中瀬氏について、2003年8月当サイトを立ち上げてから(と書き出して、まさしく偶然8/22であることに気づいた)、5年間全く気がつかなかった事に遭遇した。
中瀬左太郎という人が在る。於豊前小倉御侍帳は、「供之者・御扈従与也 百五十石」と紹介している。寛永五年七月九日の日帳に次のような記述がある事に気づいた。
「菊野伊織より、林隠岐を以被申越候ハ、中瀬左太郎殿いよ(伊予)より御下候時、下ノもの四人めしつれ被下候、十人遣せ可申旨、被仰出付、都合十人ニ而居被申候へ共、去年ハ御留守ニ被居ニ付、人もさほと入間敷存、左太郎殿ニ■見仕、四人ふちをはなし申候、然処ニ、今度片山示庵家ニ被遣候、余人ずなく候て、事かけ申候間、今弐人ほと御付候て被下候様ニと、被申越候事」とある。この書き様は左太郎なる人が只者ではない事を伺わせる。寛永五年七月十五日の日帳は「中瀬左太郎殿へ、御知行被進之候事」と「於豊前小倉御侍帳」の記載に関係するような記述をしている。
果たして何者なのかと考えながら、「新肥後細川藩侍帳」を見ていたら、かって松下氏を名乗った中瀬氏(助一郎家)の存在が目に飛び込んできた。
松下石見守 遠州久能城主
松下外記 (石見二男)
松下源太左衛門 加藤式部少輔臣
初代:助九郎・豊長(初・助九郎 後・長徳)とある。
思わず「おーつ」と声を上げてしまった。松下石見守とは、遠州久能城主(16,000石)之綱ではないか。豊臣秀吉が最初に仕えた、松下嘉兵衛である。娘は柳生宗矩夫人である。なんと言う事か、五年の間気が付かなかった。
左太郎殿の記事に遭遇しての事だが、こんな事もある。早速「先祖附」や中瀬家伝略(上妻文庫-42)を読まなければ成らない。侍帳に次ぎのサイトをリンクさせねばならない。
武家家伝-松下氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/matusita.html
ウィキペディア・松下之綱 ja.wikipedia.org/wiki/松下之綱
興奮冷め遣らぬ66爺である。奇しくも今日はサイトをアップして丸五年、乾杯だ。
寛永六年二月十三日付け日帳は、御鉄炮衆二名が「今日江戸へ遣候事」と記し、「江戸諸方へノ音信物」を列記する。その冒頭に「一、磯部長八郎へ野田源四郎より、御硯のよしにて壱包遣候を、相渡ス」とある。能衣装、鶴五つ、三齋様御返書、御こほ殿御文、(米田)監物殿状などと共にである・・・。
磯部長八郎は当家初代庄左衛門の兄、この時期藩主忠利は江戸にある。参勤のお供であろう。
野田源四郎は、於豊前小倉御侍帳によると、「供之者・御扈従与也・四番 百五十石」とある。
同役の人であろうか。
磯部長八郎は当家初代庄左衛門の兄、この時期藩主忠利は江戸にある。参勤のお供であろう。
野田源四郎は、於豊前小倉御侍帳によると、「供之者・御扈従与也・四番 百五十石」とある。
同役の人であろうか。
武家家伝-筑紫氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/tikusi_k.html
筑紫氏 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/筑紫氏
秀吉代島津攻めに参戦、その功により筑後上妻郡に、一万八千石の領地を安堵された筑紫氏は、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が起こると、西軍に味方し戦後の仕置で筑紫広門は改易となる。その後、加藤清正、ついで細川家の庇護を受けた。細川忠興の口添えで謝罪し、大坂の役に於いては徳川方に参加し、嫡家は旗本となった。
細川家家臣筑紫氏は、上野助広門をもって初代とするが、息・左近重門が細川忠興の弟幸隆女・兼を室として細川家に仕えた。
1代・上野助・広門
寛永五年正月二日・日録に「筑紫主水(広門)殿へ、由布院之内三千石被進之ニ付而、由布院・
横灘惣高ノ目録仕、江戸へ最前差上申候を、今日御前より被成御返候、江戸ノ段二入置申候
事」とある。
2代・左近・重門(三男 八十郎)
馬廻組四番 七百石 藤 妙慈院様御婿也(室・細川忠興弟幸隆女・兼)
(於豊前小倉御侍帳)
肥陽諸士鑑によると、3代・権左衛門治門、4代・作左衛門種門、5代・権左衛門照門とある。以下明治に至った。又二つの分家があるが、三家とも代々の名前に筑紫氏の通字「門」を戴いている。
乱世に翻弄された一族である。
