津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ヤフーオークション あと五日

2011-11-14 18:59:23 | オークション

    ★いい楽★細川綱利「さびしさは」古筆 江戸前~中期  上は綱利公、下は弟の利重公のもののようです。

★いい楽★細川利重「水の面に」古筆 江戸前期_画像1

   


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細川→長岡→羽柴→細川

2011-11-13 16:21:49 | 歴史

幽齋と忠興が細川姓から長岡姓としたのは、元亀四年信長に桂川以西の地を与えられてからである。
足利将軍家から離れ信長に追従していくことになる。

               今度彼対信長彼抽忠節誠以神妙之至ニ候
               仍而城州之内限桂川西地之事一職申談候
               全領地不可有相違之状如件

                   元亀四
                      七月十日        信長朱印
                         細川兵部大輔殿

 この桂川を限りとする西の地を領地としたときに、この地が旧都にて城州の名所歌枕の地である所から、御称号を長岡と改められた。 

【長岡の都は桓武天皇延暦三年に奈良の京を移され十三年に及ひて今の平安京に遷都あり、此所樫木原の南より山崎の北迄南北長き岡山なれは長岡と号るもの歟、捴名を西の岡と云て東之方桂川を限り西は丹波の山に至、南は山崎、北は嵯峨を境とする由、城地は青竜寺村・神足村ハ勿論上野村迄も御郭内にて有之たるとなり】 綿考輯録・藤孝編p72~

しかしながら信長亡き後天正13年(1585年)、忠興は従四位下・侍従に叙任すると共に、秀吉から羽柴姓を与えられた。

そして秀吉没後は長岡姓としたが、大阪夏の陣後元和元年(1615)に至り十二月廿四日家康の命に依り細川姓に服している。
慶長6年(1601)には三家老をはじめ沼田氏、飯川氏に長岡姓を与えているが、忠興本人は未だ細川姓には服していないことになる。

一方忠利は慶長5年(1600年)これも家康の命で、長岡姓を細川に服姓して内記と名乗っている。

 

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遺憾

2011-11-13 14:46:19 | 徒然

ウイキペディアの「細川氏」を眺めていたら、誰が書かれたのか系図が明らかにおかしい。

   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F

宗家と宇土細川家がごっちゃまぜになっている。訂正を試みようと思っているのだが何せ系図の修正は難儀である。
どうしようかしらと頭が痛い・・・・

又、忠興公についても肥後国熊本藩初代藩主とあるなど、遺憾/\ (初代藩主は忠利公ですぞ・・・)
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88

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ご紹介・・「信長の危機を支えた城--宇佐山城」

2011-11-13 09:25:07 | オークション

    http://www.jiji.com/jc/v4?id=usayama010001

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ぬっかですね~

2011-11-12 19:45:51 | 熊本

                                       
熊本弁シリーズです。最近毎日のように聞かれる言葉ですが・・・
ヒント・・・「今日も私は半袖で過ごしています」

そう・・「温かいですね」が正解です。熊本弁は古語が随分残されていることを以前にも書きましたが、古語辞典をひも解くと

     ぬくと・い「温とい」 (形口)(近世後)  温かい。    とある。

「ぬくとい」の「と」がいつの間にか抜け落ちて「ぬくい」と変化したのでしょう。それが熊本の田舎ではさらに変化して「ぬっか」となります。
「ぬっか」とは熊本独特の言い様で、暑い(熱い)をあつかとか、寒いをさむかとか言うのと同様のものです。

まあ、ああたは半袖な、元気んよかな~。毎日ぬっかもんな・・・・十一月てな思われんもんな。

田舎に行くとこんな会話が聞かれますが・・・お判りになられますか?

 (まあ、貴方は半袖ですか、元気が良いですね。毎日暖かですものね・・・・十一月とは思われませんものね)

この温かさはいつまで続くのでしょうか???    こんぬくさはいつまじ続くとだろか

 

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厄介なこと

2011-11-12 14:13:23 | 歴史

 またまた黒田蔵人のことである。福嶋正則の家臣であったが福嶋家没落後、筑前黒田家と細川家で争うようにして蔵人の召出に奔走した。将軍家にも覚え目出度い蔵人召出の経緯については次のようにある。

