名月や十三円の家に住む 漱石
この句は結婚式を挙げた漱石夫妻が光琳寺横の新居から、わずか3か月ほどで引っ越した合羽町での句である。
漱石は家賃の高さに憤慨している。しかし光琳寺の家からすると勤務先の五高は随分近くなって距離にして1.5㌔ほどである。
この合羽町は江戸期に於いては新坪井職人町と称していたらしい。合羽町と名称が変わったのは明治13年のことだという。
この漱石が住んだという家は、もともとは2軒の侍屋敷跡である。表通りの道向こうが職人の住まいであったのだろう。
古地図を見ると表通りに御手洗保借置、その裏手側に栗原子一郎の屋敷があった。
お寺と縁が切れず安養寺や報恩寺がすぐ近くにある。
一方裏手側には侍町が広がっている。
御手洗・栗原氏のことを調べてみると、面白い共通点が見て取れる。
両家とも「十代相続寸志」の家である。そして共に、「須佐美権之允組・御奉行触御知行取席」である。
すぐ横に菊池軽便鉄道がとおるのは明治42年のことである。
さてこの合羽町という地名だが何を以てそう名付けられたのか。かっては職人町が道向こうに連なっていたから、合羽を作っていたとでもいうのだろうか。
正解を教えてくれる資料に行きつかない。