読書連鎖がまだ続いている。
明治二年六月の版籍奉還(大名が治めていた土地(版)と人民(籍)を朝廷に変えさせるという政策)にあたり、領主権を奪われる旧藩主については、その藩の禄高の10%が与えられた。
それも表高(54万石)ではなく小物成などを含む実高が基準になったというから、細川家に於いては70万石とか75万石とかの1割を受け取けとられたか?(詳細な史料が見当たらない)
あるデータによると幕末期の米の値段は、「(江戸の米) 1 石(150 ㎏) 慶應二年秋では銀 585 匁、約 99.450 円」とあるから、約70億円をもらえることになる。
一方では、各藩には膨大な借金が有り、これが頭の痛い問題であった。近い時期においても明治元年新政府は陸軍の編成の目的で諸藩に万石当り300両の納付を指令しているから、熊本藩に於いては1,620両を拠出したことになる。
はたしてこの金額はどこから賄ったのだろうか。
「読書連鎖」の中で読んだ、大石慎三郎著「江戸時代」に、私が長年解決しえなかった「藩債処分」についてほんの少し触れられていた。
明治四年七月の廃藩置県(江戸幕府以来の藩を廃止し地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革)にあたり、新政府はそれまでの幕藩体制にとどめを刺すため、旧藩の不安や不満を抑えるために各藩の債務を一部廃棄、その他は明治政府が肩代わり返済するという驚くべき手に出ている。
その総額は3,600万両だと大石氏は指摘される。その内の約1/3は破棄、その他については新政府が返済するというのである。
破棄された1/3の債務は天保14年以前のもので12,000両だとされる。驚くべき債務が一気に免除された。
そして、発足時の新政府の収入は120万両だとされる。どうやって返済していったのか、大いなる疑問を今後勉強していこうと思っている。
これらの説明の記述の最期に大石氏は、旧藩主にとって「現石の10%の家禄を保証されたうえ、旧債一切を明治政府が引き受けてくれたということは、領主権の喪失にひきかえても、なお維新変革は領主たちにとって笑顔でむかえいれるべき慶事であったということになる。領主階級は維新変革による被害者ではなく利得者なのである。」と記しておられる。
薩長土肥による維新の大業に乗り遅れたとされる熊本藩は、賞典禄こそ得ることは出来なかったが、細川護久は3000両の賞典金をもらっている。