津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

またまた、横井小楠

2008-05-24 14:59:40 | 歴史
 蓑田勝彦氏の、「横井小楠の『酒失事件』について」という一文が、1998年の甲佐高校の『甲高紀要』に掲載されている事を知った。『史叢・十号』にある「横井小楠と米田監物」の中に記されていた。

 圭室諦成氏の「横井小楠」で氏は、「史料が乏しいので推論の範囲を出ないが、・・」としながら、「酒失と帰国」を書いている。「理由は酒席での失言」とされるが、どうやら真実はそうではない。小楠自身は「被告として沈黙をまもることを余儀なくされた」と、氏は弁護するが、実は弁解の余地のない事件であった。帰国の裁定をしたのは、当時は同志であった米田監物である。彼をしても「弁護の余地」が無かったに他ならない。それは「酒席からの帰途、幕府の役人に対して暴力を振るった事件である」と蓑田氏は結論付けられている。小楠の「沈黙」はここにある。

 圭室氏はまさしく実学党擁護派の人であることを承知の上でも、「横井小楠」の入門書とするにはいささかの不安を感じ得ない。「贔屓の引き倒し」という言葉がある。
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森鴎外著「堺事件」

2008-05-23 12:48:27 | 書籍・読書
 森鴎外の一連の歴史物の中に「堺事件」がある。
       青空文庫 www.aozora.gr.jp/cards/000129/card2547.html
       堺事件  ja.wikipedia.org/wiki/堺事件

 当然のことながら小説であるから、いささかの脚色があることは当然であろうが、大岡昇平は、「森鴎外の『堺事件』は明治政府に都合のいいように事実を捻じ曲げていると批判し、国文学者と論争になった。そして自身で『堺港攘夷始末』の連載を始めたが、その中で鴎外が依拠した資料に既にゆがみがあったことが明らかになった。ただし『始末』は未完のまま大岡は死去した(九割方は出来ていた)」
                      Wikipedia-大岡昇平引用

 細川家はニ十人の処刑者の護送を命じられている、留守居・馬場彦右衛門、隊長・山川亀太郎の名前を文中に見るが、侍帳においては山川亀太郎は確認できない。ご存知のようにこの処刑は、十一名まで進んだ処で、立会いのフランス公使らが「驚駭と畏怖」とにより立会い不能となり中止される。残りの人たちは細川家並びに芸州浅野家に預けられる。大変丁重な待遇が成されたのは、赤穂浪士、井伊直弼襲撃の水戸浪士を預かった細川家ならではである。彼らは恩赦を得て釈放された。

       堺市・妙国寺 f-s-mahoroba.tsukaeru.jp/isinji/1868 SAKAI.htm
       幕末維新堺事件  www.geocities.jp/wbcjp/sakaijiken.htm
 ここには死者の碑を「御残念様」、生き残り者の遺品を入れた瓶を「生運様」と呼んで祀られているという。慶應四年、土佐はまだ攘夷の風の中に有った。
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細川家縁辺のこと

2008-05-23 08:09:09 | 歴史
 またまた、ぴえーるさんのブログからの拝借情報である。(お許しください・・)
兼見卿記・文禄五年十一月二日の条に次の記述があるという。
   「自丹後幽斎内義、息女廿四才、長岡平六女房衆也」
たったこれだけのことだが、貴重な情報である。幽齋の女「栗」のことだが、この人についての詳しい情報は少ない。例えば姉妹である吉田兼治室伊也(一色義有室・再嫁)や、木下右衛門大夫延俊室・加賀、小笠原長良室・千(長岡与九郎孝以室・再嫁)等に比べるとよく分からない。もっとも那仁伊に至っては余計分からないが・・・

 長岡平六とは幽齋の異母弟、山名(三渕)平左衛門好重のことである。
【母方名跡継、母は山名民部少輔一雲斎女 丹後にて賜千石
 元亀四年七月藤孝に従い青龍寺に移、長岡を称、慶長七年従五位下・伊賀守叙任
 豊前竜王居城 元和三年九月十五日小倉歿・五十七歳】

 栗は「文禄五年・二十四歳」と有るから生年は天正二年(1573)、
平六(兵六)は元和三年・五十七歳没」だから永禄四年(1561)生まれだろう。
十二違いの夫婦である。
 
