津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

見つからぬ本・・そして雑感

2009-07-15 15:08:19 | 書籍・読書
 「細川」とあれば、とにかくなんでも読もうと心がけているが、稀少本は図書館でも貸し出してくれないから、「日本の古本屋」さんのお世話になって買い込む事に成る。それでも見つからない本が有る。忠興の長女「長」を主人公にした、渋谷美枝子著「細川ガラシャの娘お長」である。但馬文学会が1994年に発行している。数ヶ月追いかけているが、・・・・未だ手に入らない。

 ブログ「細川藩MUDA智蔵」の眠庵さんの読書量は並ではなく大変驚かされる。「このブログの大概」に書いて居られるように、どうもしっくりこない作品が多過ぎる。眠庵さんは「しからば」と自ら筆を取られるが、私には思いもつかぬことである。四年も五年も「細川狂い」をして、かなりの資料を読み込んだから、何か書きたいという思いは大いにあるのだが、まだ調べ事の方が面白い。というよりもまるで才能がない。時折心臓が悲鳴を上げると、私の財産「資料の山が単なる廃棄物」に成るのではとの思いが一瞬脳裏をよぎるが、まあそれでもよいではないかと考えている。

まだ見ぬ本を追いかけて何とか手に入れて、面白くも無ければ噴飯ものだが、それでもよしその作家の力量を確かめて、そんな本は本棚の隅にごみをかぶることになる。

 
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熊本県立美術館では

2009-07-15 10:19:46 | 熊本
 熊本県立美術館の細川コレクション永青文庫展示室では、今日から10月15日まで
「肥後の鳳凰-藩政の改革者・重賢-」展が始まった。

 又「講座 細川コレクション3」も開催される。
       「永青文庫に現存する細川重賢関係資料」
        7月25日(土)本館講堂 【時間】13:30~15:00
              川口恭子氏(熊本大学客員教授)

 そして次回の展示は
        2009年10月9日(金)~12月25日(金)
       「華ひらくルネサンス-芸術の庇護者・斉茲-」


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「阿修羅展」

2009-07-14 23:38:30 | 徒然

NHK-DVD 阿修羅~天平の謎を追う


 「興福寺創建1300年記念 国宝 阿修羅展」が、大宰府の九州国立博物館で7月14日から始まった。(昨日のことだ)是非とも出かけたいと思っているのだが・・・

 所用があって長男の家迄出かける。いろいろ話が済んだ後、「昨日、阿修羅展を見てきた」と豪華な写真集とフィギアを持ち出してきた。電車で一人出かけて展観してきたという。「ほう、そんな趣味があったのか」と感心してしまった。

 すこし眉間に皺を寄せたような阿修羅の表情は、写真集からも素晴らしく伝わってくるが、本物を見た感激は格別のものであろう。「車で出かけるよ」というと「駐車場が狭いから電車が楽だよ」という。手段は考えるとして、夏休みが近いし、さて何時の頃がよいのかと頭を捻っている。

 
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御知行高参百石

2009-07-13 21:54:59 | 歴史
 光尚の側室・清高院の懐妊(綱利)がわかった直後の覚書である。

一、御知行高参百石者 廣橋大納言様御息女
      但四ッ成之御物成ニ而御座候由申渡候間御蔵米二
      而成とも御知行高ニ而成とも可被仰付候
   右之御賄之儀ハ人数有次第可被仰付旨御自身内衆迄之御
   切米之儀者右三百石ニ而相済候事

 その他清高院に仕える、おせん・おたん・おなつ・おせん等の御扶持方
 が定められている。日付けは寛永十九年九月十一日、署名は岩間六兵衛
 他二名で、長岡監物宛になっている

 ちなみに、綱利の誕生は寛永二十年正月八日である。
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田中左兵衛封事 - 5

2009-07-12 19:00:39 | 歴史
    四半切紙
一、当御跡目不立内、諸人色付申ニ付、色々申なため御跡立申後に、御家老衆之心根如何
   と色立申候付、能々合点させ申候へ者、皆々安堵仕相ミ、夫より物静に成申候
一、拓植源右衛門と町人出入之事
一、有吉市郎兵衛御死骸ニ付、下り候時分、道中ニ而之様子悪敷とて沙汰仕、迷惑ニよく
   物語仕、悪敷時分申なため申候事
一、不破十之允と茂見三郎兵衛と公事有之を申なため、無時ニ成候事
一、木戸与五右衛門も無事ニ候事
一、朝山斎養子の事ニ付御暇申上候、差留無事ニ仕候事
一、野田源四郎書物を御目附衆へ上候を、色々異見いたし留、御家老衆へ内証申、籠者ニ
   申付候事
一、丹後殿借金之事ニ付大事ニ成候、其後御家老中と間を能様仕候事
一、老中を(と)長岡勘解由事ニ付、肝煎無事ニ仕候事
一、左京殿両度迄公事有之を、肝煎・老中之間無事に仕候事
一、都甲太兵衛へ使仕、異見いたし無事ニ仕候事
一、志水久馬息九郎・丹羽三郎右衛門公事有之、無事に仕候事
     寛文六年
   右祖父田中左兵衛氏久
   綱利公二十五之御年指上申候、控之本書同姓家ニ在り

