先日のブログ■細川斎護世子・慶前の矢部視察(5-了)に書いたように、筆者・木下韡村は十月六日「若殿様(訓三郎=慶前)来年御
参府之御供被 仰付旨被 仰出候」と弘化二年(1845)の参府の御供を命ぜられている。
参勤は4月ころが通常であるが、世子の江戸下りは参府と書かれているから参勤とは言わぬのであろうが、この江戸下りは7月(旧暦)と
夏の暑い時期となった。
これは、一月廿四日、江戸白金邸が類焼したことによるものと思われる。いわゆる「青山火事」と呼ばれるもので、青山から出火し、北西
風により延焼。焼失した町126・武家屋敷400・寺社187にのぼり、死者は800~900に至ったとされる。
「熊本藩年表稿」によると、2月14日白金邸にあった齊護夫人・蓮性院は目白邸に移られたが、6月19日には再び白金邸へ戻られている。
これ以前に修復工事が完了したということであろう。
これを受ける形で慶前が江戸へ旅立つことになる。このことは「年表稿」は触れていないが、7月11日出発、8月20日江戸着である。
木下韡村の日記から、その道中をご紹介する。
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■(弘化二年=1845年)七月十一日 朝雨、夕晴
正五ツ時(8時)被為遊 御發駕候、手前五ツ半比出立、弟弘、高橋弥平、山伏塚より謝遣ス、昼後三酉(味取)町通行、緒方と九左衛門
江立寄、園木震太郎書齋緒方裏屋敷二在り、震太郎、入江傳右衛門を出迎居、自分緒方江湯浴所望いたし、一酌後震太郎書齋江罷越、入江一
同罷立、主人園木送至村北坂上、日暮比山鹿江着、沼川敬内、隈部亀助宿所江来ル、敬内一團扇ヲ贈ル、有漆書詩一首
金風七月火星流、離酒此時酔驛楼、千里期君三五夜、月明當及武蔵秋
■七月十二日
南關 御昼休、七ツ比瀬高御着
■ 同十三日 晴
府中御昼休、久留米書生木村庄三郎列片山送別ニて参り居候二對見 〇中村健助駄荷残り居候を世話いたし付越サス 〇夜ニ入山家御着
■ 同十四日 晴
飯塚 御昼休、暮候而木屋瀬 御着
■ 同十五日 昼後雨
黒崎 御昼休 〇去年御供之節、辰ノ口二而御供仕候中、御跡ニ付候様被仰付置候儀有之、其節之見合ニ可仕様 野村ゟ被申聞候、尤御
昼ニ出候ヘハ支度等可下候得共、願出候儀を相憚、始終御本陣之驛中ニて支度仕来候處、便利悪敷、継人足ハ別而駕箱之置所も無御座迷
惑仕候ニ付、此節ハ御本陣ニて相對支度可仕と存、両日程懸合之處、煩敷候ニ付、其段中村江申出、若御用も無御座見込ニ御座候ハゝ、
御昼ニハ出申間敷段申込候處、申談之上炎暑中之御旅行ニ付、今被 御用も有御座間敷、御昼ニ出候ニ及不申段、今日御昼ニて被申聞候
尤昼比迄ハ御跡ニ付、夫ゟハ御先をも可仕、東街道ニ成涼気も生シ、其節之 御機嫌ニ應、猶可有指揮との趣意也、九ツ半比大里江着、
乗船之用意仕候
一、此所ニて 御着之上御用人江謁有之候、七ツ前 御乗船被為済候、同宿橋谷市之進、御昼御乗船先番
ニ付、小者駕等世話いたし、
自分暮比鳳麟号之船二乗込
村井玄斎 深水宗古 桑原丹壽 金子民壽 内海仙壽 橋谷市之進 片岡駐左衛門 村井雲臺 内海惠迪 村井門生一人 深水門生
一人 国枝喜源太 甲斐■左衛門 其外御納戸
御医師間定手傳等更■、下船候
此夜下関泊
■七月十六日 雨
暁 御出帆之處、風勢不好、一里計二て御船を返シ、田浦御泊 〇御國江飛脚御座候ニ付、一書仕出
■七月十七日 陰
暁 御出帆、一旦北風強有之候處、昼比ゟ順ニ相成、防州笠田ニ御停泊