筑紫氏 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/筑紫氏
秀吉代島津攻めに参戦、その功により筑後上妻郡に、一万八千石の領地を安堵された筑紫氏は、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が起こると、西軍に味方し戦後の仕置で筑紫広門は改易となる。その後、加藤清正、ついで細川家の庇護を受けた。細川忠興の口添えで謝罪し、大坂の役に於いては徳川方に参加し、嫡家は旗本となった。
細川家家臣筑紫氏は、上野助広門をもって初代とするが、息・左近重門が細川忠興の弟幸隆女・兼を室として細川家に仕えた。
1代・上野助・広門
寛永五年正月二日・日録に「筑紫主水(広門)殿へ、由布院之内三千石被進之ニ付而、由布院・
横灘惣高ノ目録仕、江戸へ最前差上申候を、今日御前より被成御返候、江戸ノ段二入置申候
事」とある。
2代・左近・重門(三男 八十郎)
馬廻組四番 七百石 藤 妙慈院様御婿也(室・細川忠興弟幸隆女・兼)
(於豊前小倉御侍帳)
肥陽諸士鑑によると、3代・権左衛門治門、4代・作左衛門種門、5代・権左衛門照門とある。以下明治に至った。又二つの分家があるが、三家とも代々の名前に筑紫氏の通字「門」を戴いている。
乱世に翻弄された一族である。
蘇鉄という木は、釘などを打ち込むとよく育つという。「鉄で蘇る」からとしてその名がついた。よく役所や学校の玄関先に植えられたりしていた。
熊本では、玉名市大野下(旧・岱明町)に有名な蘇鉄がある。その持ち主は「蘇鉄さん」(本当の話、詳しくは下記サイトを御覧あれ)
www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/taimei/kanko/sotetu/sotetu.html
「鉄」という字は「金を失う」と書くから、蘇鉄を玄関先に植えるのはよくないという話を聞いた事がある。なんだかこじつけがましい話が多い。
寛永六年六月江戸の忠利から、「蘇鉄を十本急ぎ送るように」との連絡が入る。小倉・東鳥町に住む浄喜という人が見事な蘇鉄を持っていた。これが召し上げられる事になったが、浄喜は下葉を七本ばかり切り落としてしまった。町奉行は浄喜に入牢を沙汰する。町の人々がいろいろ詫び言を入れ時間が経過していく。命を受けている吉田縫殿に対し奉行は、「今日の七つ時には、かならす/\籠者可申付」ている。この申し付けには不思議な一文が付されている。「但、かようニ申渡候時ハ、八つを打、一寸ほともかうたち(香立)可申比にて候つる也」と・・・?注脚には「入牢ノ刻限ヨリ一時一寸程モ香立チシ後」とある。(なんのこっちゃ)
江戸から文が下されてから十三日後、家老有吉頼母・米田監物が検分、厳重な荷造りが成され、翌六月十八日出船していく。江戸屋敷の庭や玄関先にでも植えられたのだろうか、蘇鉄の消息は知れない。籠者になった浄喜の消息も知れない。
借金だらけの細川家、鉄ならぬ金を蘇らせたかったのかも知れぬ。
熊本では、玉名市大野下(旧・岱明町)に有名な蘇鉄がある。その持ち主は「蘇鉄さん」(本当の話、詳しくは下記サイトを御覧あれ)
www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/taimei/kanko/sotetu/sotetu.html
「鉄」という字は「金を失う」と書くから、蘇鉄を玄関先に植えるのはよくないという話を聞いた事がある。なんだかこじつけがましい話が多い。
寛永六年六月江戸の忠利から、「蘇鉄を十本急ぎ送るように」との連絡が入る。小倉・東鳥町に住む浄喜という人が見事な蘇鉄を持っていた。これが召し上げられる事になったが、浄喜は下葉を七本ばかり切り落としてしまった。町奉行は浄喜に入牢を沙汰する。町の人々がいろいろ詫び言を入れ時間が経過していく。命を受けている吉田縫殿に対し奉行は、「今日の七つ時には、かならす/\籠者可申付」ている。この申し付けには不思議な一文が付されている。「但、かようニ申渡候時ハ、八つを打、一寸ほともかうたち(香立)可申比にて候つる也」と・・・?注脚には「入牢ノ刻限ヨリ一時一寸程モ香立チシ後」とある。(なんのこっちゃ)
江戸から文が下されてから十三日後、家老有吉頼母・米田監物が検分、厳重な荷造りが成され、翌六月十八日出船していく。江戸屋敷の庭や玄関先にでも植えられたのだろうか、蘇鉄の消息は知れない。籠者になった浄喜の消息も知れない。
