細川忠興の死後の八代の情勢に対する光尚の神経質的な行動は、過去にも何度か触れてきたが、丹羽亀丞の「松江城秘録」等で知られるように徹底している。
特に最側近・長岡河内(村上景則)の、三斎遺言の実効を計らんとする行動に対する嫌悪感である。
結果として、三斎と光尚の父・忠利の間で交わされた八代支藩創立は反古となった。家老松井興長を八代城主として入城させ、細川行孝は宇土の地に宇土支藩の創立で決着せしめた。
幕閣と周到な打ち合わせが為された結果であり、当の松井興長にも事前に知らせなかったと綿考輯録は記録している。
光尚は、村上景則には扶持を与えて隠居を進めたが、これを拒否して離国している。その返事ともされるのが以下の「御請」とする書簡である。
村上水軍の末裔である景則は、父・隆重と二代にわたり忠興に仕え、戦場で功名を上げ10,000石を知行せられてらだひたすら忠興→三斎の代に仕えた。
御請
一妙解院御代ニ私参上申間敷と申上候儀、 公儀
御奉行衆も御存候ニ、今更熊本江被 召出候儀も
不被為成被 思召候、又私参上仕儀も不成儀ニ御
座候由 御諚御尤ニ奉存候事
一妙解院様御代ニ私参上不仕わけ色々御座候得共、
事永ク御座候間、有増申上候、 三齋様私ニ御懇ニ御
座候故、小倉ゟ中津江御隠居之刻、せめての御奉公ニ
御隠居之御供仕、御一世者御奉公仕度奉存候、御
手せばニ被為成候間、縦御そうり取御一人之御仕合ニ御
座候共、其御さうり取を仕可申覚悟ニ御座候由申上、御
供不仕申候間、 妙解院様江不参不仕候事
一御合力可被 仰付候条、御國之内何方ニも罷居、宮松殿
御見舞申候様ニと 御諚之通忝奉存候、如何様共
御諚次第ニ可仕儀ニ御座候得共、御奉公も不仕候ニ御恩を
いたゝき申候儀、如何ニ奉存候間、御暇被下候者忝可奉
存候、此等之旨宜被仰上可被下候、以上
七月廿日 長岡河内守 花押・印
長岡(沼田)勘解由殿
丹羽亀丞殿