                    (了)
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若狭衆

2009-07-12 10:57:37 | 歴史
 先日のブログで幽齋の子・菊童のことを書いた。家記には記されていないが、其の存在が確かなのは、「童子図」に従兄弟である英甫永雄(えいほようゆう)の賛が有った事による。永雄は幽齋の姉・宮川の子、京都建仁寺長老となり、「狂歌の祖」と伝えられている。主家若狭武田家は従兄弟の子、八代元明に至り絶家、旧家臣が永雄の肝煎りにより多く細川家に召し出されている。未だ確定ではないが、私の調べたところによると十三名に達している。特に有力家臣・逸見氏の家臣が多く見られる。これらの人は細川家草創期に活躍、大々名へと上り詰める礎となった。特筆すべきは家老職となった沢村大学吉重であろう。下に特記する。尚、各人の事蹟ニ付いては当サイト内「細川家中の若狭衆」を御覧頂きたい。

若狭武田家初代
  +---信栄
  |                             
  +---信賢-------信広                         豊臣秀吉
  |                                         ∥
  +---国信---+--信親                      龍子(松ノ丸)
           |                            ∥  
           +--元親---元光---+--信豊---義統---元明
                         |
                         +--信実
                         |
                         +--信高
                             ∥----英甫英雄
                         +--宮川
                         |
                         +--幽齋

 ■一宮彦三郎  
 ■逸見次右衛門
 ■入江平内入道真斎
 ■魚住市正昌永

 ■沢村才八吉重・大学  
   桃井の族ニて若州之産也、若年之時逸見駿河守に仕へ候ニ、駿河守病
   死之時継嗣なき由、旗頭丹羽長秀より被申達、断絶ニおよひ候、実ハ源
   太丸とて(才八か絵像の賛ニハ虎清とあり)七歳之男子有しかとも、長秀
   とかくニさゝへて信長ニ不達、才八是を歎き、源太丸をいさなひ安土ニ至、
   直訴両度ニ及けれハ、信長あはれミ給ひ、逸見跡式下し給ハるへき旨成
   しに、不慮ニ弑逆ニ逢たまひ、剰同し比源太丸も早世しける故、無力丹後
   ニ越、八月上旬御鉄炮之者二被召出、はや此度手柄をあらはし、追々武
   功ニよりて天正十八年奥州より御帰陳後知行百石被下、朝鮮御帰朝後百
   石御加増、慶長六年七月千石、同十月弐千石、又寛永九年五百石被下候、
   同十年当御国ニ而被改五千石被下、御城代被仰付候(以下略)

 ■桑原阿波(寺井道雲)
 ■寺井吉右衛門  
 ■中津海三左衛門
 ■久下太郎助
 ■松山平左衛門・元直(平右衛門元真或は元貞とも)
 ■毛利忠三郎(後号又兵衛)
 ■柳田鷺之丞
 ■柳田久四郎
 ■吉山福万(逸見右馬介)

