津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■赤子の旅

2023-07-19 08:28:12 | 歴史

        一猪八郎様來ル廿二日五時の御供揃ニて、此元御發途之筈ニ候、
         此段觸之面々えも知せ置可申旨御用番被申聞候條被奉承知、
         觸支配方有之面々は可被相知せ置候、以上      
            文化六年巳七月十九日    御奉行中

猪八郎君とは齊茲の五男、文化六年三月十八日に誕生された。僅か四ヶ月ほどしか経過していない中で江戸へ下られたが、赤児の旅は無理というものだろう。
案の定というべきか翌七年十二月廿九日二歳で江戸で死去している。

生母は松岡氏女・為のち春、二男三女を為したがすべて二歳以下で夭折している。熊本生まれ2人、江戸生まれ3人、つまり齊茲公はこの側室を伴って参勤されていることが判る。
この間、他の側室が子を為されることはないところをみると、お気に入りの側室であったのだろう。

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■内分とか分知とか・・・

2023-07-19 06:41:56 | 歴史

 ある資料を読んでいたら、「分知或内分奉願候儀・・・」とある。「内分分知」と言う言葉があるが、この資料によるとどうやら、内分と分知は違うもののように思われる。
例えば細川家においては、宇土細川藩と細川新田藩がありこれは内分分知だとされる。本家の表高54万石は変わらない。
そこから考えると「分知」とは、表高を分けるという事だろう。

 細川家家臣のお宅をみると、弟や二三男に自らの禄を分け与えて新家を創家している例は多く見受けられる。
これがいわゆる分知ということだろう。分知したことにより本家の禄高は当然減少する。
そして上記資料を見ると、分知する主が弟に300石分知すると当主は1,700石になり、2,000石の役職には就けないという指摘である。
「大身之面々茂おのつから小身ニ罷成其上重キ御役儀被仰付候儀茂差支候・・」とする。
役高相当の家禄がなければ、「良い役職には就けませんよ」と言う話である。そういう決まりが存在した時代がある。「それでもよければ500石を限度にどうぞ」と規定した。これは当然高禄のお宅でしか通用しない話である。
しかしそれ以前、500石と言う限度がない時代は、親族のH家(200石)は弟に80石を分知し、自らは120石取りとなり両家は明治を迎えている。
役儀にはこだわらかったのだろう。

 しかし宝暦の改革が行われると、優秀な人材の登用が行われ始め、先の決まりは反古となり禄高に関わらず重要な役儀に着くようになってくる。
200石位の人が、500石・700石の役職につくようになる。そうすると、役高と家禄の差については「足高(たしだか)」と共に「役料」が支給されるという現実的な手法が取り入れられた。
優秀な人材が新たな時代を作っていくとともに、家禄の大きなお宅の当主が「重き御役儀」にありつけないという状況を生んだ。

 一つ引っかかっているのは、■藩債処分という大盤振舞いで触れた件である。
細川本家は表高54万石だが、宇土支藩3万石、新田藩3.5万石を分知しているから実高70万石からすると63.5万石が対象になるのではないかとも思えるが、これはどうやら表高が対象であり本家がすべてを受領したものではないのか。
そして内分分知高相当分が、本家から渡されたと理解しているのだが如何であろうか。
御承知の方のご教示をいただきたい。

 

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