「手討達之扣」という史料が上妻文庫にのこされている。
その中に「久武権之助仝金吾手討宜敷御賞詞」という一文がある。
明和六年七月
上田夘助組
久武兵助嫡子
久武権之助
右同人二男
久武金吾
右両人儀一昨晩報恩寺於寺内寺本無右衛門
支配之御長柄組新右衛門と申者色々過言慮
外之躰難■通兄弟ニ而討果申候段相達申候
依之兄弟共ニ先相慎兵助儀心を付候様申聞
置昨日右之趣御奉行所江罷出相達申候処兵助
并ニ子供慎居候ニ不及候段御奉行所ゟ申来候事
七月十二日
上田夘助組久武兵助忰共間於報恩寺御長柄
之者討果候仕形年齢ニ者精悍敷儀共有之候
畢竟平日教育宜敷故と被存候以後共ニ
心を附教育可仕旨兵助可申聞旨御家老間於
列座助右衛門殿被申聞候間私宅ニおゐて兵助
江右之趣申渡候事
大変寛容な処分と言うより御賞詞を頂戴する異例さに驚かされる。
この事件の詳細についてはかって「潜渓先生書簡」に記録されている一文を御紹介したのでご覧いただきたい。
久武家は我が家、及び母の実家にも連なる親戚筋である。久武権之助は綺石という俳名をもつ俳人としても知られる。