    
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田中左兵衛封事 - 4

2009-07-11 10:42:34 | 歴史
    三半切紙
     可申上ならは、
   長岡與一郎(与兵衛)・米田新一郎(是正)・沢村大学(友雅)・沼田小兵衛(延将)・溝口
   蔵人(政登)、ケ様のものとも一人宛も御加へ被 召連候者、親々兄弟迄も忝可奉存候、
   与兵衛・大学・新十郎・小兵衛ハ証人ニ相詰、江戸之事をも能存候、若キ者共いたつらに
   居申故、皆いさみなく痛ニ成申と見へ申候、蔵人事も神明なる生付ニ候、 真源院様も右
   之内大学をハ御供ニ被 召連候
一、養子之儀、先日御物語被遊候ハ、御代々被 仰付たる御仕置ニて御座候、御尤ニ奉存候、
   其者/\も末々迄之儀を存、忝御奉公を能相勤可申にて可有御座奉存候、左候者、御家
   久敷者共の内ニ大勢子供を持居申者御座候間、次男・末子を夫々の位二より、似合/\
   の者二被 仰付候歟、又ハ御側ニ被 召仕置候衆之内、似合ニ被 仰付候者、新知を被
   下候同前ニ其者も忝可奉存候、又養子之儀望候申上候もの、親類縁者之内を望申上候
   者、けにもと被 思召様なるものも可有御座候、御吟味被成被 仰付様共、多く可有御座
   様ニ奉存候、願儀、他国より呼申養子者、御家新敷成行如何ニ奉存候
一、先度も申上候様、兎角御仕置之大積を被 仰付置、年ニより足不足を被 聞召、御吟味可
   然奉存候、御側御台所向ハ、坂崎清左衛門・大木織部、御代々の様子を存候間、御武具・
   道具之仕次新ニ見合吟味、御入目等沙汰仕候へ、御先代のことくにと両人ニ被 仰付、御
   入目之吟味常々心ニ懸申様ニ被 仰付、可然奉存候、御作事方ハ、御作事奉行ニ大つも
   りにて、何程ときつふを御定仕合候様、又御船手方ハ、御船手のものニ被仰付、是又一年
   ニ何程と大つもりニ而被 仰付、御吟味可然奉存候、兎角根を御極置なき候得者、御物入
   多くついへも御座候と奉存候、品々にて苦ニ持申者無御座候而は、毎も御ひつはぐハ直り
   申間敷様ニ奉存候、御郡方・御所帯方御積・大積の事、御代々の様子を瀬戸武兵衛能存
   候間、一人之苦ニ御持せ可然奉存候、御奉行方はさいかんさへ御座候得者以御威光、誰
   人ニ被仰付候共成可申奉存候、夫々二苦二持申者御座候者、御自分御心安く成行奉存
   候
一、真源院様被 仰付候者、江戸道中御城御侍衆、城内にて不断鉄炮を御打せ、城下之侍共
   の屋敷に而も鉄炮を打申と聞へ、御通被成砌も御聞よく心懸、嗜の様被思召候、大坂・二
   条の御城にても不断稽古被 仰付由被 聞召候、当御城にても、御城内のもの、折々ハ稽
   古も仕、御鉄炮火を通しなと仕候而、能可有御座様 思召候と御意ニ付、其沙汰仕候而、
   今程者御侍とも、屋敷にも九月朔日より正月中迄ハ雁・鴨おとろき申とて打不申、不断御
   侍とも屋敷稽古、又ハ鴈なと打候而先を能定、釣角抔無用と 真源院様被 仰出候き、今
   以右之通被 仰出可然奉存候
一、大筒・石火矢等打申者とも内、渡邊作之允・若松半右衛門・森田弥五右衛門、御重宝成者
   の様奉存候、半右衛門ハ十二流迄究、殊之外巧者ニ而御座候、作之允儀、去年も申上候
   様、うちはり台・金具迄も自分ニ仕候、弥五右衛門儀ハ、米村と申牢人之儀御座候間、私ニ
   能承立候へ、御重宝なるものの様 思召候との 御意御座候得とも、些子細御座候而慥ニ
   御請不申上候、ケ様之者之事ハ御家老衆より被 聞召、可然奉存様申上候き、于沼田小
   兵衛留置申候、勝たる芸重宝ニも成可申奉存候、右之者共、弟子をも大勢仕立候得と被仰
   付候者、何程も大筒・石火矢打出来可申奉存候、牢人者も折々御家を望参候、其内にても
   勝候者御座候ハゝ、被 聞召被届候様有御座度奉存候、右大筒・石火矢打共之儀、私ニ
   吟味仕、心ニ懸可申由御家老衆を以被 仰置候者、可奉得其意候
一、有馬御陣之刻、心繰の者共之内、御吟味之究不申者御座候而、不足にも奉存者、御切米
   取ニ廿七八人も御座候、真源院様被 聞召、私ニ被 仰付、吟味仕候而、あらまし達御耳
   申候処、被 仰出候趣も御座候得とも、私存寄少々申上候へ者尤二思召候、御参勤前御
   事多キ二付、書附共を御側之衆へ渡置候得者、御船中・御道中・江戸御滞留中ニなりとも
   御覧被成、御下りの上にて、位をも御直し、少々立身をも可被 仰付と御意御座候キ、御逝
   去ニ付其儀無御座候、于今埋れ果申候者ともも御座候、御家老衆御当代ニ成、両度右之様
   子を物語仕候、此儀被 聞召上候者、なからへ居申者共又吟味を仕、達 御耳申度奉存候
      一、右書付之外ニ早水忠兵衛事
      一、妙解寺之事
      一、御花畑鬼門之事
      一、仁保太兵衛事

 
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細川菊童

2009-07-10 10:45:28 | 歴史
 宮津市の盛林寺が所蔵する細川幽齋の子とされる、「菊童」の童子図である。
                              (宮津市のサイトから引用)
「絹本著色即安梅心童子像」と銘されたこの童子図は、同サイトの説明文には次のように有る。(抜粋)
 【高麗縁の上畳にやや左を向いて坐す童子像で、頭髪を禿に剃り、赤い羽織を着け、右手に鈴を執り、左手は猫を表した手箱を抑えている。図上に、天正10年(1582)9月21日、英甫永雄の記した長文の賛があり、その識語によると、天正9年12月1日、細川藤孝は男児を得、菊童と名付けたが、翌10年8月21日急逝してしまい、盛林寺の趙室宗栢長老が、即安梅心の法名を授けた。童子の母(藤孝の妻)は子の夭逝を深く悲しみ、生前の姿を描かせ、永雄の賛詞を求めたのである。永雄は、若狭武田氏の一族で、母は細川藤孝の姉宮川であり、像主とは従兄に当たる。】

