津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

7月の最高気温

2008-07-21 17:33:12 | 熊本
  7月の熊本の最高気温です。
    7/1   30.1
    7/2   30.8
    7/3   29.8
    7/4   31.0
    7/5   32.0
    7/6  33.2 梅雨明け
    7/7   35.1
    7/8   35.2
    7/9   35.0
    7/10   33.6
    7/11   33.4
    7/12   31.8
    7/13   35.9
    7/14   35.1
    7/15   35.6
    7/16   34.9
    7/17   33.7
    7/18   31.4
    7/19   33.7
    7/20   34.1

 暑くて何をする気力も起きません。とうとう昨日はブログをさぼってしまいました。
18日の31.4度は雨が降ったせいですが、あとは連日こんな具合です。今日も34度を越えたようです。お陰でいささか心臓が痛くて薬を服用していますが、左手に痺れがきてなんだかいやな予感がします。又ブログをサボるかもしれませんが、暑さのせいだとお考え下さい。やる事が沢山有るのですが、手に付きません。
コメント (3)
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細川家家臣・田中氏

2008-07-19 13:00:06 | 歴史
 細川家内には田中姓の家が多く見受けられる。ここでご紹介する、細川家家臣田中典儀氏の家祖田中氏久(與右衛門)は、筑後32万石・久留米城主田中吉政の実弟である。田中吉政については、秀逸のサイト「田中吉政公とその時代」を御覧戴きたい。
      snkcda.cool.ne.jp/yosimasa

 さてこの氏久は、兄吉政と折り合いが悪く各地を流浪している。何時のころ細川家に召し出されたのか、豊前召し出しとあるが時期ははっきりしない。於豊前小倉御侍帳では、【留守居組 千石(一書ニ御鉄炮二十五挺頭)・・兵庫】という記述が見える。「福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・一)」によると、寛文三年正月(元旦)細川忠利は惣奉行である浅山清右衛門、田中與左衛門に改名を命じている。
「(浅山)清右衛門・(田中氏次)與左衛門も、明日名をかハり可申旨、小谷忠二郎を被仰出、則清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成旨由申上候也」
惣奉行として、豊前小倉時代に活躍した事が「日録」などで伺える。

  初代・左兵衛は後年(寛文六年)諫言の書「田中左兵衛封事」を上げた人である。「熊本縣史料・主要人物略伝」によると、実父を佐久間玄蕃(盛政)としている。
         ja.wikipedia.org/wiki/佐久間盛政
島原一揆において活躍、実質一番乗であったが公儀では益田弥一右衛門をして一番乗りとしたが、光尚の遺言に依り綱利代二千石加増されている。慶安元年十二月~延宝四年一月まで初代の城代職を勤めて隠居した。

  2、長五郎・氏栄(左兵衛)
     慶安三年江戸証人 延宝四年家督     
     人持衆併組迯衆 備前組 四千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
     元禄十二年十二月致仕
  3、兵左衛門・氏永(養子 実・溝口政登末子)
     元禄十二年家督 享保三年二月隠居
  4、左兵衛・氏昭(養子 実・二代氏栄子)  四千石 着座 屋敷・二ノ丸
     享保三年家督、城代、備頭 元文三年正月蟄居
     享保十二年十二月~享保十七年九月 城代
     享保十七年九月~元文三年 備頭大頭
     