借金だらけの細川家、鉄ならぬ金を蘇らせたかったのかも知れぬ。
寛永三年十二月廿五日の「日帳」に、次のような記述がある。
「明石源左衛門身上之儀ニ付、手前不成との書物差上ケ候処ニ、弥いか様と存候処を書付、上ケ可申旨、被 仰出候、当年ハ源左衛門壱人ニ不限儀ニ候間、 殿様より思召にてかわれ候儀無之との 御意候、其旨申渡候」
生活が立ち行かぬのは源左衛門一人に限った事ではないので、特別の思し召しは無いという意である。この時期に限った事ではないが、「家臣の困窮」や「走り者」に関する記述が多いことに気がつく。
■寛永元年十月十三日
林弥五左衛門手前不罷成ニ付、知行上ケ可申之由候て、書物上ケ申候、いかヽ可仕哉と、被尋候
へハ、御留守ニ知行を上ケ候とても、各として請取儀ニあらす候間、江戸へ可被請御内証之由ニ
相究、書物を被返候へとの儀ニ候事
■寛永三年十一月廿一日
上野左右馬助知行日ニ焼、其上年々不足米有之ニ付、知行所より一粒も米取申儀無之、礑うえ
ニおよひ申仕合候間、如何様とも被 仰出儀なと候ハヽ、承度候、左も無之候ハヽ、うへニ及申候
間、せはらをもやもやふり(背腹をも破り)申にて可有候間、一たん御とヽけ申由被申候、其段如何
様ニ成共、談合可申候間、可被得其意由、申渡候事
■寛永三年十二月廿三日
魚住木工允手前礑(はたと)不罷成候間、御次手も有之ハ、立 御耳候様ニとの被申候事(ママ)
■寛永四年正月廿八日
塚原徳斎儀、手前不罷成由、直訴仕ニ付、切腹被 仰付候、但、小笠原宮内(長良)・道家左近
右衛門(立政)・永良長兵衛、三人けんこう寺(玄功寺)へ召連被参、切腹仕廻被申由ニて、登城被
仕候、并徳斎書置被仕候を、御家老衆へ被相渡候処ニ、修理・兵庫ニも見せ可申由、被仰候とて、
うけ取置申候事
(正月晦日:塚原徳斎妻子、御国を被成御払候)
(二月朔日:塚原徳斎妻子弐人下関へ被成御払、川口出申見届人ニ、小頭荒瀬角兵衛遣候事)
「明石源左衛門身上之儀ニ付、手前不成との書物差上ケ候処ニ、弥いか様と存候処を書付、上ケ可申旨、被 仰出候、当年ハ源左衛門壱人ニ不限儀ニ候間、 殿様より思召にてかわれ候儀無之との 御意候、其旨申渡候」
生活が立ち行かぬのは源左衛門一人に限った事ではないので、特別の思し召しは無いという意である。この時期に限った事ではないが、「家臣の困窮」や「走り者」に関する記述が多いことに気がつく。
■寛永元年十月十三日
林弥五左衛門手前不罷成ニ付、知行上ケ可申之由候て、書物上ケ申候、いかヽ可仕哉と、被尋候
へハ、御留守ニ知行を上ケ候とても、各として請取儀ニあらす候間、江戸へ可被請御内証之由ニ
相究、書物を被返候へとの儀ニ候事
■寛永三年十一月廿一日
上野左右馬助知行日ニ焼、其上年々不足米有之ニ付、知行所より一粒も米取申儀無之、礑うえ
ニおよひ申仕合候間、如何様とも被 仰出儀なと候ハヽ、承度候、左も無之候ハヽ、うへニ及申候
間、せはらをもやもやふり(背腹をも破り)申にて可有候間、一たん御とヽけ申由被申候、其段如何
様ニ成共、談合可申候間、可被得其意由、申渡候事
■寛永三年十二月廿三日
魚住木工允手前礑(はたと)不罷成候間、御次手も有之ハ、立 御耳候様ニとの被申候事(ママ)
■寛永四年正月廿八日
塚原徳斎儀、手前不罷成由、直訴仕ニ付、切腹被 仰付候、但、小笠原宮内(長良)・道家左近
右衛門(立政)・永良長兵衛、三人けんこう寺(玄功寺)へ召連被参、切腹仕廻被申由ニて、登城被
仕候、并徳斎書置被仕候を、御家老衆へ被相渡候処ニ、修理・兵庫ニも見せ可申由、被仰候とて、
うけ取置申候事
(正月晦日:塚原徳斎妻子、御国を被成御払候)
(二月朔日:塚原徳斎妻子弐人下関へ被成御払、川口出申見届人ニ、小頭荒瀬角兵衛遣候事)
今日の新聞は足掛け六年に及ぶ、延長140メートルの石造の船着場の改修工事が、今年度末完了する事を報じている。藩政時代、加勢川の水運を利用して、20万俵もの米がここから荷揚げされ近くの「御蔵」に納められた。熊本五ケ町の一として、この川尻の町は重要な場所であった。二棟あったといわれる「御蔵」のうち、一棟は現存しているがその大きさに驚かされる。
明治十年西郷隆盛は兵を挙げ、熊本を目指しここ川尻の地に陣所を置く。住民に請われて鎮撫隊を結成し、街の治安維持に奔走したのが、かって川尻奉行を勤めた上田久兵衛(休)である。「御蔵」の裏手に奉行所があり、藩主の休息所があった。騒然とした一時期があったとは思えないような、静かな佇まいが魅力的である。