 天正八年(1580)三月従四位下侍従に叙任さる(藤孝44歳)
         七月信長より丹後国十二万石を与えらる、丹後宮津に居城
 天正十年(1582)明智光秀織田信長を本能寺に弑す
            藤孝この変を聞いて剃髪国を忠興に譲り幽斎玄旨と称す

 私がここで取り上げたのは、家記にその存在が記されていない事に疑問をもったからである。正室麝香の子ではないのではないかとも考えたが、永雄の賛からするとどうもそうでもないらしい。兄弟姉妹全てが麝香の子であると家記は記しているのだが・・・
いつの日かこの童子図を拝見したいと願っている。

    忠興  永禄六年(1563)十一月十三日生
    興元  永禄九年(1566)
    伊也  永禄十一年(1568)
    幸隆  元亀二年(1571)
    加賀   不明
    千    天正七年(1589)
    栗     不明
    菊童  天正九年(1581)十二月一日生
    考之  天正十二年(1584)
    蓮丸  天正十五年(1587) (南禅寺聴松院に童子図がある)
    仁伊   不明
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田中左兵衛封事 - 3

2009-07-10 09:31:08 | 歴史
一、当年御仕置を不被改候者、重而者乍恐難被為成可有御座奉存候、公義よりも、当年者
   御法度書之御触なとも御座候、日やけ旁にて御座候間、能折柄之御仕置時分と奉存候、
   今の分にてハ、末々御勝手も弥つまらせられ、御借銀もまし、御利払も不被成之者、急に
   御用の時、新借御用ニ立申者も御座有間敷候、其時之御難儀、御名も立可申と奉存候、
   一刻も御急御仕置可然奉存候
一、小事をハそれ/\の役人ニ被 仰付、相究り申所を被聞召上、埒を御用不被成候者、大
   そう成所の御仕置者おそなわり可申様奉存候、右ニ書付申候様、少々の事者如何様ニ
   御座候とても不苦、又被成替も安キ御事ニ奉存候、兎角末々迄根強く通り申御仕置、此
   度と奉存候
一、代官ハ一人に可相定事と式目ニ見へ申候と、 真源院様へも 御意被成候、御存命にて
   御下国被成候者、万事御仕置可被改と 思召候様、礼式迄も御内意ニ而御座候、ケ様之
   儀ニ而も御分別被遊、可然奉存候、御国之御仕置、御名代ニ成可申仁躰を御撰、一人に
   御任被 殿様ハ御上聞計被 聞召、御家老中も構不申、談合之儀承計ニ被 仰付、一人
   の筈(ママ)ニ御持せ置被成候者、末々迄しまり能、御手前も被為直、御心も可被安と奉存
   候、他之御国取衆も、大形一人に御極置被成候様承及申候、古事ニ而御座候へとも、頼
   朝公も三老・一別当を定置、別当職万事を勤と哉覧申伝候、是ニ付、存寄之人柄付札之
   事
一、江戸ニ而万事きらに御座候者、従 公儀被 仰出、又ハ今度五歩一なと、御家中も日やけ
   の上に御懸被成候、御ひつはくの御身ニ者相違仕候様、世間の取沙汰も可有御座哉と奉 
   存候、御供衆へも自今已後、少も御借銀被成間敷候間、身持已下方万事左様相心得相
   勤申候様と堅被 仰出、可然と存候、御借銀の事、取次申上者ハ詞を尽し、御外聞も悪敷
   なとゝ、けにも思召候様に申上ニ而可有御座と、御すなをに御慈悲に被成御座候ニ付、被 
   聞召届候得者御心能被 仰付候故、大分借用仕、右ニ書付申如く取込つかひ、後ニハは
   たと手前不罷成候、可 被 召仕様も無御座候へ者、御心安被召仕候者も無御座候成行
   可申奉存候
一、今度従 公義出申御書付を被為請、御家中上下共に、身持・衣類・振舞・作事等之御法度
   書を御家老衆江被 仰付、ケ条之下書を御覧被成、急度被 仰触可然奉存候、歩之衆より
   下ハ、御国ニ而者一切きぬ物を着不仕、布・木綿之間を着仕候様被 仰付可然奉存候、衣
   類・刀・脇差之寸法等迄、前々従公義被 仰出ニ、 御法度書に相違仕候様相見へ申候、
   今程ハ女童迄、衣類其外美々敷諸事きらに御座候、侈りの様奉存候、夫故に御家中衰微
   仕候、左様に御座候得者、後々ハ 殿様御一人之御迷惑ニ極申様ニ奉存候、可被召仕た
   めには、不仕面々の身持の為に計仕候と見へ申候而、不及是非候儀御座候、御供使被
   仰付度毎に、日雇のことくニ召、かし米銀何程不被 仰付候へとも難成と申様見へ申候、
   今程者独旅江仕者、江戸道にても小身者迄駕にのり、歩之衆・御鉄炮・長柄之者も馬に乗
   り、上り下り仕と申候、病人は各別、右 御両代二ハ如此事ハ無御座事ニ御座候、ケ様御
   座候而者、みたりに成事之様に奉存候、御急キ之事か、又ハ夜白御側之御奉公ニ懸り申
   ものハ勿論、各別其外馬に乗り可申儀とハ不奉存候、役懸りの外ハ歩之衆より下、達者ニ
   無御座者抱替候得と可被仰付候、皆々達者を仕ニ而可有御座奉存候、あるき申者故歩行
   と申計ニ御座候
一、御所務方専一ニ奉存候、春あらおこしより、根付取上ヶ迄ニ念を入候得と、被 仰付様も可
   有御座哉、常々百姓之身持之事を仕候様、被 仰付可然奉存候、 御代ニ成、 御免相も
   次第ニ下り申候と相見へ申候、納所の時分計、せたけ取立申を入申候者、作も能く出来、
   百姓も強く、御免も上り可申候、右は百姓迄振替り、おこり申様見へ申候、土民者度々の
   おしへにて少者心得も直り、人に似可申奉存候、是又第一の御仕置と奉存候、御仕置之
   根元を御改専一ニ奉存候
一、江戸御供衆召連れ申下々、切米之高を御定させ、御触可然奉存候、御先代にも、此御触
   被 仰出たる事も御座候、左候而、御供衆召連申候人数、三千石取ハ今迄之弐千石取程
   ニ、弐千石取ハ千五百石程ニ、其下ハ夫々ニ右之様子を請減し召連候得と、員数を御定御
   書付させ、御触可然奉存候、是又 御先代ニ御自分・御家中共に、手詰り之時分ケ様被 
   仰付たる事とも御座候
一、申上候儀憚り千万ニ御座候得とも、賞罰之御吟味つよく御座有間布(敷)と奉存候、就中罰
   之方穿鑿なしに、片口ニ被 聞召上迄にて被 仰付候得者、御後悔も可有御座候、幾重に
   も御穿鑿をとけられ候者、其ものあやまり被 仰付、脇のしまりにも御仕置被成申様ニ奉存
   候、左様ニ御座候者、うつたへ申者も正路に御耳ニ立て可申様奉存候
     右之趣、乍恐御心得にも成申儀も可有御座哉と奉存寄所を不顧、愚案差上申候


