津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■本の処分

2014-07-23 09:05:15 | 徒然

 昔は本は本屋さんの店頭で内容を確かめて買っていたが、最近はインターネットで購入するため何とも面白くない本を買い込むことが多くなった。
こんな類の本が本棚の一画を占領しているので、そろそろブックオフにでも持って行こうかと思っている。
ある人が買取値段が判るサイトがあると教えてくれた。調べて見るとこんなものがあった。別に調べようとも思わないが、世の中便利になったものである。 

                                    【古本買取】ネットで自動査定できるサイト一覧 

どうせ二束三文だからガソリン代くらいにしかならないだろう。この暑い中重たい本をもってうろうろするのも癪だし、暫くは息を長らえることになる。
きょうも蝉しぐれがものすごい。 

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■「拾集物語」を読む (十の一)

2014-07-22 07:23:12 | 史料

                         一、同(寛文)六ひのへ午の年
                           此年之正月光朝法印厳島宮の善神王建立佛師熊本
                           五福町五郎兵衛と申者にて候 此年之二月十二日
                           に弓削太郎右衛門殿木倉より古宮地の宮島御覧候
                           て矢満下遷宮之厳島も御覧候昨十一日に木倉太郎
                           兵衛より拙者へ申來候は弓削太郎右衛門殿邊田見
                           村へ今晩御一宿候て明日甲佐へ被成御出候然ば其
                           元古宮地竹木之剪跡又厳島遷宮只今之宮地をも
                           可被成御覧候左候て甲佐三宮に山王此以前有無之
                           實否御尋可被成候間病用に罷出不申奉待候候(ママ)に勿
                           論社人孫兵衛南北早川之庄屋村横目組頭罷出候様
                           にと申來候に付各同道古宮地に罷出居候處に御所
                           忠右衛門は木倉小頭にて候故供致候而古宮地に御
                           出竹木剪跡之空地御覧候太郎兵衛方被申上候は此
                           宮跡は存申候外に作所に成り可申様には無御座候
                           此中竹木立居候砌は相知れ不申候が島にて御座候
                           と被申候へば弓削殿御聞候てされば/\と被
                           仰候左奏折るて拙者に被仰付候は此島はいか様の分ケ
                           有之候哉めいよのなりの島候と被仰候に付申上候
                           は此島の名を宮島と申候安藝の宮島を厳島とも申
                           候彼明神を當地へ勧請仕候砌此島に宮立て仕崇敬
                           於于今右之山緒にて此島を宮島と申候前々は龜島          
                           とも申龜のふし候様に御座候故左様も申來候就
                           布此當り田畑のさげ名にも宮島/\と古帳に付居
                           申候竹木の跡ひらき明ケ申候とても向後こやしを
                           いれ申候事此島にはいかゞ敷奉存候と申上候へば
                           其通之由緒之上は何とぞ開明ケ社人作り候而見候
                           へ自餘之者は作り候はんとは申間敷候と被仰候太
                           郎兵衛又々被申候は此竹木の根を孫兵衛力にては
                           三四年中には開き明ケ申間敷候然れ共随分如御意
                           孫兵衛聞き見被申候へとがうの上にて候間ほんぼ
                           んの畑には成間敷候と被申候御跡に自分参候に追々
                           甲佐宮社中に山王有無實否之咄申上候御船若宮社
                           はあそ甲佐勧請之宮にて御船に山王社御座候は甲
                           佐勧請之故本所之甲佐にて慥甲佐三宮之邊に山王
                           社地御座候と申上候へは實を御聞候と被仰候則今
                           之矢満下遷宮之地御覧候而本殿之御拝之柱にくみ
                           物無之候をとてもの事に真似形に成り共くみ物致
                           候はで在中大工の故に如是と被仰候て御一笑被有
                           候其日は宮道の左右に櫻少々産子中植候を御覧被
                           在候宮地之道邊之櫻は此年皆植候左候て社人所に
                           か玄察宅にかちと被成御入候様にと太郎兵衛被申
                           上候へ共先々御急通可被成とて甲佐の様に被成御
                           出候矢満下猪右衛門下之大榎の本にて御馬にめし
                           甲佐道の様に御出被有候忠右衛門少し立留り孫兵
                           衛方は冥加に被相叶候此古宮地は御拝領と存候へ
                           と申候て追付供候而甲佐へ來候木倉太郎兵衛方は
                           私宅へゆる/\と咄被申候に邊田見村庄屋次郎左
                           衛門呼申候て挨拶仕られ申候然處に太郎兵衛被申
                           候兼々弓削殿被仰候は厳島宮社地之竹木被為拝領
                           遷宮いたし候はゞ其跡は新地にも成り可申かの様
                           にも被仰上候故一通御覧被有候而工夫了簡可有と
                           て今度如此に候令安堵候先々孫兵衛開明ケ見被申
                           候へと畠に成候て其分不成申候はゞ其分よと被申
                           候此書付其晩如此に書付置候村横目彌右衛門は御
                           給人に御用事故令出府太郎兵衛罷立被申候跡に罷
                           歸申候矢満下小市郎森之儀當所三社明神由緒書出
                           候に委細書出置候前前右書付置候通之彼所も由緒
                           之通にて候
                           此年之三月麻生原村天満宮再建願主南條氏大膳殿
                           入道玄心公 御身軀はあそう原村人々寄進佛匠熊
                           本ごふく町五郎兵衛
                                         (つづく)
                           
                           
                           
                            

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■私ただいま大根足

2014-07-21 18:51:24 | 徒然

 ちょうど一年前のブログ、わざわざメールが教えてくれる。なんともお粗末なもので「手足三ヶ所が同時に攣りましたけど・・・・」であった。
そうかそんなことがあったなーと考えていると、丸一年間病状が好転していないことが判る。
左手はしびれが少し残っているし、からす曲り(こむら返り)を時々やる。最近は足がむくんで、私ただいま大根足です・・・・・
左ひざの痛みで運動不足となっていて、これが諸悪の根源である。塩気断ちで血圧は随分下がったが、大根足になるとは思わなかった。
靴がはけず、もっぱら外出はスリッパ様の靴で出かけている。

今日熊本は「梅雨明け」して本格的夏となった。日中はとても出掛ける気にはならないが、早朝涼しいうちに30分散歩を再開しなければと悲壮な決意である。
齢を重ねるという事はこんなことかと、つくづく感じる今日この頃である。 

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■「近世畸人伝」から僧 南谷

2014-07-21 15:54:04 | 史料

                  現在細川家藩士・中瀬家の先祖附を読んでいる。その出自・旧姓松下氏は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が最初に仕えた
                  松下嘉兵衛之綱である。
中瀬家の初代助九郎は母方の曾祖父が明智氏であり、幼子の頃は秀林院(ガラシャ夫人)の
                  許で養育されている。父松下源太左衛門忠綱は会津藩主・加藤成明の家老などをつとめたが致仕し、寛文九年江戸に
                  於いて不慮の害に逢い死去する。即・助九郎(豊長)と弟(僧・南谷)は苦労を重ね七年後無事に仇を打つことに成る。
                  その顛末が「近世畸人伝」に「僧南谷」として紹介されている。以下の如くである。 

