津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大寒や・・

2024-01-20 13:21:24 | 俳句

           大寒や 転びて諸手つく悲しさ  西東三鬼

                      たちい
           大寒に まけじと老の起居かな   高浜虚子

           大寒や 阿吽の像の力こぶ     津々           

 諸手をつくくらいは転倒するよりは良いのかもしれないが、本当に悲しいと思うだろうとつくづく思う。
齢を重ねなければこのような句は生まれない。
数年前、濡れたコンクリート型枠用の合板に足をかけて、見事に体が宙に浮いてしりもちをついてしまったが、以来転ばないように十分気を付けている。
転んでの骨折が怖いから滑らない靴底の靴を履いたりと、年相応の気遣いをしている。
もう力こぶはいらないが、まずは足腰がしっかりしていないと話にならない。

           大寒や 出かける前のスクワット   津々

今日は熊本史談会の例会に出席してきました。そろそろ20年、皆勤です。

 

 

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■米田是季・沢村大学、18~20年振りの御目見え

2024-01-20 06:25:52 | 人物

 寛永20年(1643)正月8日、江戸に於いて光尚に男子が誕生した。六丸のちの綱利である。
この時期光尚は熊本に居る。慶事を伝えるために10日ほどで誰かが馳せ帰ってきたのだろう。
正月廿日頃、光尚君八代ニ御出」という記録があり、祖父三斎に対し六丸の誕生を報告にでかけたか。

「此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御目見被仰付候」ともある。

 ■長岡監物とは米田是季のこと、「今年(慶長11年=1606)、長岡監物興季故有て豊前を出て京ニ奔る、
  于時22歳 浪人之内、大阪ニ籠城の事等忠利君之譜、元和九年(1623)帰参之所ニ詳ニ出

  是季はこれ以降三斎に遭う機会を得ていない。つまり20年ぶりにお目見することになる。

 ■沢村大学は「寛永元年(1624)四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟」があり、三齋が機嫌を損じたという。
 「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」という、沢村大学牢人被仰付置候内
  道家左近右衛門方迄之状壱包(永青文庫)資料が残る。
  出国先の備前岡山藩主「松平宮内殿御詫言」により忠利により召返されのは寛永二年(1625)八月十八日である。(忠利書状)
  それより以降三斎には18年間面談が許されず、寛永20年に光尚に提出した「起請文」には、三斎に対する恨み言が書かれている。

このように、二人とも長い間三斎へのお目見えが許されていないが、光尚は自らの嫡子が生まれたことの報告にかこつけて、二人の
お目見えを演出したものと考えられる。
三斎が亡くなる3年ほど前のことである。

 

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