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田中左兵衛封事 - 2

2009-07-09 12:54:52 | 歴史
    二半切紙
     申上候覚
一、妙解院様(忠利)・ 真源院様(光尚)之御仕置きを被為請、御仕置之記録を御極置可
   被成哉の事
一、万事至テ其年てハ、御仕置ハ不被為成物之様奉存候、今迄ハ御行当り、当分/\の
   御談合と計に相見へ申候、三年・五年も先々の儀を御考、只今よりの御仕置被遊候事、
   御本意たるへきの様に奉存候
一、御公儀向、御国・御家中の御仕置さへ慥に御座候得者、其外の儀ハ、少々の事如何
   様ニ御座候而も、不苦候様奉存候、右之趣も御家老中へ被 仰付、被成御吟味上にて、
   御究置然奉存候、御若年とハ乍申、御当代も早十五年二成申候、其儘にて能通り申候
   へハ、申分無御座候得共、今の分にてハ末如何に奉存候間、急度御取置被遊御改可
   然被存候
一、只今何様御仕置被仰付候者、御ひつはく(逼迫)も直り、末々迄御心安く可為御座哉、
   今迄の様に有之候得者、御手前も不被為成、自然の時も、公義への御奉公不被任御
   心様成行可申と、御迷惑に思召、後々迄御仕置被成可然と存寄申通りを、銘々より一
   ッを調、一人宛五三日之内ニ御前ニ持参仕、懸御目候得と、御家老中・御奉行共へ御
   内意にて被 仰付、銘々の存分も御直に被聞召、覚書を御取集、御心静に被成御覧、
   御仕置可然奉存候、惣而面を揃、御前に罷出候而申上候ハ、脇々見合申候、右之者
   共、其外にも人柄も御撰被成可被 仰付候哉、一ケ条にても、けにもと被思召上候事も
   御座候ハ、御取被成、御加御仕置に可然奉存候、太さう成儀ニ御座候、組立てより御
   一人にて御究被成候而者、はかもまいり申間敷様奉存候、其上 御気力もへらせられ
   候而者、一大事の御事と奉存候、兎角 御養生の儀第一ニ奉存候
一、右両御代之御仕置を具に被聞召上候事、肝要に奉存候、假不可然事も御座候と、被
   聞召上候事御座候者、何とそ道理の詰り申たるわけも可有御座哉と思召、返々被為
   入御念、御吟味被遊候者、其埒も知れ、扨わと被思召事も可有御座哉と奉存候、兎角
   御両代之御仕置を御手本に被成候事、御本意之様奉存候、 真源院様(光尚)御代に
   も、 妙解院様(忠利)様之御様躰ニ少々被為替たる様成事も御座候得共、後々ニハ
   直り申たる事も御座候と奉存候、差当り可申上ならば、江戸エの御供衆抔も初ハ多御
   座候へとも、夫にてハ末通り不申二付、御へし被成候、きら(綺羅)を御好候被為止候、
   きらを好候ハ、五万石・拾万石之御身躰之御衆二ハ似合申様奉存候、御国取の御心
   持ハ各別に可有御座事之様奉存候、御供衆へ御借米銀もへり申候、惣而御借物ハ其
   身/\の上に応し、余人も存ル程之子細有之ものか、又ハ知行・切米にても返上仕事
   成安きものか、能御吟味被 仰付、其上ニ而少宛ハ御借被成たる事にて御座候、妙解
   寺御建立被成る候さへも御孝行と偏ニ思召、又ハ様々に尤と被 思召様申上候もの御
   座候て、大分の御物入被為御意出来申、御法事等美々敷被遊候事さへも、御後悔御
   座候様被為持、御手前もつよく御座候而、上様への御奉公を自然之時も能御勤候そ、
   御先祖様への御孝行にて御座候ニ、いわれさる御物入と、ケ様の事さへ御ついへの様
   思召と御内意をも承置申候、此外何程も御後悔御座候
一、御家中江戸御供衆へ御借物多く被成御借候程、御家中つふれ申儀ニ御座候、其子細
   者、御知行・切米の外に先借仕候事候へ者、誰々も悦すき好み申事御座候、後ハ捨り
   申か、又ハ御知行をさし上、引込罷居申事眼前ニ御座候、かり銀米御座候へハ、何と
   仕候而もむさと仕り申と相見へ申候、ケ様に御座候而者、後々可被召上者御座有間敷
   と奉存候、又常々身持を能仕、御奉公を闕し不申、身躰相応の勤を仕候者者、能奉公
   人の様に奉存候、ケ様之者をハ 聞召上、御詞にて成共御感被成候者、脇之しまりに
   も成可申歟と奉存候、左様に無御座候得者、身を詰、万嗜御奉公心懸申甲斐も無御座、
   述懐ニ可奉存候、ケ様の事にて、御家中風俗も直り可申様奉存候
  
