豊肥本線阿蘇‐宮地の間に、その線路と国道53号線を挟んで南北に細長い竹原という地域がある。ここが細川家家臣・竹原氏の父祖の地である。
その祖は阿蘇家家臣だが、丹後の細川家に仕官し、細川家の豊前→肥後移封によって父祖の地肥後へ帰ったという不思議な因縁がある。これは昨日書いた野田喜兵衛と共通する事例である。
細川幽齋が秀吉の命で文禄四年(1595)六月薩摩に下った折出会った、島津氏に仕えて書記などを勤めた聡明な若い家臣(9歳)をもらい受けて連れ帰った。田邊城籠城では幽齋の身近に近侍した。これが竹原氏の租・市蔵惟成である。
市蔵・惟成(庄右衛門・玄可)
* (藤孝君)文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、
(中略)
御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日
連歌御興行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其意に
応し竹原市蔵とて九歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に
叶ひ頻に御所望にて被召連、御帰洛被成候
市蔵は阿蘇家の庶流にて、宇治の姓也、竹原村に住する故竹原と云し也
阿蘇六十五代惟種の代に、不足の事有、安芸・上総・紀伊と云三人のもの
薩摩に来て、島津家に仕へ、大友と合戦のとき、紀伊は討死、安芸ハ高名
有、九千石を領、其子孫ハ段々知行分り小身にて、一門広く何れも阿蘇何
某と名乗候、上総も高名して、感状三通有、上総嫡子市蔵惟成と云、幽斎
君丹後へ被召連、慶長元年正月御児小姓被召出、知行百石被下、後に庄
左衛門と改候、三斎君百五十石の御加増被下、御伽に被仰付候
能書なるを以、幽斎君御代筆被仰付、書札の事、故実をも御伝へ被成、吸
松斎へ御相伝の御次并写本も仕り、一色一遊斎へも仕付方の弟子に被仰
付候、三斎君よりも御口授等被遊、御両君御卒去後も猶稽古不相止、隠居
名を墨斎玄可と云 (綿考輯録・巻四)
* 田辺城籠城 始終御側ニ罷在候故、働無之候 (綿考輯録・巻五)
元々は阿蘇家の家臣だが市蔵が薩摩の島津氏の許に在ったというのは、肥後に於ける阿蘇家の対立の中で、心ならずも薩摩へ逃れた阿蘇一族に随伴し薩摩に住み着いた。
市蔵は、偶然にも幽齋により丹後に誘われ細川家の臣となり、忠興・忠利の働きにより父祖の地熊本へと凱旋した。
誠に数奇な運命をたどっているが、父祖の地の肥後入国時は感慨深いものがあったろう。
時代が下り細川家が8代・重賢の時代に竹原勘十郎(玄路)なる人物があり重賢の側用人を勤めている。
財政面で岐路に立たされていた重賢は後に大いなる評価にいたる「宝暦の改革」に手を付ける。
その為に有為なる人材の発掘が当面の課題となった。宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門を重賢に協力に推挙した竹原勘十郎は、この市蔵の六代の孫にあたる。
初代市蔵が薩摩での幽齋との邂逅がなければ、宝暦の改革における堀平太左衛門の活躍は見られなかったかもしれない。