「肥後墳墓録」をまとめる作業の中で、本妙寺の塔頭・吉祥院東光院をまとめるにあたり、師匠・高田泰史Dr編著の「平成肥後国誌」を眺めていたら、「松本弥々」「松本小侍従」という項目が出てきた。
これを読んでみると大いに違和感がある。(先生ごめんなさい・・・)
例えば小侍従については松本因幡の「妻小侍従」として項が立てられ「公卿清原頼賢の娘で、清原の養女とも、ガラシャ夫人の妹とも言われる。細川忠興に仕え、忠利を生んですぐに松本因幡にめあわされた」とある。
これは侍女頭と言われた清原国賢女・イトと混同されておられる。又、忠利の生母はまさしくガラシャであり、この説明で正解なのは「松本因幡にめあらわせた」という部分のみとなる。
一方「松本弥々」という項目も大いに怪しい。
「明智光秀の五女でガラシャ夫人の妹である。松本因幡守豊前夫人で、ガラシャ夫人の自害までガラシャ夫人第一の側近としてそばで暮らした。」とあり、ガラシャ入信の手伝いをしたことなどが記されているが、これは先に帰した清原イヤのことであろう。秀吉面談のことはこれは小侍従であることが綿考輯録に記されている(後述)
「ガラシャ夫人の死後、弥々が嫁いだ細川家臣松本家に弥々が書き残した「ガラシャ夫人消息」が残っているが、現在国会図書館に寄贈保存されている。」とあるが、これは、まさに小侍従のことであり、それらの文書は以下の如く貴重な資料として残されている。
永青文庫展示室開設10周年記念の展覧会図録「細川ガラシャ」によると、ガラシャの書簡は国立国会図書館に13点の他、永青文庫に4点、三宅文書に1点あることが紹介されている。
「国立国会図書館デジタルコレクション」には「細川忠興同夫人等書状」5件があり、その中にガラシャ夫人の書簡13通がすべて網羅されている。
そして国立国会図書館分では8点、永青文庫の3点が松本小侍従もしくは松本御内儀宛となっている。
先生ご存命の中でこのことを申し上げるべきかどうか、大いに悩んだのだがとうとうお話ししないままお別れしてしまった。
ちなみに松本小侍従について、綿考輯録は次のように記す。
小侍従 明智日向守殿より秀林院様江被附置候女房にて候、太閤様御代諸国御大名奥方
伏見御城為見物被召寄候刻、秀林院様へハ御出被遊間敷由ニ而、山内と申所ニ
御立退被成候、然共不被成御出候而は叶かたき趣に付、小侍従申上候ハ、乍恐
私儀常に奉似御面候体候由承候間、御名代ニ罷出申度願申候間、高蔵主御取次
にて太閤様御前へ被召出、殊外御機嫌よく御直ニ御茶被下御小袖等拝領、其後も
右為御礼、猶又登城仕候、ヶ様之訳にて因幡果申候而も後家へ御合力米被下候
(綿考輯録・巻九)