明治十年西郷隆盛は兵を挙げ、熊本を目指しここ川尻の地に陣所を置く。住民に請われて鎮撫隊を結成し、街の治安維持に奔走したのが、かって川尻奉行を勤めた上田久兵衛(休)である。「御蔵」の裏手に奉行所があり、藩主の休息所があった。騒然とした一時期があったとは思えないような、静かな佇まいが魅力的である。
1970年代だと思われるが、山本健吉氏は夫人を伴い、島原の乱の激戦地原城址を訪ねておられる。
そのことを「原城址の赤のまま」に書かれているが、夫人の言葉として次のように紹介されている。
訪れる人は、私たちの外は誰もいない。このひっそりとした静かさに、家内はいたく感動したらしかった。「一度も栄華の時を持たなかった城址なのね」と、言った。
ふと三橋美智也が歌った「古城」の歌詞を思い出した。(山本先生は、土井晩翠の「荒城の月」や島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」を引用されているが、私の方は俗っぽくていけない)
1 松風騒ぐ 丘の上
古城よ独り 何偲ぶ
栄華の夢を 胸に追い
ああ 仰げば侘し 天守閣
2 崩れしままの 石垣に
哀れを誘う 病葉や
矢弾のあとの ここかしこ
ああ 往古を語る 大手門
3 甍は青く 苔むして
古城よ独り 何偲ぶ
たたずみおれば 身にしみて
ああ 空行く雁の 声悲し
当然のこと、「往古を語る大手門」も「天守閣」もない。ただ有明の海から風が吹きとおす、荒寥たる台地だけが残された。
山本健吉氏は宿の板前さんの請いに応じて、次のような句を残されている。
薯畑にただ秋風と潮騒と
地の果てに地の塩ありて蛍草
幸ひなるかなくるすが下の赤のまま
半世紀ほど前(山本氏と時期があまり変らないようだ)、何の知識も持ち得ないままここを訪れた事がある。今一度訪ねて、瞼をとじて刻を偲んでみたいと深く思った。
そのことを「原城址の赤のまま」に書かれているが、夫人の言葉として次のように紹介されている。
訪れる人は、私たちの外は誰もいない。このひっそりとした静かさに、家内はいたく感動したらしかった。「一度も栄華の時を持たなかった城址なのね」と、言った。
ふと三橋美智也が歌った「古城」の歌詞を思い出した。(山本先生は、土井晩翠の「荒城の月」や島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」を引用されているが、私の方は俗っぽくていけない)
1 松風騒ぐ 丘の上
古城よ独り 何偲ぶ
栄華の夢を 胸に追い
ああ 仰げば侘し 天守閣
2 崩れしままの 石垣に
哀れを誘う 病葉や
矢弾のあとの ここかしこ
ああ 往古を語る 大手門
3 甍は青く 苔むして
古城よ独り 何偲ぶ
たたずみおれば 身にしみて
ああ 空行く雁の 声悲し
当然のこと、「往古を語る大手門」も「天守閣」もない。ただ有明の海から風が吹きとおす、荒寥たる台地だけが残された。
山本健吉氏は宿の板前さんの請いに応じて、次のような句を残されている。
薯畑にただ秋風と潮騒と
地の果てに地の塩ありて蛍草
幸ひなるかなくるすが下の赤のまま
半世紀ほど前(山本氏と時期があまり変らないようだ)、何の知識も持ち得ないままここを訪れた事がある。今一度訪ねて、瞼をとじて刻を偲んでみたいと深く思った。
稲葉信通は細川忠興外孫である。信通の正室は織田信良の次女と三女、次女が亡くなり継室に三女が入った。ちなみに長女は徳川秀忠三男・忠長夫人である。
この織田信良夫人は久我通興の孫娘と紹介される事が多いが、まさに下津棒庵女であり、継嗣信昌の生母である。
織田信長---信雄---信良
|----+--信昌
下津棒庵---● |
+---女(徳川忠長室)
|
+---女(稲葉信通正室)
|
+---女(稲葉信通継室)
|
稲葉典通---一通 |
|-------信通(臼杵藩主)
+---多羅
|
藤孝---+--忠興---+---忠利
|
+---加賀
|
木下延俊(日出藩主)
信通の祖父典通は、信長からその人柄を高く評価された。
肥後加藤家改易にあたり、稲葉一通、木下延俊らの大名が八代城の受け取りに奔走した。共に九州の臼杵、日出を領し、豊前小笠原家・中津小笠原家・杵築小笠原家(後移封)・杵築松平家などの小笠原一族などの細川一族が九州を治めることになる。
この織田信良夫人は久我通興の孫娘と紹介される事が多いが、まさに下津棒庵女であり、継嗣信昌の生母である。
織田信長---信雄---信良
|----+--信昌
下津棒庵---● |
+---女(徳川忠長室)