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青柳のはなし

2008-05-22 17:15:40 | 書籍・読書
 細川幽齋から遡る事八代、頼有という人がある。その弟・頼之の五代の孫が政元である。吉兆家の全盛時代を作り上げたとされるが、奇行の人でありその死は殺害されたものだという。

 小泉八雲の小説に「青柳のはなし」がある。
 (残念ながら青空文庫ではまだ読むことが出来ない・・)

「畠山義統に仕える若侍は密命を帯びて細川政元の許へ遣わされる。途中の山里で年老いた両親と暮らす娘と知り合い、政元の配慮を得て妻とする。幸せな生活が続くがある時妻は突然倒れる。柳の化身であった妻は、里の山の柳が切られた為に生きる事が出来なくなったのだ。僧となって山里を訪ねそこで目にしたものは、むざんにも切り倒された三本の柳の切り株だった。」

 詳細はお読みいただくことにするが、ここでの政元はなかなかの役回りで登場する。
こんな形で、政元という人物を理解するのもいいではないか。そしてなんだか考えさせられる話である。これは怪談じゃーないぞ。

 
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熊本赤十字病院の迷惑

2008-05-22 12:11:41 | 熊本
 我が家の上空によくヘリコプターが飛来する。救急患者を搬送して熊本赤十字病院へ飛ぶのだ。1キロほどの距離にある同病院が、昨晩は大変な事件に巻き込まれている。農薬自殺を図った患者が嘔吐し、その吐しゃ物が有害ガスを発生させ、50数名が被害を受けたというのである。最近はヘリコプターの音は耳にしない。救急車による搬送だろうが、途中揺られたりしただろうに、病院に着いてからの救急治療室での出来事だというから、これは椿事である。硫化水素自殺が問題になって、事件に巻き込まれる被害が報道されるが、今回のこの事故は思いもかけぬことであったろう。世の中不思議なことが起るものではある。
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横井小楠つづき

2008-05-22 11:12:19 | 徒然
 松岡正剛に負けず劣らずの評論で楽しませて頂いているのが、ブログ「細川藩MUDA智蔵」だ。
            blogs.yahoo.co.jp/aun1949fuu
 当方サイトにも、「御家草創 松井佐渡守康之、長岡佐渡守興之」「松井家御給人先祖附の人々」を提供して頂いている。

 神風連のご子孫の方々と奇しきご縁があって勉強を始めた。このブログに、『神風連「覚」Ⅰ-「血史」から-』が登場したのは、今年の1月8日の事である。そしてこれは延々今日まで続いている。リストで確認すると75回に及んでいる。凡そ二日に一回というペースに驚かされる。4月1日から『神風連「覚」-別掲・横井小楠』となり、36回に及んだ。驚くべき読書量と執筆のスピードである。そして読書の有り様や、歴史の真実を知る楽しさを知らされるのである。その他細川藩以外にも「源氏物語」その他を俎上に、楽しい解説をされている。私と同様の感想をお持ちになる事請け合いである。ご一見いただきたい。

 私の突然の「横井小楠」の勉強は、小楠のお祖母さんにかかわる情報を得てのことが発端だが、動機はともあれ本格的勉強になってきた。

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松岡正剛もたまには間違う

2008-05-21 20:06:32 | 歴史
 松岡正剛の「横井小楠」を読んでいたら、間違い発見、徳富蘇峰が横井時雄(小楠長男)の子供に化けていた。
【横井大平や横井時雄は明治4年に熊本洋学校の設立に動いた。有名な話だろうが、アメリカからL・L・ジェーンズを招いて、花岡山を拠点に「熊本バンド」を結成、そこから海老名弾正(日本のキリスト教運動の指導者・同志社大学総長)、徳富蘇峰、横井時敬(のちの東京農大学長)らが育った。ジェーンズ解雇ののちは、この花岡山バンドがこぞって同志社に移った。同志社大学をつくったのは新島襄と京都の有志と熊本実学党なのだ。横井時雄は明治13年には「共立学舎」もおこし、その長男の蘇峰が「大江義塾」を開設したことは、付言するまでもないだろう。】