     元文ニ年曹洞宗禅定寺に対しての離檀事件で蟄居処分となった

  5、左兵衛・氏常(養子 実・小笠原備前長知二男 傳太氏朝)
     元文五年四月家督、四千石拝領、城代、備頭 
     四千石 宝暦十二午正月十一日当役
     寛延三年九月~宝暦十二年一月 御留守居大頭
     宝暦十二年一月~明和七年十二月 備頭大頭
     明和七年知行召上られ蟄居
  6、典儀(兵庫助、兵庫) 若殿様御付・御用人 二千石
     明和七年十二月先祖の訳に対し旧知二千石拝領
     大組付
     安永二年二月~安永四年六月 御鉄炮五十挺頭
     安永四年六月~天明二年二月 中小姓頭
     天明二年二月~寛政元年閏六月(病死)用人
  7、熊太(養子 実・寺尾九郎左衛門二男)
     寛政元年十月名跡相続、大組付 同三年三月歿
  8、加治馬(養子 実・大木氏)  二千石
     寛政三年六月名跡相続、大組付
     寛政十二年一月(比着座)~享和二年十月 中小姓頭
     享和二年十月~文化十年九月 小姓頭
     文化十一年十月致仕
  9、大助  御中小姓・御中老支配 二千石
     文化十一年家督、天保十五年九月致仕
     文政二年十二月(比着座)~文政五年九月 中小姓頭
     文政五年九月~文政十二年四月 小姓頭
     文政十二年四月~天保三年十一月 用人
     天保三年十一月~天保七年三月 小姓頭
     天保十二年二月~弘化三年十月 用人
  10、典儀(氏典) 二千石
     天保十五年家督・明治二年十一月致仕
     弘化四年十月(比着座)~嘉永四年三月 番頭
     嘉永四年三月~安政二年十二月 小姓頭
     安政二年十二月~文久二年五月 佐敷番頭
     文久二年五月~慶応二年七月 留守居大頭・後大目付

  11、兵庫助(典儀)  弐千石
     明治二年家督、比着座

 細川家中屈指の名家として、重職を勤め明治に至った。
田中左兵衛氏久の藩主・綱利(当時25歳)に対する封事は、当時の綱利の生活ぶりをうかがわせて、興味深い。



 
                      
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飯川信堅女と伊彌(也)

2008-07-18 09:52:58 | 歴史
 天正十一年幽齋息女・伊彌(也)は、吉田兼見の息・吉田侍従兼治の元に嫁いだ。
「兼見卿記」の天正十二年二月廿九日条には次のような記述がある。
【侍従方女房衆へ、自丹後飯川山城息女、女房衆従父兄弟也、當月為産出、為見舞上洛、此方へ来、平産之間、此間ニ滞留云々】
三月六日、伊彌は女児を生む。兼見・兼治は連れ立って外出していたらしいが、報せをうけて飛んで帰っている。「侍従女房誕生也、早々罷歸之由申之間、則帰宅、婦子無別儀、女子也、先満足、弥繁昌祝着々々」と大喜びし、幽齋に連絡、幽齋も翌日の帰国を前に駆けつけている。
 ところで、飯川山城(信堅)女のその後の消息は分からないが、後に誅伐される飯河豊前の、姉であろうか妹であろうか判然としない。伊彌も先に嫁いだ一色義有を幽齋・忠興によって殺されている。飯河豊前・長岡肥後親子の誅伐を聞いての想いは如何ばかりであったろうか・・。


 光兼---+--光長---+----女
      |       |   |
      |       |  竹田梅松軒
      |       |
      |       +----女
      |            |
      |           松井康之
      |
      +--女(荒川治部少輔晴宣室)---菅野輝宗
      |
      |                篠山五右衛門     篠山与四郎
      | 飯河山城守信堅---+--飯河豊前宗祐---長岡肥後宗信
      |   |         |   慶長11年7月父子共に誅伐さる         
      +----女         +--
      |                     
      |       +--女(細川興元室)
      |       |
      +---清延--+---延元---+--延之   +--延相---兼辰
      |                |       |        
      |                +--延将---+=====兼辰
      |
      |  細川藤孝(幽齋)---+--忠興---忠利      
      |     |        |
      +-----麝香        +--興元 
      |               | 
      |               +--伊也(伊彌)
      |                  |
      |      吉田兼見---侍従・兼治
      |
      +---女・北畠左衛門佐教正室---女・米田求政室
      |
      +---女・進士美作守国秀室-----進士作左衛門(田辺城籠城)
      |
      +---女・築山弥十郎貞俊室(義晴命により藤孝生母付き)
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Chagall を観よう

2008-07-17 13:50:41 | 熊本
       【シャガール展 ~色彩の詩人~】
   2008年7月18日~8月31日 熊本県立美術館・本館
   9:30~17:15(入館は16:45まで)、月曜休館(祝日の場合はその翌日)
                    ただし、8月25日は臨時開館