|
+---女(稲葉信通正室)
|
+---女(稲葉信通継室)
|
稲葉典通---一通 |
|-------信通(臼杵藩主)
+---多羅
|
藤孝---+--忠興---+---忠利
|
+---加賀
|
木下延俊(日出藩主)
信通の祖父典通は、信長からその人柄を高く評価された。
肥後加藤家改易にあたり、稲葉一通、木下延俊らの大名が八代城の受け取りに奔走した。共に九州の臼杵、日出を領し、豊前小笠原家・中津小笠原家・杵築小笠原家(後移封)・杵築松平家などの小笠原一族などの細川一族が九州を治めることになる。
寛永七年(1630)四月七日、稲葉彦四郎なる人が小倉に入った。「彦四郎様、今日被成御着船候事」と「日帳」は記す。稲葉彦四郎とは、忠興女・多羅(多良・豊後臼杵城主・稲葉民部少輔一通室)の息・信通である。
忠利とは伯父・甥の間柄である。
ja.wikipedia.org/wiki/稲葉信通
慶長十三年(1608)の生まれであるから、当時23歳、まだ家督には至っていない。忠利の甥に対する深い心遣いが感じられる。
■四月八日
・今朝於本丸、彦四郎様被成御振舞、諸侍衆何茂長袴にて被相詰候事
(台所備品がいろいろ調えられると共に、生肴の納入などが指示されている)
■四月九日
・彦四郎様を、今朝御本丸にて、被成御振舞被成候也
・今晩 殿様(忠利)・彦四郎様、監物殿(米田是季)へ御成候也
■四月十日
・今朝ハ北ノ御丸にて、彦四郎様を御数寄被成候事
・彦四郎様御同道にて、長池へ御慰二被成御座候也
(前日幕の引き回しや、畳替えなどが急遽行われている)
■四月十二日
・彦四郎様、今朝御本丸にて被成御振舞被成候事
・今晩、彦四郎様被成御同道候而、備前殿(小笠原長元)御成候事
■四月十五日
・昼より、彦四郎様被成御同道候而、さヽいぜ二御舟にて御慰二被成御座候、それより、東御花畠
ノ様ニ被成御座候、彦四郎様より、殿様を被成御振舞候事
■四月十八日
・竹ノ子十本、 彦四郎様御やとにて御膳御上り被成候間、御料理のため二、御掃除の者に持
せ遣、小堀長左衛門尉ニ渡させ候也
・今晩 彦四郎様被成御同道候而、清田七助(乗栄)所へ御成候也
■四月十九日
・今朝八つ時分より、彦四郎様被成御同道、西ノ御茶やへ被成御座、彼地にて夕御膳上ル、酉之
下刻ニ被成御帰城候事
■四月廿日
・今晩氏家志摩守(元高)殿へ御成候也、但、彦四郎様御同道也
■四月廿一日
・彦四郎様御馬之血を可被成御取せ候間、白楽可申付由ニ御座候、則上田忠左衛門をよひ、此段
申渡候、忠左衛門を則遣候也
・彦四郎様御やとへ笋(竹の子)拾本上候(略)
■四月廿二日
彦四郎様御同道にて内匠(朽木昭知)殿へ御成候也
■四月廿九日
(忠利演能)
■四月晦日
・彦四郎様、今朝御本丸にて被成御振舞候也
・今晩、薮図書(正成)所へ 彦四郎様被成御同心(ママ)、御成候也
ここで寛永七年の「日帳」は、五月分が途切れている。六月に入ってから、彦四郎殿に関する消息は見えないところを見ると、五月の内に小倉を離れたのであろう。それにしても、忠利の熱の入った饗応ぶりに驚かされる。
彦四郎の母(忠利・妹)はこの時期既にない。慶長十九年豊後杵築で亡くなっている。27歳。彦四郎七歳の時である。そんな彦四郎が、忠利にとって大変いとおしく思えたのだろう。
忠利とは伯父・甥の間柄である。
ja.wikipedia.org/wiki/稲葉信通
慶長十三年(1608)の生まれであるから、当時23歳、まだ家督には至っていない。忠利の甥に対する深い心遣いが感じられる。
■四月八日
・今朝於本丸、彦四郎様被成御振舞、諸侍衆何茂長袴にて被相詰候事
(台所備品がいろいろ調えられると共に、生肴の納入などが指示されている)
■四月九日
・彦四郎様を、今朝御本丸にて、被成御振舞被成候也
・今晩 殿様(忠利)・彦四郎様、監物殿(米田是季)へ御成候也
■四月十日
・今朝ハ北ノ御丸にて、彦四郎様を御数寄被成候事
・彦四郎様御同道にて、長池へ御慰二被成御座候也
(前日幕の引き回しや、畳替えなどが急遽行われている)
■四月十二日
・彦四郎様、今朝御本丸にて被成御振舞被成候事
・今晩、彦四郎様被成御同道候而、備前殿(小笠原長元)御成候事
■四月十五日
・昼より、彦四郎様被成御同道候而、さヽいぜ二御舟にて御慰二被成御座候、それより、東御花畠
ノ様ニ被成御座候、彦四郎様より、殿様を被成御振舞候事
■四月十八日
・竹ノ子十本、 彦四郎様御やとにて御膳御上り被成候間、御料理のため二、御掃除の者に持