 松岡氏が文中に使われた図書が、以下のように上げられている。
【「日本思想大系」第55巻(岩波書店)、「日本の名著」第30巻(中央公論社)、山崎正薫『横井小楠遺稿』(日新書院)、山崎正薫『横井小楠伝記』(明治書院)、圭室諦成『横井小楠』(吉川弘文館・人物叢書)、三上一夫『横井小楠の新政治社会像・幕末維新変革の軌跡』(思文閣出版)、三上一夫『横井小楠・その思想と行動』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー62)、山崎益吉『横井小楠の社会経済思想』(多賀出版)、源了圓ほか『横井小楠のすべて』(新人物往来社)、徳永洋『横井小楠・維新の青写真を描いた男』(新潮新書)、童門冬児『小説横井小楠』(祥伝社)等々。】

 童門冬児も本当は冬二が本当だがご愛嬌だ。これだけのものを読破した上での執筆だから、その速さたるは驚異である。いつも拝見するものとしては(地元の人間ということもあるが)この間違いはいただけない。ご推薦の図書だと肝に銘じて私もチャレンジしようと思う。



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ING

2008-05-21 16:56:14 | memo
同時並行でいろいろやっていると、全てが未完となる。
何をやっているのか、自分でも分からなくなったので一応まとめる。

 ■細川忠雄(内膳家)家譜----訓下・活字化(4割完)
 ■米田家臣中山宗俊覚書----  同上   (4割完)
 ■T家先祖附及び諸達扣----  同上   (9割完)
 ■上田休兵衛「日録」----  白文の活字化(完了の見通し立たず)
 ■益城甲佐八丁村次郎兵衛志書・他 

 ■大日本近代史料・細川家史料「人物索引」作成中、対象20巻の内11巻完了
              UPについては東大史料編纂所の要了解
 ■嗣蔭令----タイピング中(気合を入れればすぐ終わるが、ずっと休止中)

 待機中
 ■沼田家記
 ■沢村大学介覚書 
     その他いろいろ、種々雑多
 

 
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細川家家臣・堀尾氏

2008-05-21 09:03:22 | 歴史
 HARIMAYAさんの武家家伝_堀尾氏を読むと、天武天皇の皇子高市親王の子・長屋王に遡るとある。・・・すごい・・・ひところ黒岩重吾の一連の作品にのめり込んだことがある。判官贔屓で高市親王や長屋王の悲劇については、涙腺が緩んでしまう。

 細川家家臣・堀尾氏を調べると、四代目が茂助を名乗り次のような記載がある。
「茂助(夫右衛門)千石 拾挺頭 宝暦十一巳十一月十四日当役 帯刀先生吉晴ヨリ出」
帯刀先生とは、松江二十四万石城主・秀吉三家老の一人、堀尾茂助吉晴の号である。茂助吉晴の直系は絶えたとされるが、どういうつながりがあるのか興味深い。千石の扶持を得て主要な職を勤めているが、細川家仕官の経緯も知りたいところだ。果たして先祖附はどう記しているのか、調査課題が又一つ増えた。
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人質

2008-05-20 19:26:46 | 歴史
 過日「日本談義」の昭和26年11月号に、宇野廉太郎氏の「小笠原少齋の墓に就いて」という一文を見つけてコピーをしてきた。その年の8月19日の新聞に「小笠原尚(ママ)齋の墓を発見」という記事についての私見を述べておられる。氏は昭和3年にこれを発見しておられる。「今更なにを・・」という思いであられたろう。
 話は少齋のお墓の話からそれるが、この一文に「此一挙(ガラシャ夫人及び忠臣の死)によりて、大坂城中評議一変し、諸侯の妻拏を取ることを止めたといふ事である」と氏は記されている。長く信じられてきた事柄であり、揚げ足を取ろうというものではまったくない。

 私は「加藤清正『妻子』の研究」を読み、又著者・福田正秀氏の講演を拝聴し、清正正室清浄院の苦難の大坂脱出行を知った。豊前に着いた清浄院の熊本入りを手助けしたのは、黒田如水である。黒田長政夫人も同様の脱出を試みていた。
人質となった大名夫人もいる。同書によると池田輝政・藤堂高虎・有馬豊氏・加藤嘉明夫人等とある。