   料金: 一般1200円、大学生700円、高校生以下無料
   主催者: 熊本県立美術館、西日本新聞社、TKUテレビ熊本
   問い合わせ先: 熊本県立美術館 096-352-2111

 ロシアに生まれ、フランスで活躍した画家、マルク・シャガール(1887-1985)。彼の作品における優れた色彩感覚や詩的な絵画世界は、画家の死後もなお絶大な人気を誇っています。同展では、モスクワにあるロシア国立トレチャコフ美術館の所蔵する優れた作品コレクションを核に、パリのシャガール家の所蔵品などを加え、油彩作品はもちろん、水彩、版画、タペストリーなど、多様な表現技法による作品全160点を通して、シャガール芸術の粋が紹介されます。また、ユダヤ劇場を壁画で満たし空間を「シャガールの箱」と賞しめた全幅約8mの巨大壁画も、現存する作品の全てが展示され、同展の目玉となっています。


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細川氏動向--兼見卿記から(9)

2008-07-17 13:04:04 | 歴史
天正十二年(1584)
■正月廿七日:自丹州亀山盛方院迄使者申来云、當月中丹後長岡兵部大輔息女、侍従為縁邊上洛之由、自松井(康之)方書状案也、彼状到来治定也、當月一両日之儀也、俄■督了(略)
■正月卅日:自丹後未上洛、如何不審了、侍従宅内造作悉出来
■正月五日:(略)盛方院女房衆ヨリ使者石見来云、丹後ヨリ申来也、■月侍従方へ之女房衆上洛之處、注進以来大雪以外■、乗物以下旦以不成自由、然間延引、當月者■月之間、来二月此方次第可為上洛之由申来也、長岡与一郎・松井(康之)一両日中上洛也、猶其間可相談■由申了
■二月□□:出京、松井新介(康之)令所労在京之間、為見舞罷向
      (日付ヲ塗抹シ、五日條下ニ連記シタルモノナラン)