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閑話休題「堀江勘兵衛」

2009-07-09 09:15:36 | 歴史
 寛文元年四月廿八日、綱利は初めて御国入りする。
そのさいの御規式を取り仕切ったのが堀江勘兵衛だが、あまりにも華美にすぎる事に批判が出た。勘兵衛はこの一事でお叱りを受けている。彼の事績を見ると以下のように有るが、同年八月(十二日、二十四日と食い違いが有るが・・)には知行を召し上げられている事が判る。原因が何であるか定かではないが、御規式も原因の一つであろう。
松井興長を頂点とする国許では、「行い宜しからざる藩主(生母・清高院も)」への反発もあったのだろうが、割をくった勘兵衛である。

 堀江勘兵衛  御小姓組衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
           御側組外衆 四百石 (真源院様御代御侍名附)
           四百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
     「嶋原一揆の時の現地奉行」
           壱千石 寛文元年閏八月十二日知行被召上候
                    四十人扶持被下置・病死

 東大史料編纂所「大日本近世史料・細川家史料 人名索引」には次のようにある。
         忠利に召出さる。知行二百石。寛永十二年奉行。十五年二百石加増。
         のち加増を重ね都合千石。明暦二年頃奉行辞任。
         寛文元年閏八月廿四日知行召上げ。 【出典】 熊本県史

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田中左兵衛封事 - 1

2009-07-08 19:30:07 | 歴史
  この封事の最後に「寛文六年、右祖父田中左兵衛氏久 綱利公二十五之御年指上申候、控之本書同姓家ニ在り」と書かれてあり、田中忠助氏邑の写本である事がわかる。

  田中左兵衛氏久は、初代・兵庫助氏次の子、氏次の兄は従五位下筑後守田中吉政、豊臣秀吉に仕え筑後32万石を領す。
 左兵衛氏久:元和七年中小姓、光尚付、寛永八年新知百五十石、島原陣後加増五百石・
         小姓頭、正保元年加増千石・都合二千石、肥後藩初の城代職、後加増二千
         石・都合四千五百石、延宝四年致仕、剃髪後宗伯

    大変長文であるため、五回ほどに分けてご紹介する。こちらも大変辛らつである。

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             「諫言之覚 田中左兵衛氏久封事 完」

