不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

光尚の再婚話?

2008-07-12 12:33:53 | 歴史
 光尚正室(三齋孫女・彌々--烏丸光賢女)は、寛永十三年十月十四日産後の肥立ちが悪く、僅か十七歳で亡くなった。寛永十五年九月十五日付の「酒井讃岐守宛書状」、「京極主膳宛書状」、「永井日向守宛書状」をみると、光尚の後室問題がいくつかあったことが伺える。差出人は忠利である。
 「酒井讃岐守宛書」によると、一人は縁戚にも当たる小倉の小笠原右近殿(忠眞であろうか)の息女であり、又、古八条殿息女の話が持ち上がっている。三件の書状の内容からすると、どうやら同時期に持ち上がったものらしく、忠利の困りきった様子が伺える。いっそ将軍家からの「お声」でも掛かれば一挙に解決したのだろうが、・・・現実には光尚は後室をもらっていない。原因は何なのだろうか?。この事についての史料は、その後見つけ出せないでいる。

 寛永十五年といえば、この年の二月天草島原乱が平定され、幕府も細川家もその終結に安堵の想いが満ちていた時期である。しかしその所労が重なり、寛永十八年三月十七日逝去する。忠利の死も原因の一つかもしれないが、時間的には辻褄が合わない気がする。

 そんな中、
【寛永十九年(1642)光尚、綱利生母(清高院)に御暇を下されんとす。懐妊の旨を報告するも流産致さすべきの御意、岩間六兵衛諫言しこれを預かる。(綿孝輯録)】という事が有り、寛永二十年(1643)正月八日、綱利が江戸にて誕生した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兼見卿記--閑話休題

2008-07-11 10:46:54 | 歴史
 「細川氏の動向--兼見卿記」は7回に至った。「兼見卿記」は「史料纂集」としては二巻が発刊されている。又先にご紹介したように(ぴえーるさんのご紹介だが・・)、その後の物については天理大学図書館の岸本眞実氏により、現在文禄二年(一)から慶長二年十二月(九)までのものが、同図書館報「ビブリオ」により見ることができる。誠にありがたいことであり、同氏のご努力と公開に感謝しなければならない。

 兼見と細川幽齋は従兄弟の関係であり、細川氏に係わる記述は結構あり、大変貴重な史料である事は衆知の事実である。7回で「閑話休題」としたのは、ちょうどこの時期本能寺の変が勃発している。驚く事に兼見は信長が生害したその日に、光秀の元を尋ねて面会している。そのご勅使として派遣され、金子などを受け取っているのである。光秀の天下となると思ったのだろうか。しかし秀吉の天下へと動いて行く。信長の息信孝の使者の詰問を受けている。そこで兼見は日記の改竄を行うのである。「別本」がオリジナルとされるが、「信長生害の後の光秀訪問」が生々しい。細川家に係わる記事についても若干の相違が見られるが。大意に齟齬はない。
「別本」と共に「正本?」が存在するというのが大変興味深いし、保身を図ろうとする兼見の狼狽振りも面白い。「別本」「正本」をしばらく読み合わせながら、先へ進めたいと思っている。道はなかば、まだ1/3といったところである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三齋お出まし

2008-07-10 23:03:01 | 歴史
 寛永八年九月、三齋から越中(忠利)宛ての書状である。
「我々御ち大つほね(三齋乳母中村新助妻)むすめ一人小倉ニ居候 其ものニ大つほねはて候砌銀子少々残候を彼むすめニ遣置候處 其銀子ニて米をかい持申候を ■■■■借度由申ニ付弐拾石分四わりニかし候シ 其借状ニとヽこほり候ハヽ公義御借米之切手わけニいたし可返翰(ママ)とかヽせ借状放置 其後度々申候へ共一圓承引不申ニ付 野田小左衛門・豊岡甚丞を以■■へ届候へ共 一切無返弁 寛永三年春たて物ニて七石余やう/\済し 残ハ其まヽ在之而 寛永七年之暮迄ニ残米百六十八石餘在之由候 加様ののやう/\のたくはえをかり 高知行取身二て打なくり置候事不届と存候 我々はて候跡ニハ中々返申間敷候左候へハ 余の不便さにて候間 當年皆済仕候様ニ被申付にくヽ候へハ 其方は不被存分ニて可被居候 我々より知行所へ人を遣納とらせ可申候事」

 ■■殿は丹後以来の家柄、田邊城籠城衆の一人でもある。豊前小倉御侍帳には「御馬廻衆・千五百石」とある。大事な乳兄妹の難儀に三齋自らのお出ましだが、名門■■氏も変な事で名を残した。
しかしまあ、高利ですな~・・・
     (さすがに私も、「新・細川家侍帳」にこの事を書き込むには躊躇がある)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱さのせい・・?

2008-07-10 10:51:23 | 徒然
 またHDが不具合で動きません。今日は息子の部屋からこっそり書いていますが、しばらくご迷惑をお掛けすることになるかもしれません。当然メールの方もです。どうもウイルスにやられたような気がするのですが、今日は対策に追われそうです。お天気もそうですが、熱い一日になりそうです。

どうやらクリアして一安心です。キーボードの一番左の列の、どのキーか分かりませんがロック状態になっていたようです。パワージェットで掃除をしていたら、なんとなく直ってしまって拍子抜けの感じです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川氏動向--兼見卿記から(7)

2008-07-09 17:29:02 | 歴史
 天正十年(1582) (別本)
■正月五日:長岡兵部大輔上洛云々、遣使者
■正月八日:早々長岡兵部大輔青銅参十疋・雑紙十帖・同與一郎(忠興)百疋持来、即對面、直ニ坂本へ下向也、急也、卒度進盃、次下向畢
■正月十日:長岡兵部大輔自坂本上洛之次来、進夕飡、今夜抑留畢
■正月十一日:出頭長兵、令同道罷出了、先参禁裏、参内、御對面、御礼申入了(略)
       牧庵書状申来而云、明朝長兵ヲ茶湯二招請、予令同道可来之由申来了
■正月十二日:早々牧庵へ罷向、長兵・與一郎・一庵(横濱良慶)・予相伴也
■正月十三日:出京、向長兵旅宿、今朝山崎へ下向云々、相尋与一郎、同前山崎へ下向也、松井新介(康之)方へ罷向、長兵令同道山崎へ下向也、貮十疋・狸一遣之、彼母(法壽)ニ相渡、申置畢
■五月十二日:早々長岡兵部大輔来、後刻与一郎(長岡忠興)来
■五月十三日:長兵滞留、明日安土へ下向
■五月十四日:長兵早天安土へ下向、今度徳川(家康)、信長為御礼安土登城云々、惟任日向守(光秀)在庄申付云々
■六月二日:早天自丹州惟任日向守(光秀)、信長之御屋敷本應(能)寺へ取懸、即時信長生害、同三位中将(織田信忠)陣所妙見(覚)寺へ取懸、三位中将二条之御殿(誠仁)親王御方御座也、此御所へ引入、即以諸勢押入、三位中将生害、村井親子三人(貞勝・清次・貞成)、諸馬廻等數輩、討死不知數、最中親王御方・宮・館女中被出御館、上ノ御所へ御成、新在家之邊ヨリ、(里村)紹巴荷輿ヲ参セ、御乗輿云々、本應寺・二條御殿等放火、洛中・洛外驚騒畢、
悉討果、未刻大津通下向、予、粟田口邊令乗馬罷出、惟日對面、在所之儀萬端頼入之由申畢
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サイト冥利

2008-07-08 11:38:50 | 徒然
 I氏から最初のメールを戴いたのは、6/22の夕方である。一族の研究に当サイトがいささかのお役に立ったらしい。宇土市内某所の字名にもなっているという阿蘇一族に遡る古い家柄らしい。その他にも史料があることが考えられ、翌日図書館に出かけた。一族と思われる方々の先祖附・二家、改正禄高等調・八家分をコピーして25日発送。その後のメールによると、驚きの展開になっているらしい。I氏のご努力による事は当然だが、遠くはブラジルに広がる一族が、空白の刻を埋めてのつながりが明確になってきたとの事だ。まだ15日ほどの間の話である。

 こんな報告を戴くとまさに「サイト冥利」と言うものだ。当方の仕事はこれ迄、後はメールでの今後のご報告が楽しみである。「一族史」などお書きになったら如何だろうか。多分そのおつもりであろうと推察している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