 釈照什、字南谷、幻華と号す。俗姓佐々木にして松下を称す。為リ人ト温潤恭黙、しかも沈勇也。寛文三癸卯年石見国吉永ノ里に生る。穉名 勝之允といふ。纔に乳を離るより筆研を愛し、好みて字画をなすに頗ル奇趣有。父源太左衛門忠綱、会津侯に仕しが(前会津藩主加藤式部少輔成明朝臣)後致仕し京師に在。長男豊長が為に官途を求んとて、豊長はた従者を引つれ、江戸に行。いくほどなく赤坂田町の旅舎にして不測の害にあふ。是、寛文九己酉の 年三月廿一日の夜也。(事故は豊長が附録にしるす)時に師、年七歳。其後、豊長摂津ノ国芥川の駅にして復讐せし時は、師九歳也。豊長、京師を出る時、師もともに往んとこふこと頻也、しかども其幼をもて、豊長みそかに行く。報讎ののちに人もて其由を告るに、師聞て、此行にもれ、ともに天を戴ざるの仇をうたざることを深くうらみ、且かなしびていへらく、吾幼しといへども男児として士夫の道永く廃す。此うへは薙髪して釈門に入、父の冥福を祈らんの外なしとて、もとよりの因あれば、遍照心院、(此地もと経基王の殿舎によりて六宮、或は八条御所などといふ。今の御旅所といふも満仲の産屋の旧跡也。其後八条本覚禅尼・二位如実禅尼ともに、右大臣実朝公追福のため仏閣となし、木幡證人・真空律師を請じ給ふ。これによりて尼寺と俗称す。又安嘉門院・四条局・阿仏尼公の墳土もあり) 義洞長老にしたがひ、十一歳にして剃髪し、終に上足の弟子となる。多年思ひを精し心をひそめて、地蔵院覚雄一派の淵源を極めつくす。此間、詩章は熊谷直閑 に学び、はた智積院泊如僧正、又峨山月潭禅師等にもとひ、専風騒にふけられしに、義洞長老、其学ぶ所釈門の要にあらざるを呵し給ひしかば、是より詩騒を止 めて、永観堂快立和尚に従ひ楞厳の義疏をきく間、病にかゝれり。然ども猶つとめてやまず。諸経論を諸師にきくこと枚挙すべからず。年三十法華の義疏書写 の望を起し、山門の霊空律師について講録を需め、坂本の寓居にして全く書写す。通計八十巻也。時に山王の祭日にあひ遠近の人衢に堵をなす。しかれども師一 室を不出デ騰写泰然たり。其勉強精苦おもふべし。此年はじめて多聞院にて梵網経古蹟を講ぜられしより、諸書の講に及び聴衆百をもて算ふ。かくて源廟(経基王の廟なり) の興復をもて志とし給へども、故ありて院を辞し、山門の外
に一草庵を結び、幻華堂となづけ、堂ノ記及び退院の辧を著す。さて六年の後、元禄丙子のとし、満山の衆徒、師の宿志により、興復のため再任をこふこと頻なれば、又多聞院にうつり、惣代の任をもて江戸に往キ、時の権門松平美濃侯によりて廟の来由を記ル し、聞之ヲ。又明年丁丑九月、復古の宿志、古記等を写して呈するに、美濃侯曰、凡京師の寺政は京師にて達すべし、是恒例なりと。こゝにおいて頓に上洛し、 京兆尹松平紀伊侯に事状を達す。此時、自誓の文を源廟に捧ぐ。其終リ、若シ時運未熟セば自ラ受ケ病ヲ速没シ、再来して願心を遂んといふに至る。神感の故にや、明年己卯十月、有司来り、廟社より門廡に至るまで一般に結構す。此月五日の夜、夢中に涼ヲ洗フ一枕ノ夢。蹈地ヲ窺ヘバ半窻明カナ リ。といふ一聯句を得たり。自ラ趣味あることを覚ゆとなん。庚辰四月、六孫王に正一位権現の勅許有。関東よりも神宝数十品を奉納まします。十二月十二日、 新廟遷座の儀式に勅使あり。辛巳八月廿八日、大樹君、六孫王権現の五大字を御みづからの筆して賜ふ。また水戸黄門光国卿も手状を賜ふ。

六孫王御墳墓年久シク廃頽之処、今度新被ル加ヘ御修覆ヲ之由、珍重之事ニ存候。誠ニ源家ノ氏神、御孫々迄御繁栄ノ御事過グル之ニ御 事御座有間鋪与、皆人一同奉リ存ジ候事に候。唯今迄は、義家一人被致サ信仰候とて、無益之八幡を源家之衆用ヰ来リ候。多田ノ満仲者、源家と申斗に而、御正 統にても無キ之をさへ、多田院など御取立被レ成サ候。今度は各別之儀、如キ我等ノ愚老も、数十年ノ来積欝一時に伸ビ、披雲ヲ望天ヲ不堪雀躍、歓抃之至に 候。為テ今度御礼ト、満山代僧遍照心院内、多聞院南谷法印下向之処、兼々愚老此義致シ苦労ニ候段、御聞及候とて、早速足下迄御申聞候由、事多之処、思召出 過分に存候。終ニ不致サ書中ヲ候故、以テ謝状ヲ不申入レ候段、足下幾重にも宜御申聞可ク給ハル候。頓首 七月六日光国 法眼
立庵医伯 此後は親しく御面会も有けるが、直の御文書も大通寺にあり。

道体益御清勝ヤ否ヤ、馳ル遐想ヲノ而已。先比蒙リ御許借ヲ候文書、新写相済即本書返還、別而恭存候。且被レ仰聞エ候書容易ノ事、雖ドモ 然ト当分衆中書立候。出来次第従リ跡差遣可ク申ス候。尚期ス他日ヲ。恐々頓首。八月十五日 光国 遍照心院 豪慧和尚 猊座下 宝永丁亥四月六日