■三月一日:(略)自丹後長兵息女荷物三荷・長櫃一、持来、正月侍従(兼治)方へ祝言、慥相談之處、両三度相違也、當月中■度可有上洛、先荷物差上之由案也、盛方院ヨリ相添長壁入道・倅者一人、丹州ヨリ中間小六・人夫十二人、以上廿人計来、各進喰、彼中間ニ五十疋遣之、荷物請取置之、上洛次第之由申遣了
■三月十五日:(略)盛方院来、自丹後長兵書状持来、侍従方へ祝言、来廿一日彼息女上洛也、廿三日京着也、廿四五日日取之事、此方次第之由■来了
■三月廿三日:(略)及晩自盛方院申来、侍従方へ祝言、長兵息女上洛之由案内了
■三月廿八日:天晴、今夜祝言之事各用意、侍従方除拂已下■悉出来了、申下刻為迎兵部少輔兼有乗馬、其外■侍數輩、輿舁以下悉自此方申付遣了、巳刻■来御方門外之間、請此方祝義進献■了、■五丁、四丁ハ荷輿也、主長柄之輿也、供者■人、勘左衛門尉、自盛方院長壁入道為案内着来、(中略)■献以後、予・青女對面、以上七献、祝儀終而今夜御方へ■行、卒度又祝儀二献、供之勘左衛門皈京(後略)
■三月廿九日:於侍従方今朝祝儀、各調之持遣了、女房館四人之内一人、御乳皈京、愛宕下防(坊)弟子今度■へ之女房衆与兄弟也、明日得(途)度也、今朝歸御乳、彼■之御乳也、仍早々為登山歸了、自盛方院為見舞、女房館一人来
■三月卅日:今晩侍従方之女房衆各召寄、為此方祝儀、三献祝之
■四月廿四日:柴田(勝家)於越州北庄居城而切腹、彼女共數人指殺、次天主(守)ニ懸火、悉相果云々
■五月四日:(略)自丹後長兵(藤孝)、御方(兼治)へ音信(以下略)
■六月一日:長兵来、筑州(羽柴秀吉)京上洛、為迎罷出之間、音信之由来也(以下略)
■六月五日:長岡兵部大輔入道可来之由、自盛方院書状到来、祝儀以後為礼可来之内存■(歟の略字)、用意申付了、及暮来、三十疋持来、後刻侍従方へ罷向了、予跡ヨリ罷向、進盃之砌也、令對座祝義了、青銅百疋持参云々、次予方へ請、次請予方、侍従室(長岡氏・伊彌)同前、青女(兼和室佐竹氏)初而對面、於内義進夕喰、入夜之間灯火、ラウソク、長兵・盛(吉田浄勝)・月齋(千秋)・予・侍従・青女相伴、青女方へ千疋折帋、夕喰以後皈京、侍従ニ遣馬、青四キ、近来之駿馬也
■六月六日:未明長兵へ遣使者、昨日之申礼了、(略)
■六月七日:(略)予向長兵旅宿(以下略)
■六月八日:長兵下向大坂、今度来臨已後不遂面謁也
■六月十五日:(略)長兵大阪上洛、書状・海鹿(イルカ)一樽到来、返事訖
■六月十六日:出京、向長兵旅宿、他行也、後刻盛方院ニ逗留之由申之間罷向、夕喰之時分也、向座席暫相談了、明日邊可来之由約諾了
■六月十七日:長兵来、(略)
■六月十八日:月齋出京之間、長兵へ言傳了、昨夕越中守(長岡忠興)・・(以下不明)
■六月十九日:神龍大明神侍従社参、長兵愛宕登山云々、直下國云々(以下略)
■六月廿日:越中守(忠興)上洛之間罷向、盛方院ニ逗留也、罷向之處對面、マン中五十持参、明日来儀請之處、一両日中下向之間、此度ハ不可之由被申也
■六月廿二日:越中守下國云々、(以下略)
■八月卅日:(略)長岡越中宿所へ音信、屋敷普請場ニ在之、即面会、築地以下普請驚目了、宿所未假屋之躰也、諸侍各屋敷築地也、廣大也、在家天王寺へ作續也、(以下略)
■九月廿八日:(略)長岡入道(幽齋)上洛、罷向面会(以下略)
■十月十八日:侍従女房衆(兼治室長岡氏・伊彌)懐妊五ヶ月也、帯之祝儀(以下略)
■十一月四日:(略)午刻長岡兵部大輔入道来(中略)長兵入直御方へ来、次予方へ来、侍従(兼治)ニ一腰一文字、メヌキ・カウカイ後藤作之、悉誘之遣之、侍従罷出申礼了、所望之間焼風呂、次羞夕喰、次茶別儀、及暮皈京、雖令抑留、明朝一会約諾之由理之間、不及是非也
■十一月五日:長兵へ侍従方ヨリ為礼遣使者
■十一月六日:今夕長兵入へ依約諾出京、侍従召具、先日一腰為礼也、長兵為茶湯興行他出之間、先参近衛入道殿(前久)、御對面、屢御雑談也、次向長兵旅宿、皈宿、即面会、侍従同前(以下略)
■十一月九日:(略)長兵入今朝未明歸國也、清少へ音信(以下略)
■十二月廿八日:(略)自丹後幽齋書状、鱈三到来、即返事了
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初鳴き

2008-07-17 09:16:54 | 熊本
 梅雨明けから10日にしてようやく蝉が鳴き始めました。(蝉時雨とまでは行きません)本格的夏というわけですが、なんとも蒸し暑い、凄い暑さが続く熊本です。台風の進路もいやな感じです。最悪のコースをたどる事も考えられて心配です。今日は所によっては雨模様だと云いますが、・・・気配が全くありません。TVを観ていたら、熱中症は家の中が一番多いそうですよ。風を通して、こまめに水分を取って・・・充分気を付けましょう。
 追記 16:25
四時過ぎ、久しぶりの雨です。現在はお湿り程度の雨ですが、今晩から明日未明に掛けてはどうやら期待できそうです。植物達にとっては恵みの雨になりそうです。

 追記 18:55
五時過ぎから凄い雷雨となりました。側溝の水が溢れ出して、道は冠水状態です。それでも涼しい風が Goodです。

 追記 19:18
天空一面「からし色」です。不思議な光景です。そんな中、沢山の稲妻が天と地をつないでいます。今年は豊作間違いなし、保証されたようなものです。
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私と「小堀流」