                        謹言上

   此間貞観政要を読申候間、存寄申儀はゝかりお不顧申上候、唐太宗ハさしもの賢王
   ニ而御座候、常に御身のあやまりを聞度思召、諫の官をたて、朝夕諫を御聞被成候、
   それより日々に悪去、善進み、御過ち薄く罷成候、扨又国家をほろほせる君は、諫を
   きらい、我智恵を飾り、驕を窮め、偽り多きに依て、国おも家をも共に亡し申事、書毎
   に記し申候、此事お見候而、此書お御聞被成候時、御心のかゝみに被成、よしあしお
   御引合、御心にしめ、御師とも罷成候様にと奉存、仏神に掛奉り、心の誠を顕し申上
   候、おろか成を御捨て被成、聞召上られ候者可奉忝存候
一、今の人に賢臣を御選み被成候而、其人柄なく候へハ、大方の人の中にいやしからぬ
   者を被 仰付、御諫の役を請取、御身の御あやまり、又ハ難申上事をもつゝます申上
   候へと被 仰付、大方ハ見付ならすにて御座候、賢王・賢主も賎敷者の諌お聞召ため
   しも御座候へ者、いかなる上もにも、我あやまりを聞すして、知るためしハ稀に御座候、
   玉の光もみかゝれは不出候
一、聖人の言葉お聞被成候而も、御咄・御利口の種と迄被 思召候へ者、御心の磨にハ
   不成候、却而智恵を飾もといに罷成候、人の宝も秘蔵なる物ほと深くかくし、朝夕人に
   ふける物にて無御座候、人の言葉も智恵も外へ飾り出し候へハ、内ハ浅く顕れ申候、
   古人水に譬へ申候、水浅けれはつまたて渡り、深けれは人かおそれ申候、言葉も智
   恵も外の飾りと不成様にと諌む事、専用に人の慎所と可被 思召候事
一、大人たる人の 御目の前にハ、ついしょう・へつらい度、次にハそしり懸る者多きと被 
   思召候事、専用に奉存候、智恵をかさり被成、我のみよきと思召ハ、ついしょうを御好
   被成候、左候へ者、正直の者日々に退き口をとち申候、いつはりを退け、正直を御貴
   ひ被成候事、風俗の正敷被成候本にて御座候
一、大人は、おこりを御戒被成候を第一にて候、雨ふれともかいをはらすと申事、おろかな
   る様に聞へ候得とも、万事ニ渡る言葉と奉存候、下の困窮を口には御憐候へとも、御
   身にハ栄耀を御尽し被成候事、御心に誠なき故に御言葉と御行ひ相違仕候
一、大人の御道具に御者数寄好まさる事と奉存候、侈りの第一是より始り申候、大人の
   御物数寄は、よき人を御撰ミ、武道・文道よき道御聞被成候事、第一之物数寄と奉存
   候、不入物数寄ハついえと申侈と申、専ら戒むる事と古人申置候、太閤の御時大名
   衆御宝くらべの時、家康様被仰候ハ、誰々と申物を持候と被仰候、此事謹言と奉存候、
   昔東山殿(足利義政)いはれぬ御物数寄にて、今迄も東山御物とて、土民・商人も取
   伝持廻り候ハ、東山殿御恥を末代迄も残したる物と被存候、御道具の御物すきほと、
   公方の御勤被成、其家も長久に候半ものを、御家亡ひ御物とも散失せ、賎敷者まても
   てあそひ被成申候、御恥辱と被存候
一、大人ハ常に安楽にまし/\て、下の苦を御存なき故、御政ハ候得共、下の者に不通
   候、常々賎敷道ども聞召事専要に被存候、草履取者の寒き事も御存知被成可然奉存
   候
一、大人ハ、万事御心にあわぬ事を御堪忍つよく無御座候得共、万人の父母とハ不申候、
   物毎我儘に候まて思召候へ者、万人のあたにて御座候、一人の御心を御楽み可被成
   とて、万人を安楽にてにと思召候得者、一人の御安楽も、長久に、たとひ下を御くるし
   め候とても苦とも不存、誠より出申憐ハ金銀にも勝れ、金銀知行を被下候而も御心に
   不仁に思し召し、下の根深く面にはしたかへとも、心にハ不義を存候、下の義と不義ハ
   上の仁不仁にあり
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麻地酒

2009-07-08 13:28:19 | 徒然
 酒徒善人に愛された、雑誌「酒」の編集長であった故・佐々木久子さんのエッセイに、「酒茶問答」という本にある一文を紹介したものがある。昔の人は何かに事づけしてお酒飲もうと考えた。お正月のお屠蘇から始まり、如月の治聾酒、弥生の桃の酒、卯月のいり酒、皐月の菖蒲酒、水無月の麻地酒、葉月の月見酒、長月の菊の酒、十月の蛭子講の酒といったものだ。

 佐々木さんは「水無月の麻地酒」(肥後産の銘酒)と紹介されているが、どうやらこれは間違いのようだ。敬愛する佐々木さんの揚げ足をとるようで心苦しいが・・・

「麻地酒」とは豊後日出藩で作られたものらしい。
「お寺の小坊主が甘酒を盗み飲みして、残りを麻畑に埋めておいたら時を経て素晴らしい味のお酒に替わっていた」故に麻地酒と名付けられたという民話風の話がある。
              http://tenjin.coara.or.jp/~primrose/mati3.html