比着座同列末席--西山大衛

2008-07-08 10:42:17 | 歴史
          +・・(細川藤孝)
          |
 12代       |   13代    足利道鑑   伝右衛門・右京    
 足利義晴---+--義輝-----義辰----+--至之---+--重辰
          |  15代           |       | (1)    (2)
          +--義昭           |       +--之氏---氏清---+--氏一---景備
                           |                     | (3)    (4)
                           |                     +--氏政---氏景→
                           |勘十郎
                           +--義茂
                           |
                           +--義次
                           |藤左衛門
                           +--之直---次之

 細川藤孝(天文三年・1534生まれ)、足利義輝(天文五年・1536生まれ)、義昭(天文六年・1537年)を兄弟として並べてみた。藤孝の将軍家に対する献身は、義昭の受け入れるところとならず、将軍家滅亡の原因ともなっている。しかし細川家は、伊予松山に身をよせていた義輝の子義辰(足利道鑑)と、小池伝右衛門(西山右京・至之)・西山勘十郎(義茂)兄弟を迎えている。宮本武蔵と同席して年賀の席に侍る消息などが見える。

 西山道鑑消息
  1、寛永十五年十一月廿二日 忠利君御書
     信長様御所持之御甲鑓御見せ被成り、・・・・・・・・
                       (綿考輯録・巻五十)
  1、寛永十七年十月二十三日・奉書
     道鑑様・宮本武蔵 山鹿へ可被召寄候 然者人馬・味噌・塩・すミ・薪ニ至まて念を入
     御賄可被申付之旨 御意ニ候 以上
                    十月廿三日                 朝山斎助在判
                          御奉行中
  1、寛永十八年正月二日
     道鑑老・西山左京(道鑑子)・同勘十郎(左京子)・同山三郎(勘十郎弟)、
     新免武蔵(剣術者也)、源次郎(不詳)、春田又左衛門(具足師)なとハ
     奥書院ニて御祝被成候而・・・・・・       (綿考輯録・巻五十二)
  1、寛永十八年十二月廿一日 足利道鑑老より鑑物江之状
     爰元奉行衆より幸便頼入令啓上候
    一、長岡勘解由殿、昨日廿一日致熊本御着候、其表太守様御機嫌能、御息災被成御座、
      其上御前之御仕合残所無御座旨御書ニ蒙仰、何より以万々目出度奉存候、就夫貴殿
      様・頼母殿・右馬助殿今度御目見え被成候処、結構成御上意被仰出之由承り、先書ニ
      も悦入、以書状申上候、弥勘解由殿御相談承、右ニも申上ル通、日本六拾余州ニ其陰
      御座候有間敷と存御事ニ候、重々御吉左右奉待存候
    一、従光貞様御念比之御書被成下、其上左京亮かた之御書ニも別而被加御念、比愚老息
      災罷存候哉と蒙仰、扨も々々難有奉存候、一段と無事ニ罷成候条、御次而之折節可然
      様御取成万々奉頼外無他存候
    一、去月廿六日・当月二日両度之貴札慥ニ相届、面上同前ニ存、くり返くり返拝見忝存候、
      就其大僧正様・双厳院・金蔵院之様子被仰下忝存候、弥大僧正様御息災被成御座候哉、
      急便ニ承度奉存候
    一、せがれ藤左衛門身上之儀、今度於伏見従太守様別而被加御懇、其上御知行并当物成
      残所無御座様ニ被仰出候処、弥貴殿様御取成故外聞実儀忝次第御礼難申尽存候、就
      夫女子共召連今日十七日ニ致熊本着仕候、宿之儀奉行衆并備前守殿御相談ニ而刑部
      殿御屋敷長屋を御借候而かしニ付而手前より作事仕有付候、御心安可被思召候、愚老
      忝様子書中ニ不述申候、御次而も御座候ハゝ可然様ニ御取成万々奉頼存候
    一、拙者娘祝言之儀、備前殿と相談仕、年内は余日無御座候付而、来春迄相延申候、将又
      先可申上ニ御宿上下共ニ御無事ニ御座候条、御心安可被思召候、猶追々可得御意候
              恐惶謹言
                                              足利道鑑法印
                                                    義辰 判
                十二月廿一日
                        長岡監物様
                             人々御中
                                           (綿考輯録・巻五十九)
 西山右京消息
   1、寛永十五年二月二十三日
      島原乱の状況報告書状 長岡監物宛     (綿考輯録・巻四十六)
   尾池伝右衛門(西山左京)
      千石  (真源院様御代御侍名附)
      千石  (慶安三年・真源院様御代御侍免憮帳)(寛文四年・御侍帳)
   1、寛永十九年三月二日、監物より小笠原備前ニ遣候状(抜粋)
      尾池伝右衛門儀、如被仰越諸人ほめ申由承候、迚之事ニ御家ニ取こミ申度事ニ而候、
      ニ三日已前ニ拙宅江御尋ニ而候キ、貴様よりも被仰越候、我等左様ニ存候条、道鑑様
      も御座候間、当家へ御座候様ニと存候由、され事ましりニ申て口ふりを承候所ニ、御一
      門大勢被召抱候上、又候哉、御家江参候事ハいかゝ候ハん哉と被仰候間、又おしかへ
      し申て見申候へ共、伝右衛門殿御口ふり堅ク相聞え申候、又二三日中ニちと用所候而
      懸御目候条、幾度も申候而何とそ引入申度心中ニ御座候事
                                           (綿考輯録・巻五十九)
 尾池藤左衛門(左京・弟)
      千石  (         同上   )
      千石  (         同上           )
     寛文元年八月六日・御暇 壱千石 (※)・・小池藤左衛門
   1、細川文書・御判之物
     尾池藤左衛門尉殿へ米二百俵、但蔵俵也、并塩五俵・薪三拾駄・炭三十俵可相渡者也
                 寛永拾八年九月十一日    光尚ローマ字印
                                 奉行中