2008-07-16 11:34:04 | 歴史
 遠い親類(熊本では縁家という)に小堀家がある。母方の祖母(竹内氏)の実父が、小堀流踏水術師範の猿木宗那である。兄弟が四人あった。母親は小堀水翁の娘である。故に平七が養嗣子として小堀家に入った。この一族は小堀流の為に生きたといっても過言ではない。そして西南の役では熊本隊に加担、それぞれ罪を得た。


        猿木権七---+--宗那---+----眞壽夫----恭経
           |    |       |
        +--●    |       +----●(竹内)---●(私の母親)---津々堂
        |       |       |
        |       |       +----●(深草)
        |       |
        |       +--(西村)宗系---○==眞壽夫・二男
        |       |
小堀水翁--+--○----------●
                 |  |
                 +--(小堀)平七
                 |
                 +--(城)義核

 小堀流は
  小堀長順---池辺弥八郎---山東彦右衛門---能勢熊之允---小堀水翁---猿木宗那
  ---小堀平七---城義核---広木寅雄---猿木恭経  と継承され今日にいたっている。

少年時代は河童だった私も、今では25mほども泳げそうにない。今にして思えば、私も稽古をしておけばよかったなーと思うのだが、後の祭りである。ちょうどお盆の15日、白川の稽古場があったという井川渕の辺りを眺めながら先祖を偲んだ。
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白いスッポン

2008-07-15 16:03:46 | 熊本
 7/13日の新聞が、和水町の某氏が菊池川で体長25センチの白いスッポンを吊り上げ、農産物直売所で展示してると報じている。どこかでは黄色い亀(スッポン?)の話が有ったように記憶するのだが(詳細は忘れた)

 ふと思い出したことがある。
ずいぶん古い話だが、宝亀という年号がある。「続日本書紀」に有るのだそうだが、熊本で「白い亀」が捕らえられ、天皇の即位にあたり祥瑞の徴として献上され、これにより「宝亀」と改元されたとされる。
          ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E4%BA%80

 ガソリンほか諸物価が値上がりし、老人が虚仮にされるこのご時世、白いスッポンでは役不足だが、何かいいことが起ればと願うのである。全く無策の福田内閣、そろそろ年貢の納め頃ではないのか。そして国民ももう少し怒らにゃーいかん。
 
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空蝉

2008-07-15 13:52:07 | 徒然
 今朝ほどもみじの木にへばりついた、空蝉を見つけました。それでも蝉の合唱は聞えないのです。昨日東京の永青文庫近くにお住まいの、Tさんからのお知らせによると、どうやら東京でも同様の現象があるみたいですね。少し気味が悪くなってしまいます。熊本は今日も35度を越えました。あと二月こんな状況が続く熊本ですが、体力が持つかしらと、いささか弱気になっています。友人の薦めで「黒酢」を飲み始めました。コップ半分ほどに氷を入れて、一気呵成に飲み干すのですが・・・マズイ。これも猛暑を乗り切る為です。皆様もどうぞご自愛ください。

         暑中お見舞い申上げます  津々堂
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細川氏動向--兼見卿記から(8)

2008-07-15 13:07:06 | 歴史
天正十年(1582)
■正月五日:長兵へ遣使者、為(里村)紹巴一会興行出座云々
■正月八日:早々長岡兵部・同與一郎(忠興)来、長兵三十疋、与一郎百疋持来、直下向坂本也、
■正月十日:長兵自坂本上洛之次来、羞夕飡、今夜抑留畢
■正月十一日:同道長兵了、先参禁裏、御對面也(略)
       自牧庵書、明朝長兵為茶湯招請、予可来之由也、相心得之由返事了
■正月十二日:早天向牧庵、長兵・與一郎・一庵(横濱良慶)・予等也、茶以後長兵ニ予云、昨日御礼殿下其外所々不参也、可罷出之由申、起座了
■正月十三日:長兵至山崎下向、   相尋与一郎、同前山崎へ下向也、松井新介(康之)方へ罷向、長兵令同道山崎へ下向也、貮十疋・狸一遣之、彼母(法壽)ニ相渡、申置畢
■五月十二日:早旦長岡兵部大輔来、晩与一郎(長岡忠興)来
■五月十三日:長兵滞留也、明日下向安土云々
■五月十四日:未明長兵下向安土、明日十五日徳川(家康)至安土被罷上也、就其各安土へ祇候云々、徳川逗留安土之間、惟日(光秀)在庄之儀自信長被仰付、此間用意馳走以外也