大分県酒造組合のHPを見ると次のように紹介されている。
麻地酒は、蒸し米、米麹、水を仕込み、密封して土の中に埋め、翌年の土用頃まで熟成させてつくる甘美な濁り酒。「甫庵太閤記(ふあんたいこうき)」、「御伽草子(おとぎぞうし)」にもその名が見えます。土の中に埋め、草茅などで覆うので「土かぶり」とも呼ばれていたようです。日出藩は暘谷城(ようこくじょう)の二の丸に麻地酒をつくって貯蔵し、幕府への献上品としていました。

熊本では銘酒「美少年」が不祥事を起こして会社更生法の申請をし、新たな経営陣が入り再建に向った。がんばれ新生美少年・・・
      
 
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諫書とか封事とか

2009-07-08 10:51:01 | 歴史
 綱利と生母・清高院に対する、筆頭家老・長岡佐渡守(松井興長)の諫言の書をご紹介してきた。これはかなり痛烈なものであり、読んだお二方はさぞかし頭に血が上られたことであろう。綱利に対しては別途、田中左兵衛の諫言の書(諫言之覚 田中左兵衛氏久封事・・寛文六年)がある。熊本県立図書館の「上妻文庫」に所収されている。これも又ご紹介したいと思っている。

 諫言とか封事とかいわれる上書は、この他にも結構ある。
一番有名なのは、宗孝時代の「吉村文右衛門上書」であろう。これを引用して歴史家(又はそれらしい人)は、悪政だったと攻め立てる。財政は破綻し、天災による大飢饉に見舞われた時代であるから、宗孝が攻められるのは少し可愛そうな気もする。
そして重賢が登場し、大奉行・堀平太左衛門勝名により「宝暦の改革」が断行される事に成る。そんな中でも封事は上がる。益田弥一右衛門による「言上書」である。これは堀勝名の治政に対するものだが、重賢は勝名にこれを渡し見解を正している。堀勝名の反論の書「申開書」が現存する。弥一右衛門はこれをもって引き下がった。
同時代、弓削清左衛門のたわいも無い言上書もあるが、一族が清左衛門を隠居せしめるというおまけがついた。
文化九年齊樹の初入国に際し、中山市之進が「封事」を上げている。

 これらに目を通すと、松井興長の「諫言」がまったく異質のものである事が判る。
遠く「御国」から離れた江戸の地で、自由奔放に振舞い育っていく藩主に対する、決死の思いが胸に迫る。
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松井興長・諫言 2

2009-07-07 11:18:00 | 歴史
 君綱利公、初ハ文武の御心かけ浅からす、北条安房守弟福嶋傳兵衛といふ侍を師とし、軍法を伝へ、甲冑利用、川越の兵員なと自ら試給ひ、第一政正しく、御家中も大いに悦ひけるか、御寵愛の御小姓両人出来て、是よりいつしか花美を好ませられ、御遊興ニふけり給ひ、御仕置もゆるみけるとかや、佐渡興長また江戸ニまかりて、十三ケ条之書付を指出しける、其文ニ曰

一、御当家者、 幽齋様・ 三齋様・ 忠利様、所々ニテ御戦功第一、武道専に御心懸被遊候
   故、近代まで御家風相残、諸士武芸心懸候処、当 御代にいたり、武芸を遊興に日を送候、 
   殿様武芸を御嫌被成、御遊興御好被遊候故、上之風俗に習ひ、以之外悪敷相残候事
一、昼夜之御酒宴、御近習もつかれ、御養生ニ不可然候事
一、御代々忠勤之者共被捨置、当時出頭之者・御小姓共迄過分之御知行被下、不可然候事
一、忠勤を励候而も御加増不被解候故、御代々之侍不快ニ存候事
一、近年出頭御用人申候儀、御承引被成候故、彼両人中悪敷者ハ讒言仕、念比(懇)成者不
   奉公仕候而茂、能様ニ取成申上候事
一、今度御参府之節、御側廻之美麗、殊ニ御小姓道中華美、御代々無御座候儀不宜奉存候
   事
一、近年之御物入、御代々無御座候故、御勝手向及困窮候事
一、御遊興被長候故、 公儀之御務、疎略ニ罷成候儀不可然候事
一、御代茂格式相極候而、古例之通相計候処、近年者先例被差置、種々新法被仰出不可然
   候事
一、御奥之女中、御寵愛に任せ、我儘に申候、不可然候事
一、公事訴訟之儀、出頭御用人江音物附届、能仕候得者、非を理に成候様、諸人申候事
一、加様之品々、公義へ相知候ハゝ、御領国危く奉存候事

 右之条々、御承引無御座候ハゝ、八代之城地并私知行差上、永之御暇拝領可仕候、
                                         恐惶謹言
       月  日                     長岡佐渡

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この文章は、先にも記したように後に宝暦の改革を実行した大奉行・堀勝名が「秘書」として書き記し、残したものである。年代の特定が出来ないが、綱利十六・七歳のころのものと思われる。彼の生活ぶりが良くわかるし、興長の主家の存亡を愁いた決死の諫言であることが理解できる。綱利の初入国を待つて、興長はなくなる。・・嗚呼・・
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