又命下り、稟米百石を賜ひ、祭祀の用となさしめ給ふ。又中古以来長老の職廃せしかば、古記を抄出し呈するに、戊子歳正月十三日蒙リ勅旨 ヲ、義周をもて其職に任ぜしめ拝ス竜顔ヲ。これ満山不易の眉目也。又東林院を再造し義洞の創地也)、山門の院秩をもます。かくて歳ふるまゝに、廟社やゝ頽廃に及ぶ故に、修繕の志を起し、又江戸におもむく。享保庚戌歳五月十九日、寺社司小出信濃侯より黄金 を賜ひ、且命すらく、此金二分とし、一分は今後修葺の料とし、一分は子母の嬴余をもて後々繕修の用に充べしと。於テ是ニ廟社全ク善美を尽せり。壬子とし、 又江戸にゆき、深恩を謝し、且新画(弟子照本所図なり) の神影を加納遠江侯に呈す。侯斎沐して掲壁上ニ拝スル之時、忽東隣に火起リて殆侯の第に及んとせしが、俄に西風吹て火を転じ、一点も触ることなかりしとか や。甲亥歳正月、太子降誕(桜町帝におはす) 博士御袍衣を納るの地を卜するに、此地、吉にあたれりとて、源廟の樹下に納奉る。是より長く勅願の基趾となり、五月十日、初て紫衣を賜ふ。師、後来不朽の 例たらんことを願れしが、歳を経て志願のごとくに成ぬ。凡生涯の奔馳、満山の為にして毫末も身の為にはからず。丁卯歳の春、又東都に趣キ謁見の時、奏者、 寺号をいはずして、たゞ南谷と称するほどの寵遇に至る。又寺官の第にして官紙を出し、大中字真草行、はた朗詠集などを書しめらる。其他、濡筆を需る人踵を つぐ。此歳の夏、職を辞し、次坐に托し、東林院にかくれ、たゞ終焉の計をなし、歓喜天の浴油供を修すること一七日、蓋シ従来の功業、此尊の加護によること をおもふと也。結願の日より病に罹、人に面接を辞す。たまたま法眼百々俊悦来て病をとふ。師いへらく、我病薬すべからず。然カも過訪を忝す。請フ診脉せら れよと。法眼即チ診して、吁命也。実に薬治のおよぶ所にあらずといへり。一日、夢中源廟に至るに、かねて聞し兜率宮の荘厳のごとく也。かつ神、夷々子と呼 給ふと見て醒ぬ。たゞちに筆をとりて、 陰来レバ則チ陰。晴来レバ則チ晴。君家帰去ラバ。天朗ニ月清シ。 (陰来レバ則チ陰。晴来レバ則チ晴。君家ニ帰去ラバ、天朗ニ月清シ。) 夷々子辞世、と記し終て弟子にいへらく、我今、筆をとるに扛杵のごとし。しかれどももし社事によりて大君われを召サば、元気忽チ復し、千里も遠とせずして ゆかん。吁時ナル哉。吾功も亦あたれりとて、是より言語を不交ヘ。源廟をはじめ、常に仰給ふ所の神社を拝し終り、端坐して寂す。春秋七十四。元文元丙辰歳 十月十三日午時也。師、生涯三帝の恩勅を蒙り、竜顔を拝すること数箇度、東都に行ことは前後三十九度、四大君の寵遇を忝し、加之、月卿雲客、又三家以下、 国主、諸侯、旗下の士の帰依挙ゲ記すべからず。然るに謹慎の甚しきは、京兆尹来過の時は、前日必告給ふにより、師丑ノ時より起て日課の事尹を勤、寅ノ刻に 至れば三衣を著て端坐す。毎時如ク此ノなれば、徒衆、なぞさはし給ふととふに、上ミを敬するはかくすべきことなり、と答られしとなん。晉ノの趙盾が所行に 淮ふべし。世に師の書名をしりて其功を審らにするもの尠ければ、彼等の記をもて要を採て録す。手沢の書、刻につくものは、楷書千字文五冊、克己銘一冊、八 景法帖一冊、大通寺開山宗師行業記一冊、幻華消息一冊(以上印行)、 又詩稿許多あれども其志を見るべきものを挙グ。 客中、早春ノ試毫 江城為リテ客ト始メテ逢フ春ニ。且ツ喜ブ聖朝ニ寓スルコトヲ此身ヲ。 山衲素ヨリ無シ衣錦ノ志。只期ス神運ノ与ニ年ト新ナランコトヲ。 (客中、早春ノ試毫 江城客ト為リテ始メテ春ニ逢フ、且ツ喜ブ聖朝ニ此身ヲ寓スルコトヲ。 山衲素ヨリ衣錦ノ志無シ。只期ス神運ノ年ト与ニ新ナランコトヲ。) 上堂日、寄ス二三子ニ 樗木従来不足ラ量ルニ。山僧何ノ幸ゾ主タル僧綱ニ。 大塊仮ス我ニ椽柱ノ力。他日儻堪ヘン為ルニ棟梁ト。 (上堂日、二三子ニ寄ス 樗木従来量ルニ足ラズ、山僧何ノ幸ゾ僧綱ニ主タル。 大塊我ニ仮ス椽柱ノ力、他日儻棟梁タルニ堪へン。)

(追記)

附、松下助三郎豊長(後故有て母家の姓を冒し中瀬助九郎といふ)は、南谷の兄也。父忠綱、江戸の寓居にして早川八之丞が毒手にあひし時、年十二歳也。其夜、八之丞手書を残し置り。其書にいはく、我は加藤式部少輔内、早川八之丞一敏といふものなり。先年、藪久太郎忰、八助儀に付、大崎長三郎と出合、白昼に討留、国を立退し所、親、早川四郎兵衛切 腹被レ仰付ケ、其節縁類ども、切腹被レ差延我々え御預可ク被下サ候はゞ、当人八之丞引返し可キ申ス由致シ訴訟候へども、松下源太左衛門出頭し、其上、右長三郎縁類たるを以て、内々讒言候に付、四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、源太左衛門右讒者故、如キ是ノ次第なり。

其後、豊長京師にかへり、宮原伝蔵といふ人にしたがひ剣術を習ふに、此人もと親の怨家を討んとせし間、其怨家病死して本意を遂ざること をうらむ。さる故に吾身にくらべて此少年を憐み、日にをしへ夜につたへ、かつ同じ心に八之丞が行へを求るに、八之丞は今、薦僧となるよしを聞出し、伝蔵も 亦其党に入リ、うらなきさまに語らひぬ。一ル日浪華のかたに執行せばやと約し置、其夜、助三郎にかくとつぐ。時寛文辛亥歳九月六日夜也。豊長とみに両人の 従者、(坂根八左衛門・中田平次右衛門) をあともひ、夜ごめに大坂に行、官廳に達し、こゝにまち、かしこにもとめ、此日は大坂にとゞまり、明日通衢にかゝり尋ね、其夜は芥川の駅に宿す。翌九日、 旅店の蔀をあぐる比、こも僧二人通れり。則一人は八之丞、一人は伝蔵なり。伝蔵人々をみて目ぐはし過ぬ。さて三人とも追行に、伝蔵は岐路より右の方へ行、 八之丞は村衢にいる。やがて豊長其由をいひて切かゝれば、八之丞も懐剣をぬきながら、木綿畑の溝を飛越んとしてつまづきたふれぬるを討ぬ。時に豊長年十四歳也。此挙の後、諸侯よりつのり求め給ふこと多時也。しかれども豊長いふ、子として親の讐を復するは則其職也。今、是を口実として禄をうくるは恥べきの極メ也とて、一も不応ゼ。其後、細川肥後侯は母氏のちなみあればとて仕ふ。今に其子孫連綿たりとぞ。

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■「拾集物語」を読む (九)

2014-07-21 09:06:24 | 史料

                         一、同四きのへ辰の年
                           此年の三月太守様大津山にて鹿狩被仰付候 此年
                           の三月六日矢満下彦兵衛猪右衛門親子と立山之約
                           束證文取置候彼山は亡父御先代に彦兵衛内の山に
                           て候へ共たて候て見可申とて彦兵衛御山無之由申
                           候故たて被申候に大分の御山に仕立申候内にて御
                           當代にて當所へ安松茂右衛門と申御山奉行在宅之砌
                           大分之御塀柱被成御剪候て御為に成候由に候近年
                           迄ゆかみ椎之木多有之候を當所之人々薪に申請剪
                           候前々右之由緒候故右之通に拙者又々たて申候然
                           者當分はたて得不申あれ居候右之約束手形物入に
                           有之候 此年の四月大雨折々洪水 此年より切支
                           丹の影ふみはじまる郡奉行弓削太郎右衛門殿牧
                           八郎右衛門殿之御郡代之時浅井喜兵衛庭にてはじ
                           めてふむ 此年五月三日大雨大水 此年之秋山出
                           村大武大明神修建御惣庄屋豊内彌左衛門役職之時
                           此年田口天満宮今之宮地に遷宮 此年雨しげし
                           此年世上悪し 此年之九月よりほうきぼしいずる
                           ひかり西の方にさす後には又ひがしにさす 此年
                           本願寺より智運寺と申使者僧被為下候 此年六月當
                           所西福寺へも智運寺来寺 此年十一月七日より邊
                           田見村井手初而ほりはじむる 此年又豊後より切
                           支丹長崎へ通る 此年雲歩と申禪僧を豊後國當太
                           守様之御領内に被遣候正法邪法分明之為と世上に
                           令取沙汰御尤の御事と申候 此年より横田手永
                           改易にて木倉手永に當所もなる
                            

