津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

新暦と旧暦

2009-07-07 07:43:49 | 徒然
 朝からブログを開いてみると次のようにあった。
        【07月06日のアクセス数
           閲覧数 : 777 PV
           訪問者数 : 189 IP 】
今日は七月七日七夕さま、閲覧数777とはなかなか縁起がよいではないか。

今日の新聞によると旧暦の七夕様は、今年は八月二十六日とある。
天気も良いし星空も窺えるかと思っていたが一寸興ざめな感じ・・・・・

お盆の話にはまだいささかの時間があるが、面白い落書(らくしょ)を見つけた。

     明治初年太陽暦に改まり盆会も新暦で行くと云はれ小野部田村辺の歌
           太陽暦ハ新暦二テ略シテ新トモ云ヒ
           太陰暦ハ旧暦ハ旧暦二テ旧トモ云ウ
       「村長が新(死)でしまへと云ふけれど
                   灸(旧)でもすへて生きたがよかろふ」

     昭和27年、下益城郡小野部田出身、岩崎孝氏の話とある。

 お墓参りは新暦、お盆休みは旧暦(といっても単に八月だが)・・・ややこしい。


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松井興長・諫言 1-2

2009-07-06 07:29:53 | 歴史
一、御当国之儀者、御人躰を被成御撰候而、国主ニ被仰付候と相聞申候、 妙解院様以来
   殿様迄三代無御恙被成御相続候儀者、 細川中興に而御座候と奉存候事、出来申間敷
   様ニとハたれ/\も存候而茂、出来る時之分別、前かとに仕候者無御座候、此所第一之
   御心持之様ニ乍憚奉存候、一国一郡ニ御座候御衆、夫々ニ応し候ての御分別可有御座
   候、余国と違申たる当国之御国主様にて御座候へハ、万事御一身ニ可有御座と乍憚奉
   存、如此申上候事
一、妙解院様御跡目 真源院様江被仰付候刻、 万事御国之御仕置、 妙解院様之御時之
   如ニ被成候様ニと上意ニ而御座候、 真源院様之御跡目殿様江被仰候刻、為上使朽木
   民部との・兼松弥五右衛門殿御下向、御本丸ニ而、何れ茂年寄并物頭を被召出、右近
   様茂御座候而、上意之趣被仰渡、其時分被成御渡候御墨印ニ而、御国之御仕置者、真
   源院様之御時之如ニ被成候様ニと御座候、ケ様之儀茂御心得ニ不可然と被為思召候儀
   者、御直し被成、ケ様之相撲なと御取立被成候儀者、如何敷奉存候事
一、真源院様御国被成御拝領、初而御入国之時、御礼に私儀江戸江為御使被遣候、其節
   酒井讃岐守殿江茂参上仕候処、私江御直ニ被仰聞候ハ、御国之御仕置、 妙解院様之
   節之如くニ被成候得者、何之事も無御座候、 真源院様御若く御座候而、何茂かも可然
   様ニと被成候へハ、結句悪敷可有御座候、不悪様ニと被成候か能候間、今五六年之間、
   謹而奉得其意候由申上、熊本江罷上候而、残る年寄共江茂右之趣申聞候、よきさへ過
   申候得者あしく御座候、まして悪敷儀ハ不及申と思召候而、如此讃岐守殿被仰候と奉存
   候事
一、先年、公儀御礼ニ私参上仕候刻、殿様江私存寄乍憚申上候、其御座敷に盛方院・沢村
   宇右衛門(友之)・山本三左衛門・御局かいつ、此者被居候歟と覚申候、 妙解院様之御
   事者、御取立ニ而当御国被成御拝領候、 真源院様者何之御奉公茂不被成候得共、其
   御儘御家督被成御相続候、其上 真源院様御逝去之刻、御国を被差上候由被仰上候得
   共、不相替 殿様江被成御拝領候儀者、不大方、公義之御厚恩ニ而御座候得者、常々御
   衆並ニ被成御心得候儀ニ而無御座候、万事御法度茂御先代之ことくに被遊、乍憚可然奉
   存候、何れも年寄共其覚悟ニ而御座候、皆共心得悪敷、殿様御難儀ニ成不申様ニと、是
   而已不断心遣ひを仕候、当御家風ハ各別ニ而御座候ニ、当世めきたる御風俗に成候てハ、
   是非茂なき儀ニ御座候、乍憚為 御心得申上候事
一、残年寄共、此儀存寄可申候得共、殿様被 仰付候儀者、年若者申とも、何かと申上、自
   然ニ茂叶ひ不申候得者、如何敷遠慮仕かと私推量仕候、私儀者 幽齋様以来、御当家
   五代御奉公仕候、最早弥老衰いたし、第一病気ニ罷成候故、明日とも不存儀ニ御座候へ
   ハ、慮外を顧不申、又ケ様之儀申上間敷者とハ被思召間敷哉と奉存、旁憚多奉存候得共
   申上候、悪筆と申、年罷寄、中々ケ様之儀、書申事不相成仕合ニ罷成候二付而、十日計
   りかゝり申候而漸々と書調申候、文躰も跡先二罷成、被成御覧かたく可有御座と奉存候、
   命なからへて、今一度 御目見仕、相果申度奉存候計ニ御座候、右之趣宜敷預御披露度
   候、恐惶謹言

