津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■慶安三年というボーダーライン

2023-07-02 07:33:44 | 歴史

 細川家に於いては各家の一つの家格として、旧知・新知という区別がある。
旧知の家は「元亀天正以来矢石を冒し、干戈を踏み、死生の間を馳突して君主を擁護し、或いは武勲抜群の誉ありしものゝ子孫」とされており、新知はそれ以外の家というまことに明快に線引きされた。
しかしそれは慶安三年という時代を以て線引きされている。これは「慶安年間を以て治乱の境界」だとしているのだが、慶安三年と言う年はそもそもどういう年であろうか?
端的に言うと細川綱利が幼くして藩主の地位についた年である。
新知・旧知という考え方は、宝暦に入ってからの細川重賢と大奉行・堀平太左衛門主導による宝暦の改革による「世減の規矩」により決定図けられ、新知の家については下記の様に減知が実行された。

       慶安三年以降新知の家
          5,500石~4,500石  500石減
          4,400石~3,400石  400石減
          3,300石~2,200石  300石減
          2,200石~1,200石  200石減
          1,100石~   600石  100石減
             500石~   150石    50石減
             100石新知        御擬作 
以上の様に知行の減俸が実施された結果、「宝暦四年此ヨリ減候知行・60,094石程、同28,770石程、右同蔵米擬作取・30,610石程」となった。
減知約12万石となり、重賢の宝暦の改革の第一歩である。又、田添源次郎による13年余に及ぶ地引合(検地)による年貢の増収も多大であった。
「此地面諸御郡にて七百町餘、米高千石餘程有之候」と「堀大夫行蹟略記」は記す。

これは代々が累積した経済的な行き詰まりを解決するための大英断であっただろうが、一方では綱利により取り立てられ加増が為された諸士の禄を回収する目的も伺えるような気がしている。それが慶安三年というボーダーラインであろう。
また、養子による相続は減知され、また武道・芸術の免許の取得の条件が付けられるなど、先祖以来の知行を維持することの難しさが伺える。
忠興の「実績主義」が忠利により否定され家格が固定していく中で、公儀普請や火事・水害などによる復旧、また干ばつや飢餓などによる知行の維持は大変困難で、これだけの負担を強いた大改革も、重賢が没するとまた経済的疲弊を産むこととなっていく。
先に書いたように、細川家の財政は三井越後屋の「不埒なる御家柄」と揶揄され、またこれを踏み倒したというのだから、これは綱利の寵臣の加増分は反古にしたいという気持ちにもなったことであろう。
但し、綱利により過分の加増を受けたお宅でも、旧知の家も存在し、これは加増分が対象になったのではなかろうか。
宝暦の改革以降門閥主義もやや影を薄くし、実力が伺える人たちの登用が行われ、その代に限り職責相当のお足し高が給されていくことになる。

 

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