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■先祖附 岩間(小十郎)家

2014-07-20 20:08:34 | 先祖附

 武田信玄の孫(長子太郎義信の子)六兵衛を祖とする岩間家である。ここではその六兵衛とその室で光尚・綱利代に奥に力のあった海津に付いてご紹介する。

                                              千九百石  岩間小十郎

                         一 先祖清和源氏武田信濃守大膳大夫晴信ニ而
                           御座候 嫡男武田太郎義信父晴信勘當ニ而
                           其後致自害候右義信一男童名六千代丸与
                           申候剋晴信嫡孫ニ而御座候晴信弟武田兵庫頭
                           信清方江義信より内々頼入申筋を以信清竊致          
                           養育嫡男分ニ仕置以後武田六兵衛正成与申候
                           右兵庫頭信清ハ天正三年五月三河於■■(コピー・判読不明)

                           城討死仕候其後六兵衛若年ニ而母召連甲州を
                           立退奥平九八郎様を頼居申候處九八郎様
                           御肝煎を以塩治監物猶子分ニ被成置候様子
                           御座候監物致浪人候監物儀誰人御手属
                           居申候茂傳無御座候其後小笠原兵部大輔様
                           兼而御懇意故両人共御拾■被成置監物
                           儀者大坂御陣之節兵部大輔様御手ニ而働申
                           其後討死仕候右監物実子御座候而小笠原

                           右近将監様江被召出六兵衛より岩間之名字を譲
                          今以其家御座候而岩間重次郎与申親類御座候
                          右武田六兵衛儀兵部大輔様より御嫡大學様之  
                          御守被仰付置候処御父子御不和ニ付六兵衛
                          知行等被召上右監物御預被成候然處慶長
                          十四年四月兵部大輔様御姫様
                          台徳院様御遊御養姫
                           妙解院様江御縁組被仰出御輿入之節右

                          六兵衛儀御附被成度旨兵部大輔様より被仰付候処
                          六兵衛御断申上候其後頃
                          台徳院様六兵衛儀一通旗本並ニ被召置
                          其上ニ而御輿入之御供可仕旨
                          御諚御座候付御請申上候依之先知被返下名氏
                          岩間与改豊前中津江御供仕罷下申候右岩間茂
                          武田一族用申候名氏故此節用申候頃中津
                          両御前様御臺様御祝儀御使者之儀被              

                          仰付置毎歳節々相勤申候
                          権現様 台徳院様 大猷院様江度々

                          御目見被仰付御時服御銀等毎度被為拝領候
                          慶長十九年大坂冬之御陳之節兵部大輔様之
                          御使者罷登申候左候而於彼御手敵三崎
                           討捕両人を組討ニ仕候大坂方本田美作勝治
                          左近与申者之由一人者家名不相知候兵部大輔様
                          より為御褒美鞍置馬御腰物来国次

                                                          被下候此節働之趣委細
                                                          妙解院様江被伝進候由頃
                                                          三齋様手柄之御使者勤申候旨ニ而御長刀
                                                          御時服費為拝領候頃
                                                          妙解院様立物白羅紗包之鍬形御甲并
                                                          三段之開扇地紙三色金銀朱之差物向後
                                                          相用可申旨ニ而被為拝領候御甲并差物六兵衛
                                                          岩間小十郎所持仕候元和元年夏之御陳之節

                                                          妙解院様御供ニ而罷登申候大坂落城之御■詰
                                                          備前片上ニ而落着仕惣御人数小倉江被旋御返        旋=帰る
                                                          六兵衛儀者御供ニ而罷登申候
                                                          小倉於御城人を誤楯籠候衆御座候節右仕者
                                                          被仰付搦捕差上申度候處覚語仕居候者ニ付    
                                                          仕合候而長刀ニ而仕留申候強長者ニ而御座候を
                                                          仕應候段被為仰聞為御褒美等有家財
                                                          被為拝領候尤其節之仕方共御相伴被仰付

                                                          被遊御聞御盃被下候由御座候
                                                          御任官之儀付而被仰附候御様子御座候而大炊
                                                          御■内府様江御例分之御使者相勤九條内大臣様江之
                                                          御使者を茂其節相勤江戸江罷下御返答申上候
                                                          寛永十四年肥前原之城一揆楯籠候ニ付
                                                          妙解院様頃江戸彼地江被遊御進發候此節
                                                          六兵衛儀等保寿院様御姫様江御附詰居
                                                          可申旨ニ而江戸江被召置候然處従  

                                                         保寿院様
                                                          妙解院様 真源院様江御目通之御使者
                                                          被仰付彼地江罷下申候
                                                          御両殿様江早速
                                                         御目見被仰付御口上之趣申上候御返答被
                                                          仰出可罷登旨被仰付候ニ付御仕寄場拝見仕
                                                          罷登申度段奉願候得共
                                                          保寿院様江御左右御傳可被成候旨何連早々罷登

                                                         御返事申上候様ニ猶又被仰付候ニ付き江府江罷登御返言
                                                          申上候其外江戸表御使者等御國御用付而茂
                                                          度々上下仕御側向御奉公無懈怠相勤正保
                                                          四年正月於江戸ニ病死仕候
                                                          右岩間六兵衛妻海津儀者佐々木末茂ふニ而御座候
                                                          江州居申候伴周防守嫡女ニ而右監物与實者
                                                          同氏ニ付六兵衛嫁娶仕候 御輿入之節六兵衛
                                                          一同御供仕豊前江罷越申候頃

                                                         妙解院様大御老女役被仰付五百石分之御物成
                                                          被為拝領相勤申候
                                                          真源院様御代直ニ御側ニ被召仕候然處
                                                          清高院様御懐妊付而六兵衛方ニ而御産被成候
                                                          様々之被仰付御産前より六兵衛方江被成御座剋
                                                          妙應院様被遊御誕生御三歳迄六兵衛方江
                                                          被成御座候
                                                          六丸様御名之儀

                                                          真源院様御直之以御意六兵衛六之字指上
                                                          可申旨被仰付候御請申上退而憚多奉存候段
                                                          再三御断申上候處兎角可伺御意之旨ニ而
                                                          六丸様与被遊御附候由■之六兵衛方ニ而ハ曽而
                                                          遠兼ふ仕様ニ与段被仰付候ニ而剋六兵衛ニ而居申候
                                                          妙應院様始而
                                                          大猷院様 厳有院様被為
                                                          御目見被遊御登城候節六兵衛并海津儀茂

