「開結」という難しい言葉がある。「御赦免開で開発した開地(開墾地)を藩に差上げて知行高に繰り込むこと」をいう。
細川家の表高は54万石の侭だが、この開結によって藩の実高は増加したことになる。
元禄九年・寺本兵右衛門が552石もの「開結」をしたという記録が残るがこれが一番か?
単純に1石を収穫する為の農地面積を1反とするなら、552反(165,600坪)を開墾したという事になる。
膨大な労力を費やしたことになる。
宝永六年には一村家3代目の200石・弥三兵衛が420石を開結して一気に家禄が増加した。
3代・弥三兵衛 御詰衆・四番横山藤左衛門組 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
開結四百二十石(村数五拾ケ村)を知行として願い出・・・地方宛行とした
(松本寿三郎著「近世の領主支配と村落」p292)
620石取りとなった一村家は弥三兵衛の息・市郎兵衛の代にいたり宝暦六年には鉄炮廿挺頭になり、更に「天明八年十一月(三拾挺頭)~寛政二年二月(依願免)鉄炮五十挺頭」となっている。
開結による家禄の増加が御役をもたらしたことが判る。処でこの「開結」は何故か享保年間には禁止されて、家禄を増やすという事はなくなっている。
一村家は天草島原の乱に於いては細川家家臣ではなく、浪人者として参陣しているが大きな働きが認められて召し出しとなっている。
綿考輯録(巻五十)は、その一村家召し出しの経緯を次のように記している。
有馬にて手首尾能働候、熊本ニて浪人御振廻之節弥三兵衛ハ洩候処、即晩為御内意
今日ハ思召有之候而之事也 御国を出候体ニ仕御国内ニ居候へと御懇之御意有之、諸
浪人不残罷立候跡にて有馬之功を以弐百石拝領