細川家家臣団諸家を調べている私も、有名人のご子孫が多いのはよく承知している。
谷口克広著「信長の天下所司代‐筆頭吏僚 村井貞勝」をパラパラ読みしている中、細川家臣にご子孫が居られたなと思いいたった。
この村井真勝について、帯には「将軍義昭追放後、本能寺の変まで信長の京都支配を一手に担った男とは」とある。
この京都所司代5万石・村井貞勝のご子孫「村井虎之允家(南東41-18)」がその一である。
ただ初代の召し出しが真源院(光尚)の時代だから、貞勝親子が本能寺の変で卒してからは時代が随分下っている。
どうやら初代・左太郎(入道道似)は貞勝の孫にあたる人らしい。
「肥後墳墓録」をまとめている段階で、阿弥陀寺に村井家のお墓があり、これが村井家三家の内の貞勝流村井家であることを再確認した。
嘉永という年号が安政と改元されたのは、嘉永の末年に起きた大地震(安政地震)によるものである。
安政元年(嘉永7年)11月4日、いわゆる安政東海地震が起きた。翌日には南海地震が発生している。
安政2年には江戸で大被害をもたらした。
嘉永7年の地震の折には、相州警備のために熊本藩士が旅のさなか、勢州(三重県)亀山で地震に遭遇しているが、そのさまはかってこのブログで安政の大地震(東海)として、荒木敬右衛門の道中日記をご紹介した。
道筋の甚大な被害の中を苦労をしながら11月21日相州陣屋に到着している。
嘉永7年は1月1日にさかのぼり「安政」と改元されたが、是は朝廷の意によるものである。
約一年後の安政2年10月2日の江戸大地震では、その発生が夜の10時頃だったので、20,000人弱ともいう死人が出ており多くの家屋が潰れている。その数は15,000以上だとされる。
日本の地震の歴史上最大規模のものではないのか? 余震は一月ほど続いた。
炊き出しは222,000に及んだという記録がある。御救い米の支給は38万人に及んだ。
これが落ち着くと幕府おひざ元である江戸の復興の機運は復興景気をもたらしたとされる。
実は安政3年1月になると、浅草寺の境内で「松本喜三郎の生き人形」の見世物小屋ができ評判をよんだという。
その宣伝に歌川国芳の「風流生人形」という3枚続揃の浮世絵がうりだされて評判となり相乗効果をもたらした。
もろ肌を脱いだ花魁の化粧風景が描かれているが、そのことも評判を呼んだらしい。
松本喜三郎はこの絵を「遊女や内証の体」となずけて生き人形をならべた。ほかにも多く並んだが、奉行所の見聞に引っかかった。正月15日に始まり3月16日までつづき、一日75両の売り上げがあった。
熊本の生き人形師・松本喜三郎のもっとも活躍した時代であったのだろう。
地震で大被害を受けてわずか三ヶ月後、このような見世物小屋が評判となり多くの見物人が訪れたというのだから、江戸のバイタリティーを感じざるを得ない。
能登の皆様にも災害の過酷な状況を乗り越える底力を見せていただきたい。