津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■於・くまもと文学歴史館 20日迄

2023-07-17 10:49:32 | 展覧会
 私の様に歴史に親しんでいる者にとっては、上妻博之氏は膨大な書写資料を残された偉大な人物としてとらえがちである。
「上妻文庫」と命名され、その史料は公開されて、我々は熊本近世史の勉強にその恩恵を多大に受けている。
一方では植物学者であられ、牧野富太郎博士との交流もあって、今般の企画となった。
明治13年生まれの祖母は、何故か牧野富太郎博士のフアンであった。「無学の人が日本一の植物の先生になられた。何でも一生懸命にやればこうなれる見本のような人」と言うのが祖母の弁であった。
NHKの朝のドラマも大変評判のようだ。植物学に向かう人が増えるかもしれない。
私としては、古文書に親しむ人が増えて、「上妻文庫」が読み解かれていくことを期待したい。
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■細川ガラシャ(明智 玉)忌 ー つづき

2023-07-17 08:43:59 | 歴史

                

 熊本県立美術館で開催された「細川ガラシャ」展の図録は、ガラシャの生涯を知るのには一等の資料である。
ガラシャが書き遺した書状は17点が確認されている。

 ガラシャの書状の特徴は、宛名の下に「た・多」と書かれているが、これはガラシャの名前・たまからきている。

例えば三宅藤兵衛に宛てた書状には「そつ(帥=幼名)まいる より
                              」と書かれている。
書状の多くは松本小侍従という女性に宛てたものだが、これは忠興の命により松本因幡に嫁いだ人物だが、名前は判明していない。「まつもとないき(松本内儀)」という宛名も見え、小侍従が結婚後も親密な書状のやり取りがあったことを伺わせている。
これ等の書簡は「松本文書」として、国立国会図書館が収蔵している。

 その他宛名に、「そうしゅんさま」「ひこのしん□」「ゑもしさま」等があるが、「ゑもしさま」は忠興のことである。これらすべてのあて名の下に「」と記されている。
ただ一点「ただおき殿」宛の書状があり、これだけは「からしや より」と記されている。
玉がキリシタンである事を細川家史料が秘匿しようとする中、大いに注目すべき貴重な書状である。
ただし、内容は誠に穏やかな家族の平安を知らせるものである。

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■細川ガラシャ(明智 玉)忌

2023-07-17 07:30:49 | 史料

 423年前の今日、細川ガラシャがその生涯を閉じた。無念の生害ではあるが、信仰のもと御主の元へ旅立たれた。

昨晩は久しぶりに、2008年(平成20年)に宮津市で行われた「歴史文化シンポジウム」の記録集「細川ガラシャと宮津城下町」と、2018年に熊本県立美術館で行われた「細川ガラシャ」展の図録を開いてみた。
前者には、記念講演にガラシャの研究で有名な京都橋大学学長(当時)の田畑泰子氏が出て居られ、講演について文字おこしをして紹介されている。
この中で田畑氏は二つの明らかな間違いを仰っている。後の質問で「異議」が出なかったのも不思議である。

■ 1、天正11年玉子は次男興秋を生んでいます。この年に秀吉に再婚を許されるわけです。(中略)許された年に次男興秋を生んでいま
   すので、離婚していたとはいえ、夫とは会っていたということになります。
でないと子供は生まれませんので。

 つまり玉が味戸野幽閉中に忠興が会いにやって来たとお考えらしい。これはあり得ない話で、玉は興秋を身ごもったあと味戸野に幽閉されたと考えるのが順当だろう。
別途「細川ガラシャ略年表」が掲載されているが、ここにも間違いが有り興秋の生年は天正12年になっている。

■ 2、玉子との間に忠隆・興秋・忠利それから女子三人が書いてありますが(系図)、これだけ子供をもうけているのに、少し問題な
   のですが、郡氏(お藤=古保生母)と清田氏(?)という側室がいたことがわかります。
   このことは玉子に
とつては納得できないという問題もあるわけです。

 ここで明らかな間違いは、清田氏は立孝・興孝の生母であり女子は生んでいない。氏は「万姫」を玉が産んだと勘違いされている。(文中にその名前が登場する)万姫の生母は明智次左衛門女であり、(この側室は明智一族であり、玉の公認ではなかったのかと私は考えるが)明らかな間違いである。
氏が納得できない問題と指摘するのは、玉が遺言した「お藤(後の古保=松井興長室・松の丸)を継室にしないように」という強い意思表示のことであろう。郡氏は天正十年にお藤を生んでおり、いささか玉のジェラシーが感じられる。

まさか、ガラシャ夫人の生涯の前日にこのような史料を開いたのは、苦々しい事であった。

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