■六月二日:早天當信長之御屋敷本應(能)寺而放火之由告来、罷出門外見之処治定也、即刻相聞、企惟任日向守謀反、自丹州以人數取懸、生害信長、三位中将(織田信忠)為妙見(覚)寺陣所、依此事而取入二条之御殿、即諸勢取懸、及數刻責戦、果而三位中将生害、此時御殿悉放火、信長親子・村井親子三人(貞勝・清次・貞成)討死、其外不知數、事終而惟日大津通下向也、山岡館(景隆・近江勢多城主)放火云々、(略)

   (巻首ヨリ此ニ至ルマテ別本天正十年載セシ所ト重複セリ) 正月一日~六月十二日
******************************************************************************

■七月六日:(略)長岡兵部大輔自濃州上洛之間、令皈京、於紹巴所面会、今度仕合粗相談了、直皈宅
■七月七日:(略)一庵ニ長兵旅宿候間罷向、明日令下向坂本、丹波五郎左衛門(長秀)可申礼、奏者無案内候間、長兵書状之事相談候処、奏者両人へ折帋遣之、入夜皈宅
■七月九日:(略)長岡与一郎(忠興)上洛、清少納言(舟橋國賢)滞留候間、罷向面会、向長兵面会(略)
■七月十日:(略)長岡与一郎方へ一折饅頭、遣書状・使者了
■七月十八日:(略)長兵書状到来、明日皈國之由也(中略)向長兵旅宿一庵、面会、明日下向治定之由被申了、(吉田)牧庵在國之儀自長兵被申、(略)
■七月十九日:(略)出京、向長兵旅宿、面会、明日皈國之由被申也(略)
■七月廿四日:(略)長岡与一郎在京、盛方院ニ滞留也、罷向面会、(略)
■十月十五日:信長葬送之儀於連臺野而在之(中略)長兵上洛(中略)後刻長兵為見廻向旅宿、面会
■十月十九日:(略)向長兵旅宿、令滞留了、明日筑州(羽柴秀吉)為茶湯而請之由用用意也、切壺、今夜各呑之、色以下一段也、長兵満足了
■十月廿日:早天長兵会所向妙喜庵(略)
■十月廿四日:長兵来、今日逗留、明日下向坂本也
■十月廿五日:(略)長兵坂本へ下向、及暮上洛、白川へ罷出面会、傘持令遅参候条、搦捕可成成敗之由被申付候間、罷出種々以詫言許容了
■十月廿六日:(略)長兵在京候間罷向(略)
■十月卅日:出京、長兵在京也、罷向面会
■十一月一日:(略)出京、向長兵旅宿、他出也(略)
■十一月十一日:(略)長兵来、今夜逗留、清少(舟橋國賢)・盛法(吉田浄勝)・小笠原(貞慶)来、及深更相談了
■十一月十二日:早天長兵出京、(略)長兵来、被持参鯉包丁、次又亭主振舞(略)
■十一月十五日:(略)後刻出京、向長兵、後藤所之逗留之間罷向、面会、相伴夕飡、今度両度罷向、亭主令馳走了、及深更皈宅
■十一月十七日:(略)次長兵旅宿一庵へ罷向、面会、明日下向候由被申了(略)
■十一月廿五日:出京、松井新介(康之)旅宿へ罷向、面会(略)
■十一月廿七日:(略)丹後長兵へ差下飛脚与三太郎、侍従(兼治)縁之儀也、自盛方院書状、予遣書状了(略)          (藤孝女・伊也と吉田兼治との縁談)
■十一月廿九日:丹後國長兵へ差下飛脚与三太郎、自盛方院書状、侍従縁之儀也。
■十二月三日:自丹後与三太郎罷上、祝義之事延引、来正月也
■十二月七日:(略)羽柴筑州至江州出勢、五万余、越州芝田修理(柴田勝家)進与相刻、然間永濱へ為手遣云々)
■十二月十三日:(略)今朝長兵・与一郎至江州出陣云々