せ遣、小堀長左衛門尉ニ渡させ候也
・今晩 彦四郎様被成御同道候而、清田七助(乗栄)所へ御成候也
■四月十九日
・今朝八つ時分より、彦四郎様被成御同道、西ノ御茶やへ被成御座、彼地にて夕御膳上ル、酉之
下刻ニ被成御帰城候事
■四月廿日
・今晩氏家志摩守(元高)殿へ御成候也、但、彦四郎様御同道也
■四月廿一日
・彦四郎様御馬之血を可被成御取せ候間、白楽可申付由ニ御座候、則上田忠左衛門をよひ、此段
申渡候、忠左衛門を則遣候也
・彦四郎様御やとへ笋(竹の子)拾本上候(略)
■四月廿二日
彦四郎様御同道にて内匠(朽木昭知)殿へ御成候也
■四月廿九日
(忠利演能)
■四月晦日
・彦四郎様、今朝御本丸にて被成御振舞候也
・今晩、薮図書(正成)所へ 彦四郎様被成御同心(ママ)、御成候也
ここで寛永七年の「日帳」は、五月分が途切れている。六月に入ってから、彦四郎殿に関する消息は見えないところを見ると、五月の内に小倉を離れたのであろう。それにしても、忠利の熱の入った饗応ぶりに驚かされる。
彦四郎の母(忠利・妹)はこの時期既にない。慶長十九年豊後杵築で亡くなっている。27歳。彦四郎七歳の時である。そんな彦四郎が、忠利にとって大変いとおしく思えたのだろう。
津川近利について、8/13のブログで書いた。その時期(寛永七年)すでに弟・辰珍が細川家に召し出されており、久しぶりの兄弟の交流があったことだろう。次の一文は、辰珍のみならず、近利の息・近元が細川家にいた事が分かる。
寛永六年五月廿日「日帳」抜粋
「津川数馬殿御座候前之へいころき候間、作事申付候様ニとの御使候(以下略)」
「津川近元邸前ノ転倒ノ塀ノ作事ヲ命ズ」との脚注がある。(福岡県史・近世編--細川小倉藩二p259)
数馬
斯波義近---+---近利----近元----辰房
| |
| ↓ 平左衛門
+---辰珍======辰房---+--辰之---辰貞==辰氏---辰陳---→(津川家)
| | ↑
| +---辰則(辰氏)・・・・・・
|
+---親行(室・織田有楽女)
|
+---女
|----津田三十郎---→ (津田家)
織田信重
近元が細川家に召し出されていたのかどうかは、史料が乏しく現況では判然としない。細川家家臣・津川家祖辰珍は近元の息・辰房を養嗣子としている。当時辰珍は1,250石、寛永十九年250石を甥・津川三十郎に分知し、養嗣子・辰房は1,000石を家督している。いろいろ面白いお家の事情がある。
寛永六年五月廿日「日帳」抜粋
「津川数馬殿御座候前之へいころき候間、作事申付候様ニとの御使候(以下略)」
「津川近元邸前ノ転倒ノ塀ノ作事ヲ命ズ」との脚注がある。(福岡県史・近世編--細川小倉藩二p259)
数馬
斯波義近---+---近利----近元----辰房
| |
| ↓ 平左衛門
+---辰珍======辰房---+--辰之---辰貞==辰氏---辰陳---→(津川家)
| | ↑
| +---辰則(辰氏)・・・・・・
|
+---親行(室・織田有楽女)
|
+---女
|----津田三十郎---→ (津田家)
織田信重
近元が細川家に召し出されていたのかどうかは、史料が乏しく現況では判然としない。細川家家臣・津川家祖辰珍は近元の息・辰房を養嗣子としている。当時辰珍は1,250石、寛永十九年250石を甥・津川三十郎に分知し、養嗣子・辰房は1,000石を家督している。いろいろ面白いお家の事情がある。
福岡県北九州市小倉北区藍島
www.yado.co.jp/sima/aisima/aisima.htm
homepage2.nifty.com/kitaqare/tenk02.htm
何故、福岡県北九州市小倉北区藍島なのかというと、「日帳」の次の記述が気になってサイトをサーフィンしてみた。
■寛永七年八月朔日:
岩田喜右衛門尉申候、あいノ嶋へ矢野牛三疋つれ参候、彼地ニ廿居申由、
所ノあま共申候、主申候ハ、十七外ハ居不申候、定而、物ノかけニ居申
候や、海士共申分ニ候へ共、都合弐十参疋ノ筈ニ而候由申候
■ 同 八月廿九日:
一、あいの嶋へ野牛をつれさせ、遣候御鉄炮衆、友田二郎兵衛与秋山理
左衛門申付、遣候也
一、あいの嶋ノ野牛、大小弐拾三、前かとより居申候、此方より三つ召
連参候、合廿六い申由申候也
いつの日か、細川小倉藩のあちこちを散策してみたいと、いろいろ資料集めをしています。ちょっと興味ある場所ですねー。
www.yado.co.jp/sima/aisima/aisima.htm
