細川韶邦は、明治三年五月八日隠居し弟・護久に後を託すと、十二日には正四位に叙せられた。
その御礼のために出京したところ、華族東京居住の命が出されため滞京するうちに、今戸に新第を築き、翌四年六月十五日移居した。
韶邦の隠居は、熊本藩の実学党派の新政府への干渉により行われたことは、「肥後国事史料」で明らかである。
私はかって「クーデター」と書いて叱られた。そんな中での、正四位への進席は夫人峯姫の実兄・三条実美などの働きがあったかもしれない。
明治天皇と皇后美子(韶邦室・峯の一條家における義妹)が明治五年六月十三日、今戸邸を訪問されている。
その場所がどこなのか判らずに来たが、最近「細川子爵家今戸屋敷跡を歩く」というサイトの存在を知った。
その場所は東京市浅草区今戸町11番地、現在の東京都台東区浅草7丁目だとする。
隅田川の言問橋の下流にちょっと変わったデザインの桜橋があるが、その橋の台東区側のスポーツ公園の真正面がその位置に当たる。
細川子爵家とは茂木藩細川家(藩祖=細川忠興弟・興元)のことだが、このサイトによると、入居したのは明治24年だとされる。
このことからすると、細川韶邦の死(明治9年)後、峯姫が寡婦となられた後もここに住まわれ、その後子爵家が移居したと考えるのが妥当であろう。
峯姫はお子を為されていないから晩年はまさにお一人でお寂しい事であったろう。