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蝉時雨・・・×××

2008-07-14 15:39:09 | 熊本
 今年の夏はなんだかおかしい。例年梅雨明けと同時に、いきなり蝉の合唱に見舞われるのだが、今年は一向にそれがない。我が家の周辺ばかりの現象なのかと思っていたら、どこもそうらしい。梅雨明けが早いと蝉の鳴き出しも早いと聞くが、何故なのだろう。熊本では例年の1.6倍の降雨量があったというが、影響があるのか。図書館前の、いかにも蝉が好みそうな木立の中で、しばし自転車をこぐのを止めて見上げてみたが・・・静かなものです。おかしいですねー、なにか不吉な感じですねー。
 しばし耳をすますと、聞えてくるのはスズメの元気な鳴き声ばかりです。
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光尚の再婚話・・書状-3

2008-07-14 09:41:57 | 歴史
 「寛永十五年、妙解公より永井日向守様へ御書之内(抜粋)」

 従八条殿之御使ニ八月廿一日之御状拝見仕候
       (中略)
肥後縁邊之儀付江戸にて(酒井)讃岐殿へ申候ハ被仰出候而からは不及申御意次第之事候条存寄通申候 我等右近續之ことにて候間肥後所へ右近娘申合候様ニハ如何右近も左様ニ被存候由申候つる 小壱岐殿・右近殿との我等間の使にて候 加様ニ申候故少も八条殿を我等きらひ申事にハ無御座候 申直シ候事ハ延慮仕候由御返事申候 此分ニてハ叓済申わけニてハ無之候間さぬき殿へ申入候ハ右内証申置候縁邊之儀如何被成候哉相済間敷様ニも候ハヽ八条殿より切々縁邊之儀被仰能候ハん間右内談之衆不相調候ハヽ八条殿との縁邊之儀相調候様ニと申入候如御存知従方々縁邊之儀申上候へハ 御諚次第ニいつれの成共相調候間八条殿の様なる御衆よりハ肥後との縁邊之儀百人も被仰上候へかしと存事候 貴様如御状八条殿御縁之儀ハ同心ニて御座候へとも右右近殿息女之儀申置候故それを差置候てハ不被申右之分ニ御座候事
       (後略)
     九月十五日                  (忠利)
        永日向様

  
           +--まん-----彌々
           |         ↑
 細川忠興-----+--忠利     |
              ↑      ↓
              |------光尚
              ↓
 小笠原秀政---+--千代姫
           |
           +--右近-----
              忠眞

 光尚正室は三齋の愛娘萬(烏丸光賢)女・彌々であり、三齋の意向によるものであることは間違いなかろう。その彌々が亡くなった後の後室として、忠利室・千代姫の姪女(小笠原右近忠眞)が候補として浮かび上がった。忠利がいう「續」の間柄であるから、望まれた話であったろう。千代姫としても愛息の嫁として実方の姪女を迎えることは喜びであったろう。そこに八条某の方からの話が持ち込まれたという経緯らしい。

 ご紹介した三つの書状は全て九月十五日に発せられている。忠利の悩みは深い。その後の経緯を知る文書に出会っていないが、結局二つの話は壊れている。
宇土細川家の細川興文室が八条家の出であるが、前出の八条家であろうか。不思議な因縁ではある。
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光尚の再婚話・・書状-2