                                                         御供仕志う里ん様御部屋ニ被為入候其後   
                                                          被遊
                                                          御目見此節海津儀茂
                                                          両御所様御前江出申候被為蒙
                                                          上意候節海津御側より御請申上候其後以
                                                          上意伊井掃部様六兵衛夫婦江
                                                          妙應院様御幼稚被成儀御座候間宣御附詰
                                                          可申旨被仰出候趣ニ御座候此節海津儀志う里ん様    

                                                         於御部屋御料理被下候六兵衛儀者奥之御座敷處ニ而
                                                          御料理被下之伊井掃部頭様被成御出
                                                          真源院様江之御傳云六兵衛ニ被仰聞候此節
                                                          御供首尾好相相勤候慶安二年十二月
                                                          真源院様被遊御逝去候以後茂海津儀
                                                          妙應院様御代迄 御入國之節より年々
                                                          御参勤御交代定御供仕候
                                                          妙解院様 真源院様 妙應院様御三代

                                                          之間式々之拝領不時之拝領物等度々被為
                                                          拝領御懇被召仕延寶二年八月於江戸病死
                                                          仕候

 

                                          只今文字チェック中

 

 

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■にわか雨 後 晴天

2014-07-20 14:53:02 | 徒然

 私のうちの御向かいにあるアパート、見えるのはバルコニー側ではなくて廊下側です。
どんよりした今日の午前中、女性の方が部屋の前の廊下の手すりに、バスタオル・布団カバー・タオルケットのようなものを干しました。
暫くすると猛烈なにわか雨です。気が付かないのかなーと思ったのですが、お出かけになったのかもしれません。
見る見るうちににぐっしょりになる状況が見て取れます。

昼から一転太陽も顔を出す晴天に成りました。ぐっしょりしていた干し物が風にひらめき始めました。
ひょっとすると外出されたかもしれないご本人も、帰宅されたらすっかり乾いているかもしれません。
もっとも大雨は御存知でしょうから、洗濯をし直されることでしょうが・・・・

ぐんぐん気温が上昇し只今我が家は30.5℃、そろそろ限界でエアコンにSWを入れましょう。(余り冷房は得意ではありません・・・)
長雨がなかった梅雨らしからぬ梅雨でしたが、あまり被害の情報も無かった熊本・・幸いなことでした。
そして梅雨明けも近いのかなと感じます。

(ビフォー&アフターの写真を撮りましたが、ご本人の名誉の為に掲載はしないことにしました。)
 

 

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■先祖附 柏原(新住)家

2014-07-19 20:23:05 | 先祖附

                                                  四千五百石 柏原新住
                               一、先祖佐々木わかれ之末ニ而近江之者之由後は大和ニ致
                                 居住柏原彦兵衛と申候而
                                 公方家江御奉公申上其以後致牢人法躰仕名
                                 旅庵と改京都ニ罷在候 其子を柏原新兵衛と
                                 申候幼少の時分青木紀伊守殿・寺沢志摩守殿江
                                 居申候由後ニは藤堂和泉守殿江奉公知行
                                 千石ニ而居申候 大坂陳以後為褒美加増二百石

                                 侍をも御預候 藤堂大学殿御代成暇之儀申候間
                                 立退致法躰道喜と改京都ニ居申候其當分ハ
                                 御有之候 後ニは丹羽五郎左衛門殿御断ニ而構は
                                 御赦免候得共何方江も有付不申牢人ニ而居
                                 申候
                               一、寛永十一年 御上洛之節道喜方江京極若狭守殿
                                 より佐々九郎兵衛を御使に手幼少の世忰有之由
                                 及御聞候 御預被成度由ニ仰聞候得共後々

                                 為様之者ニ成可申哉も知不申儀ニ候間御請難仕由 
                                 申候 重而被仰下候は肝煎可申者共ニ可被仰付候条
                                 気遣不仕出雲江下シ候様ニとの事ニ付高祖父新左衛門
                                 十二歳之時出雲江罷下候 召仕之者共ニ為遣候と御座候而
                                 知行三百石給候 若狭守殿御死去被成御息無御座候
                                 甥京極刑部少輔殿江六万石被遣播磨之
                                 館野江所替ニ而御座候 小身ニ御成候故暇之儀
                                 申候叓遠慮仕居候處無程藤堂大学殿を

                                 刑部殿御縁組ニ而候故道喜方ゟ暇之儀申達候得共
                                 暇を被下候儀難成由然共佐々九郎兵衛宛前ゟ之
                                 首尾を存小身御成候故只今迄も御断不申上
                                 居申候 今度之席と存儀も可有之候其儘被
                                 召置候儀如何可有御座哉願之通被仰付可然と
                                 申達候付左候ハゝ暇を可被下候 然共牢人仕候儀
                                 御心ニ相不申候間刑部殿御肝煎ニ而何方江そ
                                 御有付可被下由ニ而脇江御肝煎之様子ニ御座候処

                                 妙解院様被 聞召上若狭守殿御懇ニ被召仕刑部殿
                                 御苦悩ニ成申義ニ候間脇江被遣間敷候可と召出旨
                                 仰出初代新左衛門十七歳之時 御家ニ被召出候 御禮不申上
                                 以前家来小勢ニ可有之旨ニ而歩御小姓三人御足軽三人
                                 御附被成候 御目見仕候以後御銀百枚被為
                                 拝領候 其翌春又百枚被為拝領候 御國江御供仕
                                 候刻於大津老父方江土産ニ可仕旨ニ而金十枚
                                 被為拝領候 京都江罷越翌月は同道仕伏見江

                                 罷出御禮申上候 御國江罷下候秋御知行千石被為
                                 拝領候 其外御腰物御道具度々拝領被仰付
                                 翌年二月
                                 妙解院様被遊 御逝去
                                 肥後守様御代御次江相勤御取次役被仰付
                                 歩御使番えおも被成御預候
                               一、道喜儀久々浪人仕居申候ニ付為御合力現米
                                 弐百石京着ニ而被為拝領候 先御請申上候得共

                                 其後御國出入ニ而御家中懸り物被仰付候砌御断
                                 申上右御合力米差上申候
                               一、高祖父新左衛門儀御取次をも其侭相勤御書
                                 奉行ニも加り御用可手旨被仰付候其節御加増
                                 現米百石被為拝領候
                                 妙應院様御代新左衛門儀御小姓組被成御預
                                 御加増被為拝領都合貮千石被仰付其後御側
                                 被召仕五百石御加増貮千五百石被下又千石

                                 御加増都合三千五百石被為拝領候其五御城代役
                                 被仰付候
                                 妙應院様御代新左衛門子共四人共御小姓ニ被
                                 召出嫡子主馬儀前髪執候以後五十人扶持
                                 被為拝領着座ニ被仰付相勤居申候処貞享
                                 三年八月病死仕候 要人・左内・新兵衛三人江
                                 御知行二百五拾石宛被為拝領御側ニ被召仕要人江
                                 御加増被為拝領都合五百石被為拝領又御加増ニ而

