津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■匹婦の腹

2024-01-17 10:20:32 | 書籍・読書

 私は二日ほど前まったくの偶然に、室生犀星の詩「母と子」の朗読をYoutubeで見かけた。
朗読が余りうまくないなと思って途中で見るのをやめて、いろいろググるうちに「青空文庫」の「室生犀星・忘春詩集」というものの中に収められていた。(少々長い詩なので引用は控える)
なぜこのような切ない歌が並んでいるのか、これは犀星の生い立ちが影響しているのであろうと思いいたった。

 室生犀星には 夏の日の匹婦の腹に生まれけり という強烈な句がある。
私は犀星の小説と言えば、20代のころ姉が読んでいた「杏つ子」を読んだくらいで詳しくないが、俳句に関する本に親しむようになってからこの句の存在を知った。
そのときこの「杏つ子」が自伝小説だと姉から教えられた。その衝撃と共にこの句が自らの生母をうたっているというのだから、ことさらに衝撃的である。

犀星は加賀藩の下級武士の子と承知していたが、私生児であるという。父親のちょっとした出来心は使用人をはらませ、生まれるとすぐ養子に出された。
犀星はその生母を「匹婦」というのである。「匹婦」とは「教養がなく、道理をわきまえない者たちのこと。封建的な身分制度下で使われた言葉。」であるが、父親こそが「匹夫(父)」と呼ばれるべきではないのか・・・
犀星をしてそう叫ばなければならない、無念さや虚しさが胸を打つ。
預けられたのが僧侶の家でここが室生氏なのだが、実際預かったのはその僧侶の妾ともいうような人で、母の愛を受けることなく育ったと思われる。

 上の句を踏まえて「室生犀星・忘春詩集」を改めて読むと、犀星の心情に胸が迫り涙もろい私は少々やばくなる。
匹婦とされた生母と相まみえることはなかったようだが、子を奪われ捨てられたその人のことを思うとその言葉は過ぎるように思うけれど、捨てられた子の心もまた深く傷つけられている。

「母と子」を読むと、「匹婦」だとする生母に対する思慕の情が見受けられてホッとするのだが、作家・俳人としての表現が「匹婦」という言葉に集約されたようにも思える。
身をさらして作品を作り上げるのが、作家の業というものであろうか。


 

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■鎮魂の日に思う

2024-01-17 09:40:15 | 徒然

 1995年1月17日、阪神淡路大地震の状況を伝えるTVの映像にこのようなことが起こるのかと、ただ茫然としたことを思い出す。
家の下敷きとなり、また業火の許で亡くなられた皆様に改めて、お悔やみを申し上げたい。

 2011年3月11日には、東日本大地震が起こり大津波が各地を襲う状況がTV放映され、また息をのんだ。
あわせて、原発の被害の深刻さを思い知らされた。
 2016年4月14日には、自らが被災する熊本大地震が起きた。今年になってようやく避難先から終の棲家へ落ち着く場所を得た。

 そして今年の元旦の能登地震の被害のすさまじさは、うごめく地球の荒々しい息づかいに驚かされるとともに、寒気厳しい中17日が経過して今も孤立する集落が存在するとともに、電気や水道の復旧がままならず、苦しい生活を余儀なくされておられる皆様に心からなるお見舞いを申し上げたい。

 M6.5以上の地震被害は、私の80余年の生涯に於いて日本全国で50回以上起きている。
そして、上に述べた4回と同様、各地で被害を受けられた方々のその苦痛は何処も一緒である。
人間は強い、そんな被害を乗り越えて再起の道をたどって前へ進まれている。
歴史に親しむものとして思うのは、いま生きている人々は先人の幾たびかの戦争や災害などを乗り越えて不幸にして御身内を失われたかもしれないが、生きることを託された人たちである。
希望を捨てず、これからも強く生きていってほしいと強く願うものである。
1995年のこの日に生を受けた方が、もう三十路近くになられることを思うと、感慨深いものがある。
結婚もされて、新しい家族にも恵まれて楽しい生活を営んでおられるのだろう。幸多かれと願わずにはいられない。

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■細川斎護世子・慶前、江戸参府(4)

2024-01-17 06:59:37 | ご挨拶

■七月二十七日 陰、冷氣
朝六時 御発駕、御先ニ罷立、舞子一ノ谷之間二夜ヲ明シ、御通
差扣候處、御昼被 召候段、辛川ゟ被傳、兵庫御昼ニ出候處、湊川
等 御微行之御供仕候様被 仰付、則用意、墓道入口ゟ御供仕、御
一拝之上廣巌寺(楠寺)江被為入、什物等 御覧
 一、楠公遺墨、感状一幅、庄五郎殿江之一幅、感状ハ可然様二相
   見へ、庄五郎殿江之一書ハ可疑、倚軨一玩ニ之ヲ弁セリ
 一、弓 團扇  具足断爛ス、何レも無可観
 一、畫肖像 一幅洞雲
 一、同正季 一幅同
 一、醍皇震(宸)翰歌一首
 一、黄門公与千巌書一枚
 一、鎧  可疑
 一、太刀三振、無刃刀一口  皆可疑
楠寺より一旦本道江被為入、猶生田森江 御参詣相済、直ニ本道被
為入候ニ付、御忍之御供落ル
 明石須磨欲曙天、行人續声店頭眠、海濤時至如風雨、併得松聲落
 枕邊
 九郎在後二郎前、公子王孫争上船、憐箇腰弓青葉笛、吹愁不向海
 西天
 過湊川謁楠公墓作
身是菊池遣土民、讀碑慣拝南朝人、風雲惨憺湊川路、楠公墓下哭萬
巡、昔在妖氣逼皇室、君挙隻手捧天日、一時諸公炎乾燥、忠勇知畧
誰其匹、如我土姓先致身、君言元弘功第一、況其子孫六七葉、海鎮
勤王獨欝嵂、但恨史論軽徧隅、一新日州配君無、不知青山断雲夕、
二公去後片月孤、尓時盗猶遣宝玉、我振一臂制全驅、此道可往参ニ
公、當時猶費陳情書、倘説■近君姑輪、天下公論頼至誠、神尚彷彿
来告吾 此夜西宮 御着

■七月廿八日 陰
六ツ時 御發駕、御着、一昨々日海上不宜、御供船渡海之内、
鳳麟丸着不致候
一、作家書、御次仕出
一、謁

■ 同廿九日
  大坂御滞留、昨半夜鳳リン丸入津いたし候由、昼前荷物等差越
一、蚊幬一張、単物一組着、一買取、御前日立荷物之内、二箇取下
  ケ、仕分之上猶御勘定江差出

■ 同卅日 晴
  枚方江御通行、御供仕、具足箱ハ御次船二頼ミ、駕計二て参候
枚方道上作
〇行半南塘十里程、竹濃水碧近京城、涼生蒲柳戯風影、秋足草蟲咽
露聲、沙北青山翠髻鬟、波間落日紫金鉦、憶曽結夢蓬窓底、月落空
江夜多鳴
〇剛柔明暗氣也、飲食男女財利其五六分長於習
此夜枚方御止宿、雨

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