熊本史談会では二回にわたり、在熊の西南の役研究の第一人者・勇知之先生のお話を伺ってきた。
大変興味深いお話で、その後直接お電話でお話ししたりして、現在は古文書の解読なども含め西郷周辺の事につき虜になっている。
私はそんな西郷と、高祖父上田久兵衛が西南戦争のある一時期、川尻の町の至近の場所でそれぞれの立場でその成果を得ようと努力する中で、二人が相まみえることはなかったのだろうかと言う、素朴な疑問を持っている。
西郷が川尻に入ったのは明治十年の二月廿一日の夕刻だとされる。
戦火を恐れた川尻の町民は、前の川尻町奉行・上田久兵衛に町の安寧の為に尽力を要請した。
久兵衛は前知事(細川護久)の「大義名分を弁へ専ら鎮静を主とせよ」との論旨を得て、士族約1,500人の協力を得て「鎮撫隊」を結成し、川尻のみならず近隣の村々の治安維持に尽力した。
川尻町史は「明治十年西南の役薩軍肥後に入るや池邊吉十郎と議し、二月二十六日川尻町に赴き、川尻岡町米村金八の家(現川尻小学校内)を以て事務所に充て、従前川尻町奉行の名により、仮に民政を布き以て薩軍の為に便宜を計り、傍、人民保護の任に當り斡旋最も努む」と記す。
「幕末京都の政局と朝廷ー肥後京都留守居役の書状・日記から見たー」の編著者・宮地正人東大名誉教授によると、久兵衛と西郷の邂逅については明確に否定されておられる。
久兵衛は元和元年(1864)七月の京都留守居役拝命から(8月1日京都着)~慶應元年(1865)十二月九日の解任までの約16ヶ月という短い期間ながら、京都における公武合体に向けて「一会桑」と中川宮を主とする公家衆との周旋に奔走して驚嘆に値する働きを見せ、これに対峙する立場であった西郷らからすると、久兵衛の解任は喝采ものであったようだ。
親徳川から親朝廷へと舵を切りつつある藩の上層部からすると、このような久兵衛の働きぶりはかえって危険に思えてきたのであろう。
解任に当たって西郷は「近来細川の議論も相変、上田休兵衛・林新九郎の両人は国元え被打下、井口呈助と申者交代として被差出、此人は余程着実の人にて御座候由、上田第一会津の手先にて御座候処、国中におひて議論相起、右の次第に及候由御座候、細川正義に立替候はば、頓と頼方無之ものと相成可申義に御座候」と記し、幕府側の頼みになる存在がなくなったとしている。その結果は歴史が示すとおりである。
上田久兵衛の京都留守居役解任からちょうど二年が過ぎた十二月九日「王政復古クーデター」が行われた。
熊本人は徳富蘆花の「肥後の維新は、明治三年に来ました」とする著「竹崎順子」の冒頭の部分をすぐ採り上げるが、大いなる難産であったことは間違いない。
川尻に於ける久兵衛の鎮撫の活動は、一時期官軍の称える所であったが、五月に入ると獄に繋がれ九月三十日に至ると家族にも伝えられることなく斬首となった。
「其方儀朝憲ヲ憚カラズ、名ヲ鎮撫ニ仮リ、兵器ヲ弄シ衆ヲ聚メ其長トナリ、西郷隆盛・池部吉十郎ノ逆位ヲ佐ケ、榊原庄一外四名ヲ擅ニ斬殺セシムル科ニ依リ、除族ノ上斬罪申付ル」との申し渡しであった。
久兵衛の無念は「西郷の逆意を佐け」の一言に尽きると思う。また、細川家の一官吏としての拘束が強く、長州や薩摩の下級武士のような自由な活躍の場も封じ込まれてその実力が結果を得なかった事であろう。
西郷もまた、明治の「維新」といわれる種々の業績を成し得たにもかかわらず、ともに戦った人々に裏切られて下野し、一介の薩摩人として思いもかけぬ騒乱の首謀者となって非命の人となった。
西郷の死は九月廿四日である。その日を待ち受けたかのように、六日後上田久兵衛は西郷に一味したとして斃れた。
彼の無念は、一度は「裏切りとも思える藩是の変更」による辞職、二度目は「西郷の逆意を佐け」たとする裁判判決の主意による死である。