                                 千石被仰付其後高千石之御役料被為拝領諸事
                                 貮千石之格ニ而相勤申候 左内儀貮百五拾石之
                                 御加増ニ而都合六百石被為拝領其後も御加増可被
                                 仰付候得共時分柄之儀ニ候故其義無御座候千石
                                 之御擬作被仰付候間諸事千石之格ニ心得候而相勤
                                 可申旨被仰渡候 江戸定御供仕元禄四年
                                 御下國之節相煩御跡ゟ罷下申候処快気不
                                 申同年六月於京都病死仕候 新兵衛儀十二才ゟ

                                 三十一歳迄御側之御奉公申上定御供相勤居候処
                                 病気ニ罷成御知行差上申度段再三奉願候へ共
                                 其侭御知行被為拝領御懇之御意ニ而外様
                                 御出被成大組ニ被召加候
                                 妙應院様御代新左衛門儀別而有難以
                                 御意御自筆之御懸物被遊 御削候御茶杓
                                 龍田之御茶入高麗茶碗御作之御釜物
                                 御被為拝領候

                               一、新左衛門儀元禄六年十一月御家老役ニ仰付
                                 同十年七月隠居仕候
                                  

                                 
                                  

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■熊本歴史学研究会・講演会 『熊本城惣構』と『高麗門』

2014-07-19 18:12:37 | 講演会
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■奉公構

2014-07-18 11:16:05 | 歴史

 現在細川藩士・四千五百石柏原家に関する先祖附を読んでいる。一両日中にはupしようと思っているが、家祖の柏原彦兵衛(道喜)という人物は、藤堂和泉守(高虎)に仕えていたが御暇をいただいた折、奉公構になっている。奉公構について調べて見ると、藤堂高虎の家臣に多いことが見て取れる。
もっともこの柏原彦兵衛は、丹羽五郎左衛門 (長秀)の御断りによって御免になっている。しかし早々に仕官することは無く暫く牢人を続けのち京極若狭守(忠高126,000石)に仕えた。若狭守に男子がなく、養嗣子・京極刑部少輔(高和)は播磨國館野(60,000石)に転封、高和室が藤堂高虎の娘と言う事も有り、御暇を願い出たが引きとめられている。奉公構をされるような人物だから、有能な人で在ったのだろう。
細川家に仕えたのは息・新左衛門(十五歳)で忠利公が亡くなる前年の事だから時代が相当下っている。 

 奉公構といえば何と言っても後藤又兵衛基次のことが思い浮かぶが、これは「黒田長政が仲の悪い細川家との付き合いを家臣に禁じたにもかかわらず、基次がこの掟に従わなかったことが主原因とする見方が強い。」とする説がある。(ウィキペディアから)

細川家は、又兵衛の息・又市郎を遇している。

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■松寿庵先生 第107講

2014-07-18 07:28:48 | 史料
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■ガラシャ忌・余滴

2014-07-17 07:30:59 | 人物

 今日は秀林院様(ガラシャ夫人)が亡くなられてから満414年の御忌である。数日前から熊本出身の作家・小山寛二の「細川がらしゃ」(上・下)を読んでいるが、いわゆる大衆小説で真実味がなく途中でやめてしまった。三浦綾子氏の「細川ガラシャ夫人」や、生方たつえ氏の「細川ガラシャ」など、女性の目で見た作品や、キリスト教者の目でみた作品などガラシャ夫人を主人公にした作品は数多である。好ではないが司馬遼太郎の「胡桃に酒」などもある。

中には家村耕なる人の「明智の娘ガラシャ」成る作品があるが、これなどは噴飯ものの作品である。霜女覚書を引用しているが、これは「下書きは細川家がつくったもの」等とするとともに、霜女覚書の書き出し部分「石田治部少乱のとし・・・・」を引いて、「石田三成が西国大名を結集し家康と雌雄を決するため挑んだ関が原合戦を少乱とわざわざ言わせているが少乱である訳がない」と書いている。
著者家村氏は覚書を読まれた時、句読点の場所を間違えたわけだが、「治部、少乱の年」とはいくらなんでも読まないだろう。
永青文庫が所蔵する覚書の該当部分は「石田志ぶのせうらんのとし・・・」と書かれているが、護貞様の御著・魚雁集では読みやすいように「石田しふのせうらんのとし・・・」とされている。
作家が引用する史料をどう解釈しようと知ったことではないし、表現の自由は保障されているから、このように立派な体裁の本が出版されるのだろうが・・・・
ごもっともと思って読まれる方は居られないだろうと思うが、咄のネタとして読むのには良いかもしれない。

                                                  

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■「拾集物語」を読む (八)

