貞享二年八月十九日、江戸にて不行跡が咎められて多くの人たちが処分を受けている。
時の当主は綱利44歳である。この年の六月藩主綱利は熊本に帰国している。そんな中、江戸定府のいわゆる綱利側近の人たちが大量に処分されている。
江戸詰めの大御目付当たりの報告であろうが、在熊の重役たちは定府の綱利側近の振る舞いを苦々しく感じてきた。
綱利はその翌年の参勤で「貞享三年閏三月六日熊本御発駕 四月六日江戸御着」している。
主のいない江戸藩邸で、当然のことであろうが綱利の決済の元に処分を断行している。
■以下は江戸にて不行跡知行召上扶持方下さる
・前川与三兵衛 名門・三淵家の一門である。延宝元年七月廿三日筑後北之関において、従兄弟である前川勘右衛門と藤田助之進
同縫殿之進が意趣あって戦った際、三淵家当主山名十左衛門と共に助力して藤田父子を討取る働きをしている。
そんな与三兵衛が扶持召し上げとなって、息助武に至り絶家している。
・谷与三右衛門 谷与三右衛門は三百石、この処分により拾人扶持被下置、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気被成御免候
(惣左衛門ト改)
・田中次太夫 田中次(治)太夫は二百石、 六人扶持被下置、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気被成御免候
■以下は江戸にて不行跡暇
・坂井十兵衛 坂井十兵衛は二百石、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰、六人扶持被下之
・続五左衛門 続五左衛門は二百石、御暇被遣候、断絶か
・門司源兵衛 門司源兵衛は百五十石、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰四人扶持被下之、のち御扶持被下
置衆・御奉行所触 四人扶持、息・善右衛門が跡を継ぎ明治に至った。
■常々行跡叶わず知行召上当前扶持方
・里杢之助 里家は「殉死の家」この杢之助は養子(甥、実・岩崎武兵衛二男・兵四郎 )で二百石、その養子・政之助が
妙解院五十回忌にあたり(十三歳)二百石を拝領、これは家祖・杢之助が光尚に殉死した筋目によるものと考
えられる。
■常々不行跡暇
・続三四郎 三百五十石、御暇被遣候、断絶か
それぞれの人たちの「不行跡」の内容が知れないが、名のある人たちが先祖から継承してきた家禄を失った。
自業自得とは言えこれだけまとまっての処分であるから、江戸藩邸の「ゆるみ」が見て取れる。
史料は良きことも悪しきことも紙面に残す。関係者には申し訳ないとも思うが、このような事の原因は何かと考えるのが人情というものである。