文政十年(1827)正月十八日、細川斉護と松平(浅野)安藝守斉賢女・益姫との婚約が整ったことの御達があった。
斉護は文化元年(1804)九月十六日の生まれで、24歳である。元々は宇土支藩の藩主(中務少輔立政)であったが、先代・
斉樹の病気にあたり、文政九年二月廿九日に宗家をついだ。
現在、嫡子・慶前の江戸参府をご紹介しているが、この慶前は今回の益姫との慶事の2年前の宇土藩主時代に誕生している。
そして嫡子として宗家に入るのは9年後のことである。
二人の間には三人の女子をなされたが二人は夭折、末の勇姫が後に松平慶永(春嶽)に嫁がれた。
益姫(顕光院)は熊本で亡くなられているが、晩年・勇姫は母親を見舞うために汽船で熊本まで来られている。
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一舊臘十四日依召御名代細川邦勝殿登城之處、太守様え松 細川邦勝→ 人物の特定が出来ないでいる
平安藝守様御息女益姫様御縁組御願之通被仰出候段御達 松平安藝守→浅野 斉賢 安芸広島藩の第8代藩主。浅野家宗家9代。
一右付て御物頭以下御中小姓以上麻上下着、廿一日・廿三 益姫→ 同上・女 23歳 (顕光院)
日両日之内御花畑え出懸出仕御歡謁之御達