 西山左京は参勤の江戸で客死している。熊本縣資料は「無役・御客分にて千石、左右着座の上席」であったとする。タイトルの大衛とは4代氏景のことである。
ちなみに「熊本縣史料」は、「将軍義昭が弟、足利義辰入道道鑑」と記しているが、これは明らかな間違いである。「将軍義輝の子」と訂正をお願いしたいところだが、重版されることもないのだろう。貴重な資料の間違いは残念である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暑気払い

2008-07-07 19:17:17 | 熊本
 梅雨が明けたと思ったら・・35、1度とは勘弁してもらいたいものだ。何事も準備というものが必要で、いきなりなので体が受け付けない。クーラーの中にいると疲れるから、出たり入ったりで汗びっしょりである。観葉植物もぐったり、夕方たっぷりの水をまいてやる。日が落ちかかって少し風が涼しくなったようだ。雲が出てきて、牽牛織女のランデブーも見えないかもしれない。

 歳時記を読むと「暑気払い」とは「暑さに負けないようにすること。またそのために酒や薬を飲むことをいう」とある。昔は甘酒を飲んで「暑気払い」としたためらしい。「甘酒」が夏の季語である所以である。
     火の国をもて火の酒の暑気払い (杉良介)
という句があるが、「火の酒」とは球磨焼酎でも差すのだろうか。この暑さを払ってくれるならば、何杯でも頂戴したいと思う。いやはやの熱さである。
     火の国の麦焼酎に酔いたるよ (大橋敦子)
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川氏動向--兼見卿記から(6)