2008-07-13 20:49:44 | 歴史
 従 八条殿為御使生嶋玄蕃方被下付而八月廿三日御状拝見仕候 御暇にて御上之由可被成御甘与奉察候 仍古八条殿御息女肥後守と一所ニ被成度由吉良上野殿貴様を以讃岐殿へ従當八条殿被仰入候処一段可然儀と讃岐殿茂思召候間則被達 上意相調候様ニと被思召へとも内々我等内証讃岐殿迄申置候方御座候間我等ニ一應御聞候而其上可費仰上候処 旧冬早々罷上付而無其儀候 讃岐殿より我等ニ可被成御尋候へ共幸貴様御上候間八条殿へ今一往被仰上我等同心之返事候ハヽ讃岐殿へ可被仰下由御申候付而玄蕃方被成御下候条従貴様も我等方へ右之通被仰越候様ニと八条殿被成御意候条付而御状披下候由具被入御念忝存候 吉良上野殿より八条殿へ右之通状参候由得其意存候 右之段々承届候如被仰越内々讃岐殿へ内々申置候かた御座候 古八条殿御息女肥後守と一所ニ可被成歟との儀餘惶多儀なから忝御意とハ奉存候併右内々ニて讃岐殿へ申置候かた御座候ニ付而又申直シ候儀ハ不罷成候 聊以八条殿仰を嫌申儀にてハ無御座候 此由可然様被仰上被下候 猶玄蕃方可被申候
恐惶謹言
        九月十五日                 (忠利)
           京極主膳様
               御報
   猶々如仰若狭殿へも御物語ニて御座候つる以上
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往来手形之事

2008-07-13 11:43:34 | 歴史
 熊本縣史料・近世編第二「三二・部分御舊記・嘉禮部全--関所并津方部」(p339)
往来手形之事
 「一筆申入候度々御六ヶ敷申入事ニ御座候へとも我等家中下々親類之女壹人肥後迄遣申候 御関所切手申請度候 加藤肥後母儀是ニ被居候故肥後之女数多御座候而帰國仕度由申候ニ付而切々申入候 松平大隈殿へも此段申入候 猶又貴様よりも被仰入候而可被下候
猶此者口上ニ可申入候 恐惶謹言
   卯月十日                   (忠利)
     牧野内近様
       人々御中

 時代が分からない細川忠利の書状である。
 「大変愚かしい申し入れであるが、当家家中の者の親類の女一人を肥後迄遣わすについて、関所切手を申請したい。加藤肥後(忠広)の母親も是におられるし、数多くの肥後の女が帰国したいと切々申し入れている。松平大隈殿にもこのことは申し入れてあるが、なお又あなたからも仰っていただけるよう(お願いしたい)、なお(詳細については)使いの者が口上にて申上げる」
 大意こういうものであろうか。ここで興味深いのは、加藤忠広の母親が誰かという事、そして「是」なる場所は何処であるのか、そして近侍している熊本出身の女性たちが古里に帰りたがっているという事である。「愚かしい申し入れ」は「度々」行われている事を伺わせる。何故忠利が、熊本の旧主忠広の母親に仕えた女達の、帰国の斡旋をしているのか・・・。解決できそうにないミステリアスな一文である。
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光尚の再婚話・・書状-1

2008-07-12 14:04:02 | 歴史
 一筆啓上候仍早晩哉肥後守縁邊之儀小笠原殿息女と申合候ハヽ只今右近殿と我等との間同前之儀ニ御座候 御次而之刻御取成被成可被下候哉与内々申入候つる右近殿よりも其段貴様へ可申上由壱岐殿を以御申候つる 其分にて御座候哉重而 上意御座候へハ不及申何之道にも御理りハ不成わけと奉存候ニ付而先達右之段申入候つる 其刻より如申入(大脱カ)名衆ニて御座候へハ何れにても忝存事候 次當八条殿より古八条殿御息女肥後守と一所ニ被成度由被仰越候 貴様へも被仰候由被仰聞候 御人持にても無御座候間同心ニて御座候へとも右より貴様へ内々申置候儀御座候間申なをし儀ハ不罷成由御返事申上候 右内々申入候方不成様ニ候ハヽ我等方よりハ言上不成わけニて御座候得とも 八条殿なとの被仰分ハ御披露も被成能候ハん間従八条殿之被仰分相調候様ニ被仰上可被下候 又いつれそ被仰出候てからハ不成儀ニ御座候間存通如此候 恐惶謹言
   (寛永十五年)九月十五日                  (忠利)
            酒井讃岐守様
                人々御中
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