          万治三年三月十一日           長岡佐渡守(興長)
                山本三左衛門殿
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吉田司家

2009-07-05 12:25:01 | 歴史
 松井興長の藩主・綱利に対する諫言が「相撲道楽」であることを書いた。綱利は細川家の大長老である興長の諫言であるから、少しは慎んだかと思うとどうもそうではないようだ。寛文元年四月綱利は初入国するが、興長はその年の六月二十八日死去する。不謹慎な言い方だが、綱利にとってはもっけの幸いである。私は吉田家の先祖附を詳しく読んでいないが、二十四世追風・吉田長善氏の文章によると、吉田家の肥後入国は寛文元年とあるから、興長の死後召し出されたのであろうか。豪胆な正確であったとされる綱利の一面が垣間見える。以後幕府の承認の下、吉田司家は「相撲の神様」として細川家に仕え、維新後も熊本に在った。横綱の認証なども吉田司家により執り行われてきたが、事業の失敗等が原因してその地位を失った。

           ja.wikipedia.org/wiki/吉田司家
           yoshidatukasa-ke.net/index.html

 祖父が細川家の家政所に勤めていたこともあって、我が家には数枚の相撲関係の写真が残されている。認証の行事などは、小石川のお屋敷で執り行われたらしく、双葉山が訪問した際の記念写真である。
 母方の祖母が「善門さん」と親しく呼んだ人があったが、この人がどうやら二十三世の追風であったらしい。実父・猿木宗那と親しかったのであろう。可愛がってもらったようだ。
 
 藤崎八旗宮参道に面する「吉田司家」の跡地は、現在マンションが建っている。
維新期存亡の危機にあった相撲道を、国技に導いたのが善門さんである。
なんとか再興して欲しいと願うものだ。そう考えると、綱利も現在の相撲道の隆盛に係わっていると考えても可笑しくない。興長の心境やいかに・・・
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松井興長・諫言 1-1

2009-07-05 10:04:39 | 歴史
  万治三年(1660)三月、松井興長が山本三左衛門を通じ藩主・綱利に上げた諫書である。
 この年、綱利十八歳、興長は八十歳である。翌寛文元年綱利は初入国、興長は綱利の成長と
 細川家の将来に心を痛めながら八十一歳の生涯を閉じるのである。

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 君(綱利)御盛長ありて、相撲を好ませられけれハ、佐渡(松井興長)諫書を奉りける、其文に曰