2008-07-07 17:05:20 | 歴史
 天正八年(1580)
■二月五日:長岡兵部大輔来、百疋持来、逍遥院(三條西實隆)真筆古今指箱首尾之由見之、外題詁訓書之、毛詩ニ如此、古今集以毛詩編之由、清宮内卿枝賢諷諫之由、長兵相談了
■四月三日:長兵来、今日勝龍寺へ皈城也、予出京之間、路次同道了
■八月四日:飯川治部入道(秋共)書状到来云、今度丹後國長岡兵部大輔ニ被仰付也、然間最前令下向、鐙借用之事別而頼入之由被申之間、先度自一之齋到来之鐙持遣了
■八月六日:長兵へ以書状遣兵庫助、今度丹州之儀珍重之由訖、大慶之由返事
■九月五日:(略)自長兵使者、鮭二、到来、去二日下向安土、丹後へ令下國悉申付、為御礼上洛之由申来了、明後日上洛、可来之由申了
■九月六日:(略)長兵自安土上洛之次来、
■九月八日:(略)出京向長兵旅宿、於小笠原(貞慶)對面、暫相談了、勝龍寺江皈城了
 天正九年(1581)
■正月十六日:(略)入夜長岡與一郎(忠興)自安土上洛、使者来云(以下略)
■二月七日:早々長岡兵部大輔(藤孝)来、及晩出京
■二月廿三日:自長兵書状到来、後刻惟任日向守・蜂屋(頼隆)・宮内卿法印、各於當所春日馬場可令乗馬之由申来、請私宅、不取合興行可然之由申来云、相心得之由返事、次各来、蜂屋不来、惟日・宮法・長兵召供之者二百余在之、乗馬已後各来、羞夕飡、次皈京
■六月二日:自丹後一之齋・松井(康之)・米田両三人以加判折帋到来、長岡與一郎俄病気也、盛方院(吉田浄勝)下向之事申上也、人足之事可申付之由云、即盛方へ遣使者、下向之儀相尋之処、明日下國治定也、人足不入之由申之間、其通両三人之方へ返事訖
■七月十二日:長岡兵部大輔自安土上洛之次来、羞夕飡、供者廿人余、各認之儀申付之、及暮出京、今度長兵金子一枚直給、予雖念斟酌、直談之間不及是非也、去年侍従出頭砌、合力之義丹後へ申遣、其砌不相調、今度持来也、今夜在京之間為礼罷向、面会了
■七月十三日:(略)及晩長兵為見廻出京、沼田勘解由左衛門尉所ニ逗留也、罷向、三入・宗節・一音在之
■九月二日:(略)長岡兵部大輔上洛、即罷向、柿一折持遣之、明日下向安土之由被申也
■九月五日:藤孝自安土上洛之次来、今度丹後國験地之分悉被仰付之由雑談、殊更機嫌也、羞夕飡、切茶壷之口羞長兵、次出京
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説の内容を検証する

2008-07-07 14:33:42 | 書籍・読書
 佐藤雅美氏の「細川玄旨」を読みながらいたずら心が湧いた。勿論小説であるから、創作によるところもあろうけれども、時、場所、人物などの動きを検証してみようと考えたのだ。処がはじめてみると、これが中々に大変である事に気づいた。綿孝輯録や兼見卿記その他の書物を脇において、一々チエックしながら本を読むという作業は、並みのことではない。裏返して考えると、時代小説家が一冊の著作を上梓される、ご苦労の過程を思い知らされるのである。データーの収集など、手伝われる方が居られるのだろうか。編集者の中に、チェックマンが居られるのかもしれない。

 いらぬことを始めたものだが、ギブアップする訳にも参らぬ。さて読了となったときは、幽齋専門家になっているかもしれない。付箋を貼りまくった本は異様に膨らんで、チェック項目の回答を待っている。
・・・・ご苦労さん・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

完成と着手

2008-07-06 21:18:03 | 歴史
 たいした作業でもないのだが、「嗣蔭令」のタイピングに随分な時間を費やしてしまった。明日にはUPしようと思っている。
 続いて先に宣言した、「旧陪臣代数及原禄根帳」の作成に着手した。いろんな機能の貼り付けは後の事として、兎にも角にも184家の家来のお名前を一覧にする事が先決と考えている。何とか一月を目途にして頑張りたい。
他にも並行進行している幾つかの仕事があるのだが、これは訓下を伴うので後回しにせざるを得ない。こちらの方は今年中という事に変更しようと思う。
 
 時折心臓がばたつく身の上としては、奥方の「自業自得よ」という声が耳に痛いので、何事も程々にと、軌道修正しなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨明け

2008-07-06 18:50:52 | 徒然
 熊本は今日午前梅雨明けです。とたんに夏の様相で、気温の上昇と共に蒸し暑さも増して、いささか睡眠不足の身にこたえます。(いかに爺域に突入したとはいえ、睡眠時間4,5時間はいけません)いろいろ片付けなければ成らないことが多くて、夏ばてなどしないように健康に留意します。熊本は9月中旬まで猛暑が続きますから・・一月生まれの私には苦行ですね~。一寸昼寝をして英気を養いました。