大日本近世史料・細川家史料(1710)より

尚々、餘仁して申事ニて無之候間、其方直二可被申候、以上
  追而申候
一、大前黒田筑州(長政)ニ居申候小性、福島太夫(正則)殿高麗ニ而もらハれ候て、其後太夫殿
  つかひたてられ、此中共 上様(徳川秀忠)も御存知被成候黒田蔵人と申者之事ニ而候、今度
  廣嶋へ御人數不下以前、黒筑より舟を遣、太夫殿之儀 御前相果候、然間、妻子をハ先筑前へ
  越候へ、前より存知之者候間、如何様ニも身上可被爲馳走之由被申越候處ニ、蔵人返事ニ、か
  様之砌寄思召忝存候、然共、左衛門太夫一著見届不申以前は、妻子なと何方へも遣申事不之由
  返事申候つる事、
一、其後一著候て、おとな分之者大坂へ上候所、又黒筑より使を被遣候て、米なと兵粮ニ仕候と申、
  被爲音信之由候、それをハ度々之御懇忝と申候て、請取候事、
一、其後太夫殿之高知行も取候者共、それ/\へ有付候、先度其方より被申越候ハ、 上様御諚ニ
  て、方々へ被分遣之由候つる、左様ニてハ無之、縁引/\ニ方々へ有付申候を、其主/\より
  上様江被申上由候事、
一、此黒田蔵人も、今度も 上様立 御耳候書付之者共之うち候へハ、われ/\所へ前かとよりせ
  かれを出置、其上宇佐之大宮司ニて候故、われ/\所へ出度との望ニて、何方ともなく西國へ
  罷下之由、竹中采女(重義)所迄ハ申たる由候、右之分ニて候故、われ/\所へ下候、此之者
  之儀、用ニも立候者を前より知り候、其上宇佐之者を筑州なとへ遣候へハ如何と存ニ付、高知
  行之者ニ候ても、先可召出と申候て、國■しまて呼寄置候事、
一、福左太之者、加藤肥後(忠廣)を初メ方々ニ抱置候間、此儀大炊殿(土井利勝)迄申ニ不及候
  へハ、第一ニ宇佐之者候、其上用ニも立候者ニ付、黒筑事之外之おしかりニて、此中も人を付
  置、懇之躰候を、われ/\所へ出候■か様ニ仕内ニ、竹中采女を以本上州(本多正純)なとへ
  被申、此者を抱申候由被申上候■、定而抱候へと可被 仰出候、其内ニ■や我々所へ有付候■、
  御諚之由申遣候へハ、それを不致承引、越中所へ罷出候と被申上候■、御諚をそむき候と 思
  召候てハ如何候間、大炊殿まて此段々前かと可被申事、
一、可被申專之所ハ、黒筑前かとよりほしかりニて候へとも、蔵人兄蜂屋隠岐と申者、黒筑所を走
  候て太夫殿へ參、此中居候、其者を捨て黒筑へ參候こと第一ニ不成、第二ニ■當國之者候、第
  三ニ■われ/\所へせかれ一人前かとより越置候ニ付、我等所へ出候、其上黒筑へ高知行ニて
  ハいやと被申候故、彌われ/\所へ出候條、得其意、大炊殿へ内々語候て可被置候、恐々謹言

   (元和五年)十月十五日                  越(ローマ字青印)
            内 記 殿
                進之候

 

 さてこの黒田蔵人は時枝平太夫の男であるとされてきた。
処が奥方の父である加藤重徳(黒田如水の恩人)家の系図には、次のようにある。

 (加藤重徳)女子 黒田蔵人室
     母伊丹氏 蔵人者豊前宇佐城主宮成吉右衛門子也初曰安大夫仕 孝高公武功賜黒田氏後福嶋正則請
     長政公而為臣福嶋氏亡而仕細川氏其子早死於是嗣絶云

 真実やいかに・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

11/13追記:ぴえーる様からコメントをいただいた。いつもながらのご教示に感謝申上げる。

宮成公建-公里=公基-黒田蔵人
宮成公建-隆令-公基

宮成公基=宮成吉右衛門です。
吉右衛門は、時枝家を継いだ宮成隆令(時枝備後)の二男です。
「宮成家譜」には公基の幼名長松丸、通称右衛門督、黒田長政に仕えて黒田吉右衛門政本と称したことしか書かれておらず、宮成吉右衛門=時枝平太夫なのか確認できません。
東大史料編纂所に時枝家の家譜があるようですが、残念ながらネットでは見れず。

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日本人として知っておきたい近代史(明治篇)

2011-11-12 08:46:20 | 書籍・読書
   日本人として知っておきたい近代史(明治篇) (PHP新書)

                PHP研究所

                 明治もちょっと覗いてみるかという意味で・・・

 

