津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■綱利代から続く水戸家との縁

2024-01-19 08:46:41 | 歴史

 細川家と「水戸徳川家+讃岐松平家」との縁は、細川綱利が徳川頼房女(久姫)との婚姻(宝永3年=1626)をスタートとしている。
その後水戸徳川家との婚姻が重ねられることはなかったが、200年以上経ても情報の交換などが続けられていたことが、天保~弘化期(1844)の
史料でも見て取れる。内容は水戸中納言(斉昭)公の隠居に関わることである。

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(御末家様より御知せ等左之通)
松平讃岐守様ゟ御知セ
今度讃岐守様依 召御登城候所、當年御暇被 仰出候得とも御用も有之候ニ付御滞府被為蒙仰、且亦水戸殿
御隠居被 仰出、鶴千代麿殿江家督被 仰出候處、御若年ニ付御貢献被 仰付、御懇之被為蒙
上意難有被思召候  天保十五年五月十八日
  讃岐守殿、大学頭殿、播磨守殿江
水戸中納言殿御家政近年追々御氣随之趣相聞、且御驕慢被相募、都而御自己之御了簡を以御制度ニも被相觸
候事共有之、御三家方者国持始諸大名之可為規範候處、御遠慮も不被為在、御始末御不興之事ニ被 思召上、
依之御隠居被 仰出、駒込御屋敷江御隠居穏便二御慎可被為在候、御家督之儀ハ鶴千代麿殿江被 仰出候、
此段讃岐守、大学頭、播磨守相越可被相達旨 御意候

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■落合東郭のご命日=私の誕生日

2024-01-19 07:10:08 | 人物

 今日は私の誕生日なのだが、まったく同じその日に熊本では落合東郭が亡くなっている。(S17・1・19)
落合東郭とは、夏目漱石の三番目の住まい(大江)の家主さんであり、元田永孚の外孫にあたる。
つまり落合家に永孚の娘・永子が嫁いで為した男子が為誠(東郭)である。当時宮内省に勤務していた。
漱石・鏡子夫妻は一番目の家(光琳寺町)には明治29年5月~9月迄、二番目の家(合羽町)には明治29年9月~30年9月まで住んだ。
30年に二人は東京で夏休みをすごしている。そこで鏡子夫人は体調を壊し、漱石は学校の関係もあり夫人を東京に残して一人熊本へ旅立つている
実は漱石は、夫人が帰熊する前に合羽町の家を出て、東郭の家を借りて引っ越している。
当然夫人は連絡は受けていたのだろうが、旅立った時の合羽町の家ではなく、大江の家に帰ってきたことになる。
そしてまったくの偶然だが、夫人が東京を立つときに、東郭の母親(元田永孚長女)と元田永孚の嫡男夫婦と一緒になったと「漱石の思い出」に書かれている。

そして、一緒に帰熊されたという。その元田永孚の嫡男の家は、東郭の家の隣だというが、漱石が東郭の家を借りたわけだが、東郭の母親は何処に住んだのだろうかと心配してしまう。
その三番目の家(大江町)は、現在の白川小学校の裏手、かっての中央病院(移転)の辺りだと聞いたが、私は正確な位置を知らない。
それからわずか7ヶ月後夫妻は、宮内省に勤務していた東郭が五高の教師となり帰熊するというので、この大江の家を明けて第四の住まい「井川渕の家」に引っ越すのである。
誠にあわただしい夫妻の住宅事情である。



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