一、其御地御静謐、 殿様弥御機嫌能被成御座候旨、目出度奉存候事、
一、御国にて御相撲取を御仕立可被成由ニ而、相撲取共御雇なされ、師匠二被仰付、熊本
   へ御下被成候二付、御国中在々所々二而すくやかなる人柄を選、只今相撲の指南仕候、
   就中御扶持人共、人々相撲取と申候得者、何と仕候而茂其者の心得も違ひ、町方・在方
   にてかさつ成儀ニ候へハ、何も下々痛二罷成候、 幽齋様・ 三齋様・ 妙解院様御三代、
   相撲なと一円に御寵愛不被成候而、結句御嫌ひにて、御法度ニ被仰付、 真源院様御代、
   少々間相撲折々被成御覧候二付而、乍憚私儀存寄之通、推参申上候得者、殊外御同心、
   其儘いつとなく被成御止候、細川家之儀者日本に隠れも無御座高家にて、御三代こふた
   ふなる御作法、他家にてもかゝみに仕候事にて御座候、 真源院様御若く御座候得共、万
   事御しみなる御様躰にて、御若き御人様之様ニハ人も不存、 上々様方茂左様に思召たる
   と相聞申候、殿様御若年ニ被成御座候而茂、御先代より御作法被成御替儀候、以之外之
   様に乍憚奉存候、たとへ江戸中何れ之御大名様にても、御年来に応し候而之御慰を被成
   とても、殿様御事ハ脇々に被成御搆事ニ而御座なく候、たとへ御先祖様之内、相撲なとの
   様なるはしたなる儀、又ハ下々痛ミ申様成御慰、被成御好候事御座候共、左様之不被可
   然儀者、当時ハ被成御止候こそ、御尤之儀ニ御座候、終ニ、御代々無御座候相撲を、御一
   身之御慰計に、初而御取立被成候ハ、如何敷奉存候、相撲を御好被成候と申候得者、只
   今被召抱候相撲取之者共ハ不及申、下々奉公人・町人・百姓二至迄、相撲取不申者茂ま
   ねを仕、かふきたる躰を仕候得者、見物人迄も心中も左様成行申候得者、如何ニ而御座候、
   其元より相撲取被指下、此中熊本ニ而最早申事も出来仕候、定而吉左衛門申上候而可有
   御座候、 殿様相撲被成御好候得者、御国中相撲はやり申にて可有御座候、此中も熊本ニ
   而勧進相撲を取申候、其以後勧進相撲、又ハ所々ニ而相撲取申ニ而可有御座候、左様御
   座候得者、又々申事出来可仕と奉存候、 上に御好候得者、下々御しめし方も難被成儀と
   奉存候、相撲はやり申候へハ、他国より相撲取者不及申、若きかふきたる者も見物に集参
   申候物に而御座候、公義より切支丹御改稠敷被仰付候而、御国はし/\迄、他国より往来
   之者二宿をかし申御定法ニ而、此儀ハ他国も御同然ニ而、ケ様之相撲なとに付而入込候者
   ハ、へん/\と逗留仕候、只今之躰に方々より人数入込申候得者、御国のしめし何とも可
   仕様無御座候、其上度々申事なと出来仕候得者、御仕置茂不可然様ニ世上之批判も御座
   候へハ、一大事之儀と、此所重畳気毒千万に奉存候事
                                            (つづく)
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興長諫書への清高院返書

2009-07-04 13:01:38 | 歴史
 永青文庫に「秘書」なる文書が残されている。綱利家督の経緯や、生母・清高院や綱利への諫書が収められているのだが、書き残したのは後の大奉行・堀勝名である。まさに秘事であり、奥深く収められていたものであろう。

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 承應二年佐渡(長岡興長)在府之内、君(綱利)御幼年ニ而、御母清高院様美麗を御好、不時の御遊宴なと日夜御物入多かりけれハ、沢村宇右衛門と会談し、十三ケ条の諫書を調へ、御老女海津(岩間六兵衛室)を以て呈進せしかハ、御返事を下し賜ふ 諫書、仮名書にて事長けれハ略す


 一筆まいらせ候、先々その屋しきニ而、御六殿(綱利)一たん御きけんの事めてたく存
 候、此屋しきにて七之助殿(細川利重)御そく才ニ御座候まゝ、御心やすかるへく候、
 扨ハひとひの書付のおもて、くわしく見申候御事ニ御座候、万 御六殿御ためと御ざ候
 ての、いけんうけ給らぬハいかゝとそんし候て、ばんじかってんいたし申事ニ御座候