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インフォームドコンセント

2011-11-11 14:56:04 | 徒然

 長男が「十字靭帯断裂」とやらで手術を受けた。玄関で靴を脱ぐ際足をひねったというのだが、お粗末な話ではある。
手術の二日前、インフォームドコンセントとやらで身内が共に説明を受けなければならなくなった。私にお鉢が廻ってきて同席することとなった。40代だろうか中々達者なDRの説明で患者共々納得、本当は靭帯が取り付いている骨が剥離骨折したのが原因らしい。出血による腫れや痛みがひどいらしい。手術は二時間ほど膝の裏側を開いて、剥離した骨をスクリュウでとめるだけのこと、術後はいささか不自由もあるが痛みも止まり二ヶ月ほどのリハビリを経れば一件落着といったところだ。

 私もここ数日、昨年の夏(だと思うが)に痛めた左ひざが痛くて参っている。当時ころんでしたたか膝を打ってのことだったが、どうも靭帯を痛めたものだろうと思い至った。先のインフォームドコンセントの説明の中でのいくつかの症状がまさにぴったりなのである。
スポーツマンにはよくあることらしいが、私は医者にかかることもしていないから症状が固定してしまっている。後の祭りなのだが、又このように痛みが出てくるとちゃんと治療をしておけばよかったのにと後悔しきりである。

 いろいろと「後の祭り」の多いこと・・・・

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丸に一引両紋

2011-11-10 20:19:27 | 歴史

細川家の家紋として武鑑に「丸に一引両紋」が掲載されている旨のご連絡を、盛岡在住のH様からいただいていた。
このたび、武鑑などの写しをお送りいただき、また細川侯の下国道中絵図にその家紋が描かれていることのご指摘を受けた。

今般それらの資料をお送りいただいた折の氏のメールをご紹介する。

【私は盛岡市在住でして南部氏の城下町に住んでいる縁もあり、南部向鶴紋の意匠に疑問を持ったことが一連の関心の始まりでした。南部向鶴紋にも鉄板の定説があり、私は極めて格好よく言えばそれに異を唱える立場です。学術的に立証するに足る資料があるわけでもなく意匠の変動は要するに大名家個人の胸先三寸好き嫌いによるものと考えれば他人がどうこう言う筋合いでは無いのですが、身分社会の江戸時代において使い分けがあったことは確かであり、当時は当たり前であったはずのそれらが今日に記録として残る性質のものではなかったという事なのでしょう。例えば伊達家の竹雀紋は藩政初期から経年的に改変が繰り返され幕末期に一定の完成形に至ったものが戦国時代から存在するかの様に認識されています。意外な程関心が低く研究蓄積が偏った分野らしく先達の業績へタダ乗りさせて頂くにしても今一歩の用心が必要です。江戸時代においても厳密に目くじらを立てて意匠管理されていたわけでは無いでしょうし、そこは嫡庶の遠慮に拠る自制の結果であったかも知れませんし、工業技術が手工業で担われていた時代ですから単一の意匠を染め抜くにも厳密な意味での同じものは二度と再現できなかったでしょう。しかしながらやはり法則性は存在するのであり、家系の誇りと由緒、家中の序列を示すものとしてこれ以上に象徴的なものはないのではないでしょうか。それが不文律(禁制の記録等が残っているものもあるようですが)の中で体系化されていた(かもしれない)武家社会の有り様も含めまして。南部家の絵画的な鶴の意匠は差異に拘ると泥沼にはまります。細川家の幾何学的な意匠の家紋は比較的立証が簡単そうに見えるのですが中々どうしてこれがまた・・・。

 




   大分市鶴崎にある剣八幡にある絵図の中に、細川家の家紋の一つと思える「丸に一引両紋」が見える。
又、武鑑に於いても同様の紋が掲載されている。




   この武鑑は綱利代のものであるから、時代は結構古い。利重が兄綱利知行から35,000石を内分されたのは寛文六年七月廿一日だとされている。綿考輯録は光尚公までの事跡が書かれているが、家紋についてこのことは書かれていない。全く推測の域を出ないが、この丸に一つ引両紋は綱利の代からではなかろうか。

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市内の紅葉はまだまだです・・・

2011-11-09 14:47:33 | 熊本

 サーフィンしていたら阿蘇根子岳のフォトブログに遭遇、根子岳の素晴らしい紅葉が紹介されていた。
 
              http://blog.goo.ne.jp/a_tazunoki?from=ch


熊本市内は暖かさのせいで、街路樹もようやく色づき始めたものがあるかと思うと、青々とした木々もあり千差万別の有様である。
今日も半袖で過ごしているが、なんだか異常に思える。夕方から雨の予報が出ているらしいが、これで少しは気温が下がるのだろうか。

