能登地方の地震に伴う被害が広がっているさなか、お正月早々このような悲惨な事件を取り上げるのも如何かと考えたが、事件は時・所を選ばず、維新に乗り遅れまいと奔走するわが肥後藩士の皆様の活躍をたたえたいと思うのである。
時に明治二年正月二日、藩主細川韶邦の弟・津軽藩主承昭公の乞いをうけて、熊本藩は藩士多数を援助出兵し御雇の蒸気船に横浜から乗船、風雨激しき中房総沖で座礁、時を経て破壊沈没し多大な犠牲者を出したものである。
その犠牲者数については多くの資料が残るものの異同が多く、政府の記録「太政類典」によると、「兵隊(士)265、夫卒126、合計391人」の内死亡者数は「兵隊114、夫卒91、計205人」と記されている。
毎年、熊本市横手の安国寺に於いては、毎年七月八日に、天草島原の乱その他このハーマン号犠牲者などを含めた戦役犠牲者の慰霊するため、細川家ご当主をはじめ関係者が集まられて供養追悼の式が行われている。
犠牲者のご遺族のご出席も次第に少なくなっているようだが、供養の御心だけはお忘れにならないように願いあげたい。
事件の模様を6枚の絵と共に解説した巻物の内、座礁後壊れいくハーマン号の様子。
熊本市・里家所蔵。
改訂肥後藩国事史料・巻九【自明治二年至三年 一新録自筆状】より
上総國夷隅郡河津沖ニおひて破艦仕候明細書
一、此度津軽表江出張被 仰付候御人數當正月二日亞墨利加御雇ひ入れ之蒸氣艦江高輪沖ニ而乗艦
即日夕刻より同所出艦仕其夜横浜港に碇泊仕候此時分ハ風強ク吹居申候
一、同三日 大風且小雨 晝四時(10時)頃より横浜港を出艦仕夜四時(22時)頃上総國夷隅郡河津
沖ニ而不圖暗礁ニ乗懸候處忽チ艦ハ震動鳴響仕既ニ■らんと仕候事度々ニ而暫ク間を置候而艦又
鳴動傾欷仕候事烈敷此時激波ハ益強ク相成艦ニ當る事尤甚し依之艦中之窓戸板等一時ニ破却し飜
波艦中ニ濺キ候事亦甚敷艦底ハ疾ク損し申候と相見へ潮水込入り忽チ下階より四五階上まて湛へ
申候
但最初暗礁ニ乗懸候處ニ而其儘艦ハ留り居申候哉又後度動揺仕候迄之間ハ矢張走り居申候哉
闇夜之事ニ而篤斗ハ相■へ不申候へ共始終楫を扱候音ハ絶へ不申候艦ハ陸之方を向キ破碎仕
濱手より纔十丁計りも御座候歟と見受申候
一、異人共ハ銘々浮襷キを懸ケ逃ケ支度仕候模様ニ見受申候間乗組中之面々も心遣ひハ無申差寄り異
人共之見込を尋候處艦之儀ハ大丈夫ニ而決而氣遣ひハ不仕様ニ船将より申聞候間兎角艦之儀ハ異
人共之格法ニまかせ被置候事と覚悟仕不得止事其趣意を守り居候内異人共之狼狽ハ無申計思ひ々
々バッテーラを卸し地方へ援船を乞ひ申候趣ニ而不残程ニ乗移り申候間御人數之内よりも其船ニ
乗込候面々も御座候處異人共より頻り与相拒ミ一切乗せ不申候
一、艦中ニ最早潮水湛へ申候間乗組之面々ハ追々与艦のかんばんニ攀登り居候處異人共より御人數ニ
対し候而ハ艦ハ大丈夫々々々と申居候且通辮之者よりも大丈夫ニ候間下タ之様ニ下り候様申聞候
得共艦之模様ハ彌以氣遣ハ敷相見へ申候間申聞候趣之情實重畳不審ニ御座候付下ニ下り申候ハゝ
一同ニ下り可申と通辯之者へ及返答候處當惑之様子ニ而立去り申候其後異人共より三度合圖之の
ろしを揚ケ申候而バッテーラを卸し本艦を離れ申候處無程艦ハ前後三ツ歟四ツ■切■忽破砕漸ク
残り居候物ハ艦之檣一本と蒸氣車之両輪迄ニ而其餘ハ渾而沈没漂散仕定度者一切無御座候
一、右残り居候両輪と獨立仕居候檣之綱梯子ニ縋り居又ハ漂流仕居候板等ニ游付居候面々ハ翌四日朝
五ツ頃より晝八ツ時頃迄之内ニ勝浦並河津村より之援船を待受ケ陸地ニ上り申候尤潮中ニ投し即
夜陸地ニ游キ上り候面々も御座候
一、右河津村邊より援船漕寄せ候時分ニハ異人共も何方より歟バツテーラ一艘ニ乗来り應援ハ仕候
一、艦中ニ入れ置候器械ハ悉ク海中ニ沈失仕候
一、破艦之節ハ急迫之間合且闇夜之事ニ付諸事些細之事件ハ不分明ニ御座候
一、右四日之夕方談判之節御座候間夫迄滞り居候様ニ通辯之者へ屹と申聞置候處何之答も仕不申異人
共ハ同所を立去り申候
右之通ニ御座候以上
明治二年已正月 寺尾九郎右衛門