 三千石にて、いかやうといたし申へきよし御申給候、おゝかたの事ハ、もと/\の十歩
 一(十分の一)ほとに申つけ候ハんと存候、台所むきも左様にいたし候ハんと申事ニ御
 座候、左様にてハ中々申間敷よし申候而、せうしニそんし候、此上ハせひにおよハぬ事
 にて御入候まゝ、両人の御そうたんなされ給へく候、くわしき事ハかいつ(老女・海津)
 へ申候まゝ、左様に御心得候へく候、御ふたり御としより候て、かやうニいけん御申と、
 そんしうけ給候まゝ、今よりさき/\もあしき事御ざ候ハゝ、御申候て給るへく候、めて
 たくかしく、
  返す/\、くわしき事は、かいつへ申候まゝ、左様に御心得候へく候、かしく、
    五月十七日                   清高院
      長岡さとのかミ殿
      沢むらうへもん殿

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 綱利は寛永20年(1643)のうまれ、慶安3年(1650)七歳で遺領相続をしている。
諫書が上げられたのは承應2年(1653)のことだが、この年十二月六丸は登城して従四位下侍従に叙任、諱の一字を拝領して越中守綱利と名乗った。

 万治三年(1660)、興長は綱利に対して諫書を上げる。綱利の目にあまる「相撲道楽」についてである。次回ご紹介する。
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浅井鼎水と玄祖父

2009-07-04 11:36:47 | 新聞
 今日の熊本日日新聞「言葉のゆりかご」に、浅井鼎水(新九郎)が紹介されている。
元治期当方の玄祖父・上田久兵衛とともに、京都留守居役を勤めている。云わずと知れた浅井長政のご子孫である。副奉行、側用人などを勤めた。記事によると晩年は細川家墓所泰勝寺内に閑居したとされる。「死後も殿様のお側で御霊をお守りしたい」とのことで、程近い細川刑部家の墓所がある慈眼庵に眠っておられる。浅井家のお墓のすぐお隣には、豊前小倉時代の浅井家を経済的援助をされたという牧家の墓所が在る。(浅井家と牧家との関係は、杵築史談会発行の、久米忠臣氏著「生きていた浅井長政・お市の次男-万菊丸」に詳しい)

 原画がどこにあるのか承知していないが、各藩の京都留守居役が酒宴をしている絵が残されている。女中を含め十七人ほどが描かれている。当然浅井新九郎や上田久兵衛などもまじっているのだが、久兵衛は上半身裸の太鼓腹をひろうして一人立ち上がっている。
「肥大なること豚の如し」と言われた久兵衛である。

 2006年03月15日のブログに、次のようなことを書いた。
【上田久兵衛は体躯大なるひとであったらしい。京都留守居役として、幕末の京都を駆け回り、朝幕融和に走り回った。僅か一年数ヶ月のことである。実学党が声を上げた「肥大なること豚の如くして、天地間無用の人物」と。横井小楠は大変口の悪い人であったと言うから、案外出所はその辺りかも知れない。この「天地間無用の人物」と云う言葉は、旗本成島柳北が、幕府の要職から身をひくに当たって、自らをそう称したらしい。東京情報大学助教授、乾照夫氏の「成島柳北と東京珍聞」に詳しい。久兵衛は笑って相手にしなかったというが、出所を承知していたのかもしれない。流行り言葉であったかも知れない。】
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再開

2009-07-03 13:00:12 | 徒然
 4日ほどお休みをいただきました。ドメイン shinshindoh.com の契約更新をおこたったのが原因です。さて手続きに入ろうかと思いましたら、ID、パスワードを完全にわすれてしまいました。最悪の場合ドメイン変更をしようかとまで考えましたが、何とか復帰に漕ぎ着けました。御迷惑をお掛けし申し訳ありませんでした。すべての関係書類をコピーして「重要書類」綴りに納めました。WEBサイトの維持管理はハードの故障等を含め中々大変です。
ブログの発信もゆっくり再開させていただきます。
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