熊本史談会の最長老K様は93歳、まだまだお元気で次回の例会にもご出席のご予定である。
そのK様のお祖母様の御実家は熊本藩士の野田家、その祖・野田喜兵衛は「忍者です」と仰る。(奥様の御実家と勘違いしていたが?こちらは雑賀氏だった)
「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」には、「忍之者」として七人の名前がはっきりしている。
拾五石五人扶持 吉田助右衛門
同 野田喜兵衛
知行五十石 沢 吉右衛門
拾石二人扶持 福川小右衛門
同 松山小兵衛
同 下川嘉兵衛
同 上野又右衛門
細川家の資料は上記のように記しているから間違いないのだろうが、私は少々疑問を持っている。
というのは、野田家の遠祖は、天草家の家老職であったとされる。
何故か丹後の細川家を頼る様にとの遺言で細川家と接触したというから、誠に不思議な縁である。
綿考輯録には次のように記されている。ここに喜膳という名があるのが喜兵衛である。
天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、
丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月
迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをお
めすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候
ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様
子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
三斎様御詠歌
天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり (綿考輯録・巻ニ十六)
細川家の「忍びの衆」は、森田誠一氏の「伊賀・甲賀資料」調査から細川家には18家の忍者が存在していたとされる。
朝倉・浦・牛島・岡村・栗原・沢・沢村・坂井田・下川・花田・藤村・福川・松田・村田・森川・山内・吉村・笠ETCである。すでにこの資料では野田氏の名前はない。
例えば(寛永七年三月)廿日の奉行所日帳には
一、対馬殿(宗義成)下関へ御着之由候間、高麗人参壱斤御用候間、才覚仕、上々をかいよせ可申旨、被 仰出ニ付、御買物奉行
野田喜兵衛参候而、かい候へと申渡候、銀渡人ニ御鉄炮衆一人付遣候、
とあり、お買い物奉行を勤めている。
「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」は、三斎隠居後から肥後入国の間のものだが、沼田勘解由(延元)が寛永元年に死去していることから、寛永元年以前のものだろうと推察されている。
つまりその間は「忍びの者」、寛永七年に至ると「御買物奉行」、出世をされたと言えばそれまでだが、野田家がいわゆる忍者の伊賀・甲賀の家系だとは思えないし、なんとも理解に苦しんでいる。
「お前、忍者をせい・・」といわれて「はい畏まりました」とすぐにできるものでもなかろうし・・・
K様にそのことをどうお考えかお伺いしてみたいと思っている・・