 時を経て歴史の真実が明らかにされ、絡まった糸がほぐされて一筋のものと成ってくる。未だ虚説を以っての所見に邂逅する。宇野廉太郎氏は一文の最期に「若し誤りを後世に伝える事があっては実に遺憾千万(中略)筆者の記述にも誤があらんも保し難い、何卒御気付の諸賢に、謹んで御教示を願・・・」と記される。歴史の勉強はこの一言に尽きる。

 
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図書館浴

2008-05-20 10:27:16 | 徒然
 雨も上がって爽やかな風が気持ちいい。かっては友人から、「森林浴」にと里山歩きなどに誘われたものだが、その友人も齢を重ねてお声も掛からなくなった。

 熊本県立図書館がある場所は、かっての細川内膳家別邸・江津花壇の跡地だが、水前寺成趣園から流れ出る整流に面していて、江津湖へといたる遊歩道は森林浴も楽しめる格好の場所だ。気持ちのいい空間に身を委ねるというのが、精神衛生上一番いい。広いバルコニーテラスなどがあって、木漏れ日の中で読書にしばしの時間を過ごすことが出来れば、どんなに素晴らしいだろうと思う。残念ながらそんな環境に背を向けて、県立図書館は建てられている。

「書店浴」という言葉の造主は出久根達郎氏だが、「図書館浴」や「美術館浴」を楽しまれる方も多いことだろう。その「図書館浴」に出かけようと考えていたら、今日は休館日だと気がついた。ふと、我が家から2~3キロばかりの処に、「BookOff」が開店したことを思い出した。よし「BookOff浴」をしようと思い立った。良い掘り出し物に出会えるだろうか、「浴」ならぬ「欲」のはった「俗」な話が落ちである。
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細川家家臣・金津氏

2008-05-20 08:12:10 | 歴史
 金津(かなつ)家祖・金津助次郎は、ガラシャ夫人(秀林院)の生害に自刃してお供をした。その最期の模様は綿孝輯録(巻13)に詳しい。
「少斎(小笠原)と共に駆廻り御死骸のあたりへ猶燃草を投込、所々に火を散らし、台所にはしこを掛け、屋根の上にて大肌抜きつゝ立、われらハ金津助十郎と云もの也、越中守奥方生害にて少斎、石見(河喜多)も殉死を遂け畢ぬ、士の腹切て焔の中に飛入りしとなり、言上の表にはのせす候へとも、諸人の耳目を驚し勇猛の振舞なり」
 時に助次郎は43歳であったとされるが、幼い男子二人が有った。秀林院の七回忌(慶長11年)にあたり夫々二百石を拝領した。嫡子・助次郎十一歳、二男又十郎九歳である。

 福岡県史・近世編、小倉細川藩(二)の、「日帳」寛永六年七月十七日(秀林院御法事の日)の項に次のような記録がある。
「金津又十郎、粟野伝介を以被申候ハ、今朝之御御法事ニ参候ハて(てハ?)不叶儀と存、三日かけニ参候へ共、煩然々無御座ニ付而、今朝御寺へも不罷出候、明日ハ早々可罷帰と存候、少よく御座候ハヽ、別府之湯ニ入申度存候由候、可然候由申候事」

 これとは別に、何時の事であるのかが不明の次の資料がある。
「金津助太郎秀林院様焼香被成御免御詫言之事」とあり、「三齋より御しかり候間我々所へ三齋より状も不参使も不参候間中つをよく仕候へと可被仰候」と記している。(史料・細川家文書(ニ)15「覚」該当項抜粋)
 助太郎という名は、金津家侍帳には存在しない。上記又十郎の件と同様の事柄とすれば辻褄が合うのだが・・? 真相は闇の中である。

 助十郎---+--助次郎---+--十次郎---十次郎---十次郎---略(十次郎家)
        |        |  
        |        +--又助----左次兵衛---又助---略(又之允家)
        |
        +--又十郎----助十郎----又十郎----助之進---略(十郎家)

 父の従兄妹が金津某に嫁いでいるが、どの金津家やら分からない。
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5/18 熊本日日新聞から