   籐椅子に 新書うだきて 昼寝かな 
                     お粗末

 明日は満天に天の川が見えそうです。御地は如何でしょうか。

   
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家来持ち家臣

2008-07-05 11:28:27 | 歴史
 昨日の「コピー145枚」の続き・・・
「旧陪臣代数及原禄根帳」による、家来持ちの細川家家臣の数は、184家であることが分かった。その殆どが大身の家であることは当然のことで、長岡熊一郎(内膳)家の126名が有るかと思えば、100石取りの家も存在していて詳しく見ると面白い。探しあぐねていた苗字が出てきたりして大変興味深い。「有禄士族基本帳」に続くヒットになるかもしれない。しかし「主家」毎に、氏名を並べる事になるから検索機能を持たせないと、「先祖探し」のお役には立たないようで、さてどうしようかと頭が痛い。
 全体数を数えていたが・・・止めた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コピー145枚

2008-07-04 12:59:19 | 徒然
 返却期限が明日に迫った本をかえす為に図書館に出かける。今日の目的は「旧陪臣代数及原禄根帳」の索引及び目録三冊のコピーだ。細川家家臣のうち、家来を召抱えている家とその名前が記されている。周囲の目を気にしながら、都合三十分ほどコピー機を占領、計145枚のコピーと相成った。

 熊本県立図書館では、「有禄士族基本帳」から検索して「明治七年・改正禄高等調」を調べると、陪臣であった方については旧主家の名前を知ることができる。(全てではない)「旧陪臣代数及原禄根帳」を、なんとか当サイトでUPしようという思惑である。一日5頁タイピングすれば、約一月で完了させる事ができる。午後からは、そんなお宅の数が幾つあるのか、いわゆる陪臣の方の数がどのくらいなのかの分析である。

 又、悪友から「馬鹿」と言われることは間違いない。
「ご苦労なこったい」と思っているのは、かく云うこの私である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐々木久子氏逝く

2008-07-03 15:42:24 | 徒然
                写真は東愛知新聞のサイトからお借りしました。


 佐々木久子(俳名・柳女)さんが亡くなった。「お酒」に関する数多くのエッセイをものにされ、私は親しんできた。火野葦平が亡くなった時の、彼女の悲嘆振りもエッセイで知った。後年の句 「風花と 共に旅立つ 酒徒善人」に、丹羽文雄をしてファザーコンプレックスと言わしめた、佐々木久子の深い想いを感じる。「酒の縁(えにし)」は、酒徒善人を呼ぶような気がする。久しく日本酒を飲まない。今日は冷酒でも飲みながら、彼女のエッセイを読み返してみようと思っている。       合掌                                       

 【佐々木久子】 ウィキペディアから抜粋引用
「1955年4月、25歳になる年、雑誌『酒』を創刊、以来1997年に501号をもって休刊するまでの42年間にわたり、編集長を務めた。
1956年早々、赤字で廃刊に追い込まれかけた同誌を小説家の火野葦平が救った。火野は、命ある限り無償で執筆する旨の証文を書き、同誌に原稿とトビラを約束どおり1960年のその死まで書き続けた。また多くの文人を紹介した。またおなじころ、前年1955年2月に小説家であり夫の坂口安吾を亡くし、1956年早々に東京・銀座で文壇バー「クラクラ」を開いたばかりの坂口三千代に、『クラクラ日記』の執筆を勧めたのも佐々木であった。」

 

  『浮気笑論 - 男がサカナにされる本』、日本文芸社、1966年
  『酒と旅と』、白馬出版、1972年
  『酒縁歳時記』、鎌倉書房、1977年
  『男百人男だけの肴』、田中小実昌、やなせたかし、加藤和彦らと共著・編著、
                             鎌倉書房、1978年
  『酒恋うる話』、鎌倉書房、1979年
  『酒 - はる・なつ・あき・ふゆ』、集英社文庫、1982年
  『地酒と肴'83 - 四季の味特選』、鎌倉書房、1983年
  『佐々木久子のお酒とつきあう法』、東電文庫、1983年
  『酒と旅と人生と』、集英社文庫、1983年
  『あまからぴん』、ミリオン書房、1985年
  『酒に生きるおやっさん』、鎌倉書房、1989年
  『おいしいもの見つけた』、ミリオン書房、1990年
  『続・酒に生きるおやっさん』、鎌倉書房、1990年
  『酒の旅人 - 佐々木久子の全国酒蔵あるき』、実業之日本社、1994年
  『覚むれば独り』、短歌研究社、1994年
  『わたしの放浪記』、法藏館、1995年
  『今宵も美酒を』、有楽出版社、2003年

        柳女逝きて 偲びし酒の ほろ苦し
                             津々堂(七月六日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする