出船ー九日摂津傳法著ー十日大坂普請場見廻ー十一日出京ー十二日御入内御礼
 ・土井利勝ノ指図ヲ誤報シテ急ギ出発、下々甚ダ迷惑、以降ユルユルと可参
 ・竹千代元服任官ノ祝儀ハ濟、国松不明
 ・忠利、故田中忠政ノ屋敷ヲ望ムー忠利夫人為ト望ハ如何?

221、十月十六日書状
 ・廿日ゟ廿ニ日ノ間吉田出立、十三泊程ニテ江戸到着ノ予定
 ・忠興江戸入ノ際、曽我古祐・妻木之徳・細川玄蕃ノ出迎ヲ留ムベシ

222、十月十六日書状
 ・柳河在番中ノ内藤政長・秋元泰朝ノ書状ヲ預リテ先ニ送ル

223、十一月三日書状
 ・忠利ヨリ迎トシテ書状菓子筋子ヲ送ラル

224、十一月四日書状
 ・三嶋ニ著ス
 ・出迎ハ無用
 ・忠利帰国ノ暇ハ忠興ノ江戸到着後タルベシ
 ・民部卿局ト前後シテ下向ス

225、十一月六日書状
 ・七日江戸到着ノ予定 
 ・振舞ニハ心安キ衆ヲ招クベシ

226、閏十二月七日書状(忠興十一月七日江戸到着、忠利ハ同月廿八日江戸出立・帰国ノ途ニ就ク)
 ・忠興病ム
 ・忠利先月十五日吉田参著、女御ヘノ祝儀ヲ済シ下国ス

*忠興元和六年閏十二月廿五日致仕、薙髪シテ三斎宗立ト號ス、
 元和七年四月十日帰国ノ途次、京都吉田ニ立寄リ、ヤガテ帰国シ、小倉ヨリ中津ニ移ル
 忠利モ江戸ヨリ帰国、封ヲ嗣ギ、六月廿三日中津ヨリ小倉ニ移ル
1911、烏丸萬宛閏十二月廿五日書状(大日本近世史料・細川家史料八 p72~73)

(226~278は年未詳のものが紹介されている。これについてはここでは取り上げず、次回からは元和七年へ続く)

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