homepage2.nifty.com/kitaqare/tenk02.htm
何故、福岡県北九州市小倉北区藍島なのかというと、「日帳」の次の記述が気になってサイトをサーフィンしてみた。
■寛永七年八月朔日:
岩田喜右衛門尉申候、あいノ嶋へ矢野牛三疋つれ参候、彼地ニ廿居申由、
所ノあま共申候、主申候ハ、十七外ハ居不申候、定而、物ノかけニ居申
候や、海士共申分ニ候へ共、都合弐十参疋ノ筈ニ而候由申候
■ 同 八月廿九日:
一、あいの嶋へ野牛をつれさせ、遣候御鉄炮衆、友田二郎兵衛与秋山理
左衛門申付、遣候也
一、あいの嶋ノ野牛、大小弐拾三、前かとより居申候、此方より三つ召
連参候、合廿六い申由申候也
いつの日か、細川小倉藩のあちこちを散策してみたいと、いろいろ資料集めをしています。ちょっと興味ある場所ですねー。
オリンピック気分で浮かれている間に、終戦記念日を迎えた。長崎・広島の原爆投下の日や、熊本大空襲、そして終戦、当時三歳であった私には定かな記憶が無い。しかし山の端に遠望した「長崎のきのこ雲」や、焼夷弾が落ちた庭先の松ノ木が燃えた話、機銃掃射を受けた母の話などを聞かされていて、やはり八月が来るとそれなりの感慨が胸をよぎる。
www.city.kumamoto.kumamoto.jp/aramashi/sengo60/gaiyou.html - 9k
『熊本大空襲と平和の誓い新た--熊本空襲戦災概要』
母の話によると、機銃掃射は操縦者の顔が確認できるほど低空からだったという。幸いに母の前後数メートルを跨ぐように弾が飛んできたという。上記空襲の記録にもある、大江に住まいしていたが、私は庭先の防空壕に入っていたらしい。入口付近の松ノ木に焼夷弾の油布らしいものが落ちてきて火が立ち上り、あまりの熱さに出ようとしたところを、祖母から帯をつかまれて引きずり込まれたらしい。幸いすぐ鎮火して大事には至らなかったが、そんな体験が私にもあった。
オリンピックの日本勢の活躍に一喜一憂するなか、ふと我に帰りふかく頭を垂れた。
www.city.kumamoto.kumamoto.jp/aramashi/sengo60/gaiyou.html - 9k
『熊本大空襲と平和の誓い新た--熊本空襲戦災概要』
母の話によると、機銃掃射は操縦者の顔が確認できるほど低空からだったという。幸いに母の前後数メートルを跨ぐように弾が飛んできたという。上記空襲の記録にもある、大江に住まいしていたが、私は庭先の防空壕に入っていたらしい。入口付近の松ノ木に焼夷弾の油布らしいものが落ちてきて火が立ち上り、あまりの熱さに出ようとしたところを、祖母から帯をつかまれて引きずり込まれたらしい。幸いすぐ鎮火して大事には至らなかったが、そんな体験が私にもあった。
オリンピックの日本勢の活躍に一喜一憂するなか、ふと我に帰りふかく頭を垂れた。
細川家家臣に佐々を名乗る家が二家ある。一は佐々長政を祖とする。いま一つ佐々庄左衛門という人を祖とする家がある。ここで取り上げるのは、後者の話である。
活字化された史料を読んでも、その文章の真意や行間を窺がう事が出来ず、勉強の足りなさを痛感する。ここに登場する主人公は、名前がないので判然としないが、どうやら今に残る佐々家の歴代の人ではないと思われる。
佐々少(庄)左衛門尉子いとまえ事、則いとま出候つる、
其身之申分一段わけきこへ不便(憫)ニ候、親も可仕様
無之候てめいわく可仕候、此中迄かヽへ置候段しんろう
ニ候由、能々可申候いつかたへも参候内弐拾人扶持相
渡し可申候、猶口上ニ申候、以上
寛永拾六年二月廿日 (御印)
奉行中
はたしてこの主人公に何があったのか、不憫としながら弐拾人扶持を与え暇を与えた、真の理由とは何か?「親も可仕様無之候てめいわく可仕候、此中迄かヽへ置候段しんろうニ候由・・」とはどう読むのか。どなたかご教示いただければ幸いである。
活字化された史料を読んでも、その文章の真意や行間を窺がう事が出来ず、勉強の足りなさを痛感する。ここに登場する主人公は、名前がないので判然としないが、どうやら今に残る佐々家の歴代の人ではないと思われる。
佐々少(庄)左衛門尉子いとまえ事、則いとま出候つる、
其身之申分一段わけきこへ不便(憫)ニ候、親も可仕様
無之候てめいわく可仕候、此中迄かヽへ置候段しんろう
ニ候由、能々可申候いつかたへも参候内弐拾人扶持相
渡し可申候、猶口上ニ申候、以上
寛永拾六年二月廿日 (御印)
奉行中