                      鶺鴒の尾のいそがしき今朝の冬

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冬来たれども・・半袖

2011-11-08 14:51:41 | 徒然

 今日は立冬・・・「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」といいますが、まったくその気配はありません。
温かくて朝から半袖で過ごしていますが、寒がりの私(1月生まれ)としては大いに助かります。
ちょっと車で外出しましたが、クーラーを入れるほどでした。

それでもいよいよ冬だ~と、歳時記を取り出し「冬」の項に目を通し始めました。
しかし、あまり温かすぎると季節感もなく、一句ご披露したいと思いましたが、浮かぶものも浮かびませんね。

 

 

 

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坂の町・江戸東京を歩く

2011-11-08 08:51:22 | 書籍・読書
      坂の町・江戸東京を歩く (PHP新書)
            大石学
          PHP研究所


                「ブラタモリ」が大好物な私としては・・・・・・・

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封建制の文明史観

2011-11-07 11:32:22 | 書籍・読書
        封建制の文明史観 (PHP新書)
             今谷 明
            PHP研究所

                       これは読んでいませんでしたから・・・ 処が在庫切れ、日本の古本屋さんでもアウトでした。
                       残念

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○×・? 大日本近世史料・細川家史料の人名索引

2011-11-07 09:54:06 | 徒然

 かって「大日本近世史料・細川家史料 人名索引」をつくって、当サイトにUPしていたのだが、東大史料編纂所のご指摘を受けてUPを取止めている。二巻毎位に人名索引が掲載されていたが、既刊22冊を通じての人名索引があれば便利だろうと思い掲載ページが判るように作ってみたのだが、やはり著作権など小難しいものに抵触するのだろう。
数ヶ月掛けて作ったものだから、このまま眠らせるのもったいないし、何とかならないかと思い巡らしている。

 実は綿考輯録の人名索引を作ろうかと考えたことも有ったのだが、これは既刊全部を読み込まなければならないから、ちょっとやそっとでは出来そうに無い。(いつかチャレンジしてみたい)

 一般の方はご存じないと思うが、「熊本藩侍帳・人名索引」「熊本藩役職員一覧・人名索引」が、畏友寺井正文氏の手に依り作られている。
わたしにとっては大変便利な貴重本となっている。

 最近いろんな方からの問い合わせに対して、おぼろげな記憶はあるが何に記録されていたのか、出典は何処であったのかを思い出せず苦労している。細川家家臣については、侍帳に関係する事柄は全て書き込むようにしているのだが、その他の人々はどうしてももれてしまう。
細川家とどういう係り方があったかを知る上では、「細川家史料」の人名索引は避けて通れない。
ご指摘を受けたときのメールをよく精査検討して、今一度東大史料編纂所にクリアするためにはどうすれば良いのかを当ってみようかと思ったりしている。

 兎にも角にも、より便利になることは大変結構なことではないかと思っているのだが・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追伸:「たまきな出版会」では肥後藩国事史料の人名索引をUPされていたが、何故か今は閉鎖されている。何故なのか判らないで居る。
             http://www.tamakina.ne.jp/

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昨今

2011-11-06 08:50:05 | 徒然

 晩秋のこの時期、熊本は随分暖かい毎日が続いています。少し天気はぐずつき気味ですが、半袖で過ごしています。
郊外へ出ると柿がたわわに実っており、稲刈りも終わった田んぼが広がっています。
ここ数日、某家の資料のまとめに忙殺され、またメールのご返事その他で多忙を極めました。

ネタ切れ状態で、ブログで何をご披露しようかと悩みは尽きません。旦夕覺書は余りの長文にてこずり、古希爺の忍耐力の限界を越え中々前に進みません。こう書き進めていると愚痴ばかりですね・・・・

少しペースを落として、二日~三日に一度くらいの書き込みにして勉強の時間をとろうかと考えています。
各家の先祖附をよく読んで、侍帳に反映させたり、ご披露すべきニュースを取捨したり、そんな時間を持ちたいと思っています。
現在F家、U家などを徹底的に読み込んでいます。いずれにしろ終わりの見えないこの作業は、私の健康が続く限り頑張ろうと思いますが何方か跡を引き継いでいただける方は居られないでしょうか。又愚痴に成りました。 

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