423年前の今日、細川ガラシャがその生涯を閉じた。無念の生害ではあるが、信仰のもと御主の元へ旅立たれた。
昨晩は久しぶりに、2008年(平成20年)に宮津市で行われた「歴史文化シンポジウム」の記録集「細川ガラシャと宮津城下町」と、2018年に熊本県立美術館で行われた「細川ガラシャ」展の図録を開いてみた。
前者には、記念講演にガラシャの研究で有名な京都橋大学学長(当時)の田畑泰子氏が出て居られ、講演について文字おこしをして紹介されている。
この中で田畑氏は二つの明らかな間違いを仰っている。後の質問で「異議」が出なかったのも不思議である。
■ 1、天正11年玉子は次男興秋を生んでいます。この年に秀吉に再婚を許されるわけです。(中略)許された年に次男興秋を生んでいま
すので、離婚していたとはいえ、夫とは会っていたということになります。でないと子供は生まれませんので。
つまり玉が味戸野幽閉中に忠興が会いにやって来たとお考えらしい。これはあり得ない話で、玉は興秋を身ごもったあと味戸野に幽閉されたと考えるのが順当だろう。
別途「細川ガラシャ略年表」が掲載されているが、ここにも間違いが有り興秋の生年は天正12年になっている。
■ 2、玉子との間に忠隆・興秋・忠利それから女子三人が書いてありますが(系図)、これだけ子供をもうけているのに、少し問題な
のですが、郡氏(お藤=古保生母)と清田氏(?)という側室がいたことがわかります。
このことは玉子にとつては納得できないという問題もあるわけです。
ここで明らかな間違いは、清田氏は立孝・興孝の生母であり女子は生んでいない。氏は「万姫」を玉が産んだと勘違いされている。(文中にその名前が登場する)万姫の生母は明智次左衛門女であり、(この側室は明智一族であり、玉の公認ではなかったのかと私は考えるが)明らかな間違いである。
氏が納得できない問題と指摘するのは、玉が遺言した「お藤(後の古保=松井興長室・松の丸)を継室にしないように」という強い意思表示のことであろう。郡氏は天正十年にお藤を生んでおり、いささか玉のジェラシーが感じられる。
まさか、ガラシャ夫人の生涯の前日にこのような史料を開いたのは、苦々しい事であった。