盤桓随筆所収のこの記録は、「瀬戸雑記」から引用されたことが判るが、宣紀公の代に起こった10名の有力藩士の処分に係る記事である。
「熊本藩年表稿」にも記載されていない貴重なものである。一部の家の侍帳や先祖附にもその一端が伺われる。
原因はよく判らないが、大変厳しい処分であった。
千石 竹内吉兵衛 千石 田邊平助
三百石 西沢文右衛門 三百石 臼杵杢之助
千石 国友源次左兵衛 百石 藤掛梶右衛門
三百石 芦田友之允 八百五拾石 竹内七郎右衛門
弐百石 江村左七郎 百六拾石余 脇坂伊左衛門
右は正徳四年五月廿二日御暇 右之内西沢文右衛門伜
西沢文太郎儀享保三年二月七日五人扶持被為
拝領 竹内七郎右衛門跡ハ右同日三人扶持被為拝領 脇
坂伊左衛門嫡子井(ママ)坂■左衛門儀者享保十年四月十一日
高瀬三蔵物書ニ被召出候也
本行之通大勢一同之御暇ハ如何之訳ニ而候哉 永央 安田市助ニ
咄之席ニ聞合申候処名前相分申候ハヽ書付見■■様被申
候付■■処付紙ニて被申越則左之通
此面々御奉行所御暇帳に記し有之候
思召ニ不為叶なとと有之候ヘハ■■被分兼申候
西沢跡は御切米取ニ両家有之代々相續ニ而正月十一日
御鏡餅頂戴仕候有馬討死跡 脇坂ハ道家左近右衛門之馬
乗ニて候 道家の本家幼年ニて相果断絶ニ付馬
乗二人脇坂■■浅之助道家ニて取来候知行侭
御直参と被召出置候 脇坂跡は井坂ニて今代々相続
之御切米取ニて候 外ニ御昇組より御役人ニ相成申
候脇坂某寺原ニ居申候 血脉ハこれの方ニ系■
傳へ居申候 一家ニて紋は輪違を付申候 瀬戸雑記