光尚正室(三齋孫女・彌々--烏丸光賢女)は、寛永十三年十月十四日産後の肥立ちが悪く、僅か十七歳で亡くなった。寛永十五年九月十五日付の「酒井讃岐守宛書状」、「京極主膳宛書状」、「永井日向守宛書状」をみると、光尚の後室問題がいくつかあったことが伺える。差出人は忠利である。
「酒井讃岐守宛書」によると、一人は縁戚にも当たる小倉の小笠原右近殿(忠眞であろうか)の息女であり、又、古八条殿息女の話が持ち上がっている。三件の書状の内容からすると、どうやら同時期に持ち上がったものらしく、忠利の困りきった様子が伺える。いっそ将軍家からの「お声」でも掛かれば一挙に解決したのだろうが、・・・現実には光尚は後室をもらっていない。原因は何なのだろうか?。この事についての史料は、その後見つけ出せないでいる。
寛永十五年といえば、この年の二月天草島原乱が平定され、幕府も細川家もその終結に安堵の想いが満ちていた時期である。しかしその所労が重なり、寛永十八年三月十七日逝去する。忠利の死も原因の一つかもしれないが、時間的には辻褄が合わない気がする。
そんな中、
【寛永十九年(1642)光尚、綱利生母(清高院)に御暇を下されんとす。懐妊の旨を報告するも流産致さすべきの御意、岩間六兵衛諫言しこれを預かる。(綿孝輯録)】という事が有り、寛永二十年(1643)正月八日、綱利が江戸にて誕生した。
「酒井讃岐守宛書」によると、一人は縁戚にも当たる小倉の小笠原右近殿(忠眞であろうか)の息女であり、又、古八条殿息女の話が持ち上がっている。三件の書状の内容からすると、どうやら同時期に持ち上がったものらしく、忠利の困りきった様子が伺える。いっそ将軍家からの「お声」でも掛かれば一挙に解決したのだろうが、・・・現実には光尚は後室をもらっていない。原因は何なのだろうか?。この事についての史料は、その後見つけ出せないでいる。
寛永十五年といえば、この年の二月天草島原乱が平定され、幕府も細川家もその終結に安堵の想いが満ちていた時期である。しかしその所労が重なり、寛永十八年三月十七日逝去する。忠利の死も原因の一つかもしれないが、時間的には辻褄が合わない気がする。
そんな中、
【寛永十九年(1642)光尚、綱利生母(清高院)に御暇を下されんとす。懐妊の旨を報告するも流産致さすべきの御意、岩間六兵衛諫言しこれを預かる。(綿孝輯録)】という事が有り、寛永二十年(1643)正月八日、綱利が江戸にて誕生した。