2014-07-17 07:10:13 | 史料

                              一、寛文二みずのへ寅の年
                                 此年の二月一日當村御百姓庄左衛門と云者の丈た
                                 かの飼犬にあたり同村御百姓惣左衛門と云者熊本
                                 いぬうちの處へ役夫にてひいて参候をいぬうち慥
                                 に打ころし白犬にて候然處に右庄左衛門屋敷林之
                                 中にぬかぐらを作置候に其内に右之庄左衛門白犬
                                 來りて子をうみ候まぎれなき庄左衛門がかひ置候
                                 而御鷹の飼犬に出し候白犬にて候庄左衛門不思議
                                 に存ひいて参候惣左衛門に乍其上相尋候へば慥に
                                 無紛いぬうち方が打殺候而はらめる犬にて候と申
                                 候と申候然は彼犬の子はい毛色の子にて然々目も
                                 あかずぐず/\となき候尤母犬には庄左衛門言葉
                                 をかけ申候はおのれは御鷹の飼に遣候てすでにう
                                 ちころされ候が如何して來て子をもち候かと申候
                                 にげにとはしか/\うれしがり尾をふり候事なく
                                 候而母犬も子犬も一両日過候て行方しれず候渡邊
                                 又兵衛などもたしかに右之犬母子共に見申候自身
                                 物に似たる了簡にて候へ共存候は乍畜生此ぬかぐ
                                 らにて子をもち候はんと思ふて居るうちにころさ
                                 れ候へども右の念にて如此かと存候事共に候 此
                                 年金海山釈迦院熊本禅定寺之老隠周欣和尚観音入
                                 佛 此年春雨多し 此年あそのけふりはなはだし
                                  此年甲佐正宗寺にて熊本順正寺僧に覺山と云
                                 僧浄土三部経講談 此年豊後九ぢうだけにけむり
                                 いづる 此年の五月八日大雨洪水 此年五月三日
                                 より起請文を進奥田一残公はりの秘傳受く 此年之
                                 五月京大阪大地震京都二條之御城も奉損候などゝ
                                 風聞仕候 此年之五月中に有吉頼母殿京都にて御    本家六代英安
                                 死去 此年之夏大分切支丹豊後より長崎へ通る
                                 此年の八月十八日より同廿四日迄中程之大風夜    白南風(しろはえ)の事か・・・?
                                 ふく 此年之七月卅日之夜はた雲西より東の方に
                                 たつ 此年御船法光寺當分之堂建立大工は八代横
                                 山次左衛門 此年鯰村之明神當分之宮地へ遷宮
                                 此年之夏絹布の衣類御法度つよく少のきぬぎれに
                                 ても御惣庄屋村々廻り取集村々庄屋所へ被差置候
                                 寺社は別條無之醫師も寺社同前 此年有吉内膳殿    本家七代貞之 四代興道嫡男
                                 同氏頼母殿之跡御拝領御家老従太守様被仰付候
                                 此年之八月豊後之内よりさつま金山へ参候て罷在
                                 候切支丹取に當村御給主中村伊織殿御出 此年之
                                 九月自分弟孫四郎落髪 此年之九月七日より渡邊
                                 五郎社役 此年之九月十九日之夜大なへ 此年六
                                 七八九十十一月中方々大疫病流行 此年當南早川
                                 中に八十二人疫病人有内孫左衛門娘甘酒餅をくひ
                                 令食傷卒死其外八十一人自分薬治候にすきと令快
                                 気候此年之十月三日老母妙空死去 此年之十一月
                                 十三日之夜熊本古町火事堂順正寺失火 此年之同
                                 月十四日に同京町に少火事 此年之秋従公儀疫病
                                 御祈祷之御木札村々に被成御立候 此年當所いで
                                 四だうざきのいび石いびになる奉行山口傳右衛門
                                 牧與左衛門
                              一、同三みずのとの卯の年
                                 此年之正月四日之夜大雷 此年之二月坪井火事五
                                 百餘家焼る 此年之二月十九日に上野在々之内も
                                 ちばたと云所の者共飯田山に参候て歸りに野火に
                                 あひ四人死す 此の年太守様松平讃岐様之聟御に  綱利室は松平頼重養女・実は水戸中納言頼房息女・久(本源院)
                                 被遊御成候 此年釈迦院本道修建願主禪瑞彼禪瑞
                                 は奥州之僧にて候道者にて候 此年三月八日より
                                 同十日迄長崎火事二千九百一軒焼る三千餘人焼死
                                  此年三月廿日より四月廿六日迄大日照當所のぬ
                                 ま田ひはれめ一尺餘碧(緑)川三合ほどにひる苗悉く枯
                                 れ候 此年四月十一日より同廿一日迄 大猷院様
                                 御十三回廻之御法事妙解寺にて妙法經千部天臺宗之
                                 僧達御執行僧衆不足分は大慈寺之僧衆被遊御加候
                                 大慈寺は法室和尚住職之時にて候當所薬王寺住持
                                 休蔵司大慈寺之迚僧にて御候而御銀二枚御拝領
                                 此年疱瘡流行當村は去十月よりはほうそういたしは
                                 じめ候今正二月迄に仕廻候四十餘人相勤候兒之内
                                 三人死やすひ疱瘡にて候 此年之春より夏末迄大
                                 日照甲佐谷勿論方々雨乞踊有之候甲佐川常之流に
                                 くらぶれば二合餘と人々申候 此年切支丹數十人
                                 豊後より長崎へ通る 此年太守様之御前様御輿入
                                  此年の八月大雨 此年田畑不作七八十年に無之
                                 と老人共申候 此年五こく高直 此年太守様麻生
                                 原村下之河原に御河狩被成御座候 此年夏秋大疫
                                 病流行 此年岩下村にかゝる田の水せき所建立い
                                 で小河嶋の向ふにできる 此年雨乞立願成就之狂
                                 言踊村々に有之候 此年之十一月廿三日之夜寅卯
                                 の刻に高來温泉山動揺して翌朝煙見ゆる                嶋原普賢岳か 
                                  

                                 
                                  

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■足のむくみ・・・・→熱中症?

2014-07-16 14:05:13 | 徒然

 今日は非常に体調がよろしくない。「M先生の古文書を読む会」に出席を予定していたが、両足がむくんで歩行も成り難い感じである。直前に事務局におことわりの電話を入れた。
血圧は最近140代後半に落ち着いてきて、以前からあった同様の症状もすっかり消えていたのだが、ここ二三日くるぶしが見えないほどになってきた。
ここ数日気温の変化があってなかなか身体がついていけない。身体が全体的におもく、両足の膝から下の感じがなんとも不愉快である。
熱中症に成らないよう十分注意をしているのだが、むくみも熱中症のせいだともいう。
今週土曜日は、史談会の例会でその準備が少々残っているので頑張らなければならないし、当日は何が何でも出掛けなければならない。

何時もの如く妻が、「運動不足」と切り捨てる。暑さと膝痛でとてもではないが、早起きをして涼しいうちに30分散歩を始めようと思ってはいるが・・・・
果してあるけるのかいな・・・・・ 

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■先祖附 氏家(甚左衛門)家

2014-07-16 08:51:10 | 先祖附

 美濃三人衆で知られる氏家卜全の二男を祖とする、肥後氏家家である。初代元政の女は細川興秋室である。(興秋死去後・飛鳥井持信再嫁)

                                               三千石 氏家甚右衛門
                                     一、先祖氏家常陸介藤原友國入道卜全宇都宮
                                  弥三郎友綱次男氏家五郎後ニ右兵衛尉公頼と
                                  申候下野國氏家之邑江居住仕初而氏家氏ニ
                                  相成申候右之者氏家之元祖ニ而其子孫之由
                                  申傳候土岐氏幕下ニ而大垣ニ在城仕居候
                                  美濃三人衆之壱人ニ而御座候其後永禄七年ゟ
                                  信長公ニ属シ数度戦功御座候 信長公遊□□
 
                                  浅井備前守朝倉源三郎と姉川合戦敵勝車ニ成
                                  信長公御本陳危ク御座候処卜全三千之人数
                                  を以馳破り浅井雅楽助舎弟齋助狩野次郎左衛門尉
                                  同次兵衛細江左馬早崎吉兵衛を討取勝利を為
                                  申候此時 信長公ゟ御感状御腰物御馬被下候
                                  元亀二年五月十二日 信長公勢州長嶋御陳
                                  之節三十八歳ニ而討死仕候
                                 一、卜全嫡子氏家左京助儀 信長公ニ奉仕信長公

                                  松永弾正少弼カ手山口六郎四郎・奥田三河守カ
                                  城を攻候節攻口ニ向申候 信長公室町殿槇木嶋
                                  楯籠敵對之節攻口ニ向申候
                                一、元亀四年八月 信長公刀根山合戦之時
                                  越前勢追崩シ引返せ候を追討仕齋藤右兵衛
                                  龍興濃州を致浪人越前ニ居候を此度左京
                                  手ニ討取申候 信長公越前之國守義景退治
                                  之節大野口先手ニ向申候三州於長篠武田

                                  四郎勝頼と 信長公御合戦之節向申候天正
                                  四年四月 信長公大坂攻之節向申候同五年
                                  五月毛利輝元播州上月之城を打圍候ニ付而
                                  信長公御人数被為向候節攻手之内ニ向申候
                                一、荒木摂津守依謀叛 信長公御父子惣御人数
                                  出陳之刻刀根山向イ城氏家左京助・稲葉伊豫守
                                  伊賀伊賀守一同ニ居申候 秀吉公北伊勢表
                                  遊致ニ付柳瀬合戦之節一万之大将ニ被仰付候

                                  人数二万五千氏家右京儀其後度々軍功有之候由
                                  天正年中ニ病死仕候事
                                一、氏家卜全二男氏家志摩守元政若名元六と
                                  申候 信長公武田四郎勝頼を御退治之砌御近習
                                  供奉仕候其後数度軍功御座候 信長公御代
                                  赤座六助・多田内頭企謀叛候ニ付早速討取
                                  以大札言上仕候其節 秀吉公ゟ御通書被成下
                                  于今所持仕居候御書面之写

                                       尚以人数遣し候間可□安候我等も明日可□着■候
                                               其方御身上之儀可被仰置候委細は不具候以上
                                  昨日并御状今日辰ノ刻至来今披見候
                                  其方儀無心元存一昨日以書状申シ
                                  赤座助六多田内頭企謀叛候し處
                                  被仰付之由中々御手柄無申斗候
                                  惟五郎左我々近御目可申候条可□
                                  心安候其方為加勢追々人数を申候
                                  恐々謹言

                                     たつのこく       羽筑
                                      極月十五日     秀吉御判
                                      
                                        氏志
                                          御返報

                                  其後志摩守儀 秀吉公江奉仕於近江国
                                  壱万五千石被下御代官所五万石を預り申候様被
                                  仰付候由承及申候 秀吉公及御末期諸大名被
                                  召寄御遺言御座候節も志摩守儀は御座之間之

                                  次ニ而為御遺物吉光之御脇差弟内膳之正ニは
                                  國俊之御脇差拝領仕候右吉光之脇差は
                                  志摩守御蔵江罷越候以後
                                  三齋様江差上申候事
                                  卜全三男氏家内膳正ハ伊勢國桑名城主ニ而           氏家行広(二男としている)
                                  貮万貮千石ニ而御座候織田三七 信孝
                                  秀吉公と御約変シ氏家内膳正稲葉伊勢守
                                  分領之在々少々依放火 秀吉公天正十七年

                                  夘月十八日御出陳濃州大垣ニ御宿陳内膳正
                                  以人数信孝之御分領悉放火仕候
                                一、関ヶ原之時分石田治部少輔味方ニ而御座候ニ付浪人
                                  仕候其後内膳正儀は京極修理様池田三左衛門様
                                  御預ケニ成申候大坂御陳之節
                                  太閤様御厚恩奉存御城江籠り落城之節
                                  御城於千疊敷切腹仕候志摩守并内膳正
                                  石田方ニ而御座候へ共本意偏ニ

                                  秀頼公御為と奉存候処■無御座候ニ付御■式ニ
                                  不被仰付と相聞申候
                                一、関が原御陳之節志摩守儀石田治部少輔方故
                                  御退治之上志摩守儀ハ高野山江立退申候其後
                                  志摩守内膳正儀は御免許候
                                  家康様ゟ御内書被成下于今所持仕居申候
                                  御書面之写
                                     就上方惣割従路次有備上之由尤候
                                     其方事連々無■意之条等閑を不
                                     存候徳永京極修理参陳之事ニ候間
                                     彼方江能々可被申含候近日上洛之間
                                     於様子は可御心安候委細は村越茂助
                                     可申候恐々謹言
                                        七月廿七日    家康御判
                                              氏家志摩守殿
                                              寺西備中守殿

                                  其後御老中井伊兵部太輔様榊原式部少輔様
                                  大久保相模守様ゟ御内意之御奉書被下置候を
                                  于今所持仕居申候御書面之写
                                     一書申入候仍貴殿御座所之儀何方にても
                                     かたかけニ先々御在宿候て尤ニ候御妻子も
                                     其分ニ可被成候自然如角申方候ハゝ此折紙
                                     御見せ可被成候恐々謹言
                                        十月九日     大久保相模守 御判
                                                   榊原式部少輔 御判
                                                   井伊兵部太輔 御判
                                             氏志摩守殿
                                             同内膳正殿
                                                   人々御中
                                一、三沢頼母儀若名日見久右衛門と申候志摩守実子   三沢清長(女・初子 伊達綱宗側室・綱村生母)

                                  無御座候ニ付猶子ニ仕置候処其後実子出生候故

                                  本所江帰申度由願申ニ付松平陸奥守様江依為
                                  親頼罷越知行二千石被下子孫相續仕于今
                                  相勤申候右之訳ゆえ今以致取遣候事
                                初代
                                一、右志摩守
                                  三齋様連々御懇意之者故被仰分候処
                                  権現様 台徳院様能御存知被遊候者之儀ニ付
                                  御頼之通被仰出慶長六年小倉江被召寄
                                  罷越候上剃髪仕宗入と名を改申候其節家来

                                  勝野道齊と申者を
                                  三齋様御前江被 召出宗入為馬之飼料知三千石
                                  無役ニ被下置之旨被仰渡候事
                                一、右宗入娘幼少之時分
                                  三齋様被成御意候ハ成長之後 与五郎様江可被遊         娘・鍋=長岡(南條)大膳室
                                  御合宿之旨宗入江被成 御意其後嫁娶
                                  御調被下候処 与五郎様御早世ニ付而御返シ被成候
                                  其後又々従

                                  三齋様飛鳥井大納言様江嫁娶御調被成被下候           
                                  事
                                一、大坂御陳之節は宗入儀為御留守居被召置候
                                  依之其砌従
                                  公儀被 仰出之儀共御侍中江可申渡旨被仰付
                                  三齋様ゟ長岡式部殿宗入両人江御當テ被成下
                                  御書候儀及数十通申候宗入儀は元和元年
                                  十一月於小倉病死仕候事

                                二代
                                一、高祖父氏家志摩儀宗入嫡子ニ而若名を源六
                                  申候四歳ニ成候節宗入果候處早速御目見被
                                  仰付候此節家来□尾左兵衛野村孫右衛門と申者
                                  両人共ニ
                                  三齋様御前江被召出源六儀未幼少之事候間
                                  随分守立可申旨御直ニ被成御意跡目無相違
                                  被仰付候其後段々御念比ニ而右左兵衛迄も
                                  度々御前江被召出御相伴被仰付御書とも被成下候事

                                一、右源六儀十五歳ニ而前髪を執志摩と名を改
                                  寛永十四年比善有馬御陳之節有吉頼母殿
                                  御組ニ而罷越其刻首尾宜敷段
                                  真源院様御代被遊御聞届旨ニ而御前江被
                                  召出御念比之御意共ニ而為御褒美御番頭役被
                                  仰付候事
                                一、正保三年長崎江唐船参候節も罷越申候
                                  其後承應二年江戸御留守居詰ニ被指越明暦元年迄

                                  相詰申候罷下候以後松平下総守様江御藤様
                                  御婚礼御整被成候節御家老役ニ而は長岡勘解由殿
                                  一人在江戸ニ而御座候御祝言之時分御輿之役ニ而
                                  御座候処御貝桶之役之仁無御座候ニ付氏家志摩儀
                                  御国許ゟ急ニ被召寄御貝桶之役御家老代を
                                  相勤罷下申候事
                                一、寛文五年七月志摩儀病気に罷成候ニ付而
                                  被下置候御知行家屋敷差上申度旨奉願候処ニ

                                  其砌迄ハ何も隠居不被仰付筈之御法ニ御座候共
                                  志摩儀ハ各別ニ被思召上隠居被仰付旨ニ御座候
                                  志摩儀は病中故一類槙島半之允江被仰渡           源六室は槙島云庵息女
                                  刻剃髪仕意安と名を改申候
                                三代
                                一、曾祖父甚左衛門儀寛文五年七月氏家志摩
                                  家督無相違被為拝領候
                                           (以下略) 

                                                                                               

                                   

                                  
                                   

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