はたしてこの主人公に何があったのか、不憫としながら弐拾人扶持を与え暇を与えた、真の理由とは何か?「親も可仕様無之候てめいわく可仕候、此中迄かヽへ置候段しんろうニ候由・・」とはどう読むのか。どなたかご教示いただければ幸いである。
寛永七年六月十日の小倉細川藩「日帳」に、興味深いたった一行の記述が有る。
「津川休閑様、今朝御下着被成候、上下五人にて御下候由也」とあり、以下関連記事が次のように続く。
十一日、「今朝、津川休閑様御本丸ニ而被成御振廻候事」
十三日、「今朝休閑様を御本丸にて被成御振舞候事」
十八日、「今日ハ殿様東御花畠ニ被成 御座、休閑様被成御振舞候事」
そして九月十二日
賄奉行、料理人遣候ハヽ、御六ケ敷可有御座候間、遣シ申間敷旨、御諚にて、遣シ不申候也
「明日、休閑様被成御上候、御料理人ハ八蔵と申もの也、御賄人ハ御鉄炮衆二人、
上奉行ニ歩之御小性赤尾茂兵衛申付候也、右分ニ申付候由、申上候へハ、賄人
奉行・料理人上せ申間敷候、御心易被思召候様ニとノ儀候、御賄を渡切可申旨、
被 仰出候也」
「明日、休閑様乗上上り候御船頭ハ、三木清大夫、ろ数廿四丁、八端帆也」
こうして、三ヶ月ばかりを豊前で過ごした休閑は、京都へと帰っていった。
この旅はどういう目的の旅であったのか大変興味深いが、詳しい史料が見当たらない。
この津川休閑は斯波武衛家・斯波左兵衛督義近の息・津川近利であり、細川家家臣となった津川辰珍の兄である。近利の孫・辰房が辰珍の養嗣子となった。家康・秀忠に仕え、致仕後剃髪して休閑と号したという。寛永十九年に歿している。
四郎右衛門・辰珍(弟・義銀二男)
(1)頭衆 千弐百五十石 「源」 (於豊前小倉御侍帳)
(2)千二百五十石 (肥後御入国宿割帳)
蒲生氏、後蜂須賀氏に依る 次で忠利代豊前に召寄られ客分・知行千石
肥後入国の際、弐百五十石加増 寛永十九年(甥)津田三十郎へ七百石分知
万治元年七月二十八日歿
(ウィキペディアの斯波義銀(義近)において、近利が細川家に仕えたとあるが、これは明らかな間違いである)
「津川休閑様、今朝御下着被成候、上下五人にて御下候由也」とあり、以下関連記事が次のように続く。
十一日、「今朝、津川休閑様御本丸ニ而被成御振廻候事」
十三日、「今朝休閑様を御本丸にて被成御振舞候事」
十八日、「今日ハ殿様東御花畠ニ被成 御座、休閑様被成御振舞候事」
そして九月十二日
賄奉行、料理人遣候ハヽ、御六ケ敷可有御座候間、遣シ申間敷旨、御諚にて、遣シ不申候也
「明日、休閑様被成御上候、御料理人ハ八蔵と申もの也、御賄人ハ御鉄炮衆二人、
上奉行ニ歩之御小性赤尾茂兵衛申付候也、右分ニ申付候由、申上候へハ、賄人
奉行・料理人上せ申間敷候、御心易被思召候様ニとノ儀候、御賄を渡切可申旨、
被 仰出候也」
「明日、休閑様乗上上り候御船頭ハ、三木清大夫、ろ数廿四丁、八端帆也」
こうして、三ヶ月ばかりを豊前で過ごした休閑は、京都へと帰っていった。
この旅はどういう目的の旅であったのか大変興味深いが、詳しい史料が見当たらない。
この津川休閑は斯波武衛家・斯波左兵衛督義近の息・津川近利であり、細川家家臣となった津川辰珍の兄である。近利の孫・辰房が辰珍の養嗣子となった。家康・秀忠に仕え、致仕後剃髪して休閑と号したという。寛永十九年に歿している。
四郎右衛門・辰珍(弟・義銀二男)
(1)頭衆 千弐百五十石 「源」 (於豊前小倉御侍帳)
(2)千二百五十石 (肥後御入国宿割帳)
蒲生氏、後蜂須賀氏に依る 次で忠利代豊前に召寄られ客分・知行千石
肥後入国の際、弐百五十石加増 寛永十九年(甥)津田三十郎へ七百石分知
万治元年七月二十八日歿
(ウィキペディアの斯波義銀(義近)において、近利が細川家に仕えたとあるが、これは明らかな間違いである)
「オグシオ」人気の陰に隠れていた、NECスカイの二人がバドミントンランキング1位の中国勢を破り、まるで優勝したような大騒ぎ。NECセミコンダクターズ九州・山口の本拠地である熊本も、大変盛り上がっている。メダルを目指して頑張ってもらいたいものだ。NECは今秋パソコンの値上げをする事を発表したばかりだが、メダルでも取れれば大変な宣伝効果だろう。
www.sky.necel.com/social/badminton.html (社会貢献)
陣内貴美子以来熊本はバドミントン王国(?)だ。小中学生の目の色が変りそうだ。
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陣内貴美子以来熊本はバドミントン王国(?)だ。小中学生の目の色が変りそうだ。