2008-05-19 12:04:50 | 新聞
■細川利重が、寛文六年兄綱利知行より35,000石の内分を受けて創立されたのが新田支藩。維新の動乱期慶応4年(1868年)に、熊本藩高瀬町奉行所に藩庁(玉名市)に置いて高瀬藩と改称したが、明治3年(1870年)熊本藩に合併して廃藩となった。その最後の藩主細川利永の肖像写真が発見され、玉名市立歴史博物館に収蔵された事が報じられている。断髪のややお頭が薄いような頭に烏帽子を頂いている。明治十三年の写真とされるが、大変貴重なものだ。所を得て納まった。

■財団法人・島田美術館理事長の島田真祐氏が、「110年前の宮本武蔵熱」という一文を寄せている。武蔵歿後250年余の明治31年淵上誠方の画に、時習館訓導(助勤)を勤めた兼坂止水の、「寒流帯月澄如鏡 新免武蔵先生島原出陣像」の讃がある。「二天記」の記述とは風体を異にする軍装姿である。当然のことながら島原の乱における武蔵は、豊前小倉小笠原藩の人である。島田館長の目はするどく、この軍装が「越中流具足の傾向がある」と指摘される。「妥当性を欠く」とも指摘されるが、「越中流具足」は大変評価を受けていたものである事を思うと、案外画家淵上誠方の考証も当たっているかもしれない。5/19の宮本武蔵の祥月命日を前にした、時を得た一文である。

 島田美術館は都市計画道路の建設に伴い、敷地の一部を割譲されて二年半に及ぶ休館を余儀なくされ、去年10月1日装いを新にして再開館した。以前とは違う雰囲気だが、種々の催し物と共に来館者の好評を得て賑っている。
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細川家家臣・野田氏

2008-05-19 08:14:37 | 歴史
 歴史は時折粋な計らいをする。例えば旧阿蘇家家臣竹原氏が、主とともに鹿児島島津氏を頼り家臣となっていたが、幽齋の鹿児島訪問の際認められ伴われて上洛し細川家家臣となり、細川家の豊後・肥後転封に伴い父祖の地に帰ったりする面白さである。

 野田喜兵衛・重綱(天草本渡城主天草伊豆守種綱三男・喜膳)にも同様の話がある。

【天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをおめすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
  三斎様御詠歌
    天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり (綿考輯録・巻26)】

 喜兵衛の跡は三代に渡り養子を得て跡式、四代の三郎兵衛代「お暇」
【野田三郎兵衛儀弐百五拾石被下置候處 享保九年十二月御暇被下候 先祖訳有之者故追而拾人扶持被下置候處 養子喜兵衛ニ引継被為拝領御中小姓ニ被召出置候】

 参考:天草氏
  武家家伝-天草氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/amakusa.html

  


 
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野出の里

2008-05-18 18:08:00 | 徒然
 昨日のことである。山影に落ちていく夕日が茜色に輝いて、それはそれは素晴らしかった。我が家の二階の窓からの展望である。西の方に連なる山並みの、山々の名前を私は良く知らない。先ほどから磁石やら地図を持ち出して「夕日の落ち所」を探している。我が家から真西方向に「金峰山(きんぼうざん)665m)がみえる。地図ではその右手に荒尾山(446m)、小萩山(412m)が見える。うす雲の中を落ちていく今日の太陽を確認すると、どうもその二つの山では無いように思える。改めて地図を眺めると、少し右側にそれらのずっと山向こうに、二ノ岳(685m)、三の岳(681m)がある。これだ間違いない。

 実は過日所用で金峰山から「野出」というところを車で走った。夜中である。本道を離れてわき道に入ると、九十九折の坂道の連続である。しばらく走ると、思いがけない景色が目に飛び込んできた。電照栽培のための物凄い数の照明で、谷間が浮かび上がっている。あまりの明るさに目がくらみ、道筋がはっきりせず思わずブレーキを踏んだ。何を栽培しているのか。確認の仕様もないが、こんな形で我々の生活が支えられている。贅沢な事だ。

 その「野出」を改めて地図を眺めると、「夕日の落ち所」二ノ岳にあることが分かってまたまたの驚きである。あの電照栽培の畑の明かりを目印に、太陽は導かれたいるのではないかとふと思った。
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