先のブログ ■「からむし」って御存知ですか で御約束した「からむし」の完成品である。
昔はからむし作りも当たり前の日常の中に存在したのであろう。
こうして出来上がってみると少々感慨深いものがある一方、貴重なものを失いつつある現代社会のありさまに危機感も感じる。
この細い繊維をつむいて一本の糸となし、高級なからむし織が作られている。
わずか60㎝にも満たないこのからむし、撚ってみると本当に強い。何かの綴じ紐に使おうと考えている。
「津々堂謹製のからむし」である。
先のブログ ■「からむし」って御存知ですか で御約束した「からむし」の完成品である。
昔はからむし作りも当たり前の日常の中に存在したのであろう。
こうして出来上がってみると少々感慨深いものがある一方、貴重なものを失いつつある現代社会のありさまに危機感も感じる。
この細い繊維をつむいて一本の糸となし、高級なからむし織が作られている。
わずか60㎝にも満たないこのからむし、撚ってみると本当に強い。何かの綴じ紐に使おうと考えている。
「津々堂謹製のからむし」である。
金曜日から「熊本史談会・史料リスト」を作り始めた。
進めていくうちに記録にとどめていない物が多くあって、完全に復元できないでいる。
22・23日両日資料が入っている「袋」を全部引き出し、年代順に仕分けし月順に並べる。
処が随分欠落していることが判った。捨ててはいないと思い込んできたが、地震の際、棚からおちて床の上に散乱してしまったから、整理の際気が付かず廃棄したのかもしれない。
憎っくきは「熊本大地震」である。
そして気が付いたのが、私の記録のまずさである。資料にも収納袋にもほとんど「年号」を記していなかった。
「□月資料」とのみしか書いていないから、厄介極まりない。
「史料リスト」を完全なものにするために、すべての袋の中身を確認し、データをPCに打ち込むという作業を両日共散歩にも出ず、10時間ほど動き回った。
昨日は「今日は勤労感謝の日」だというのにである。
昨晩ようやく140程の「袋」に入れ込み、床の上に散乱した資料を何とか片付ける。
今日は、これをいくつかの大袋に入れ、棚に戻さなければならない。
資料整理は力仕事でもある。そして史談会での懐かしい風景を思い出させる。
ふと「こりゃ終活だな」とも思ったことだが、「自分史」の中に残す貴重な記録でもある。
日帳(寛永六年六月)朔日~二日
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| 朔日 安東九兵衛
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| (山本)松井家家司 (松井興長室、三斎女)
こほ母松丸之病状 |一、式ア殿内源太夫登城仕候而申候は、 御こほ殿被仰候は、式ア殿御物語にて被聞召付候、松丸様
ヲ忠利へ報スルヲ | 御儀煩二付、又江戸へ御飛脚を被進之候由、被聞召付候、御煩もさしてかわる儀茂無御座候、其
制止ス | 〃
| 上被仰上候而も、達而御差図も不被成儀共にて候間、此度之御飛脚は御無用二思召候間、先々此
| 度は被遣間敷由、被仰聞候事、
| (験)げんき
松松病少峯調薬二 |一、重而源太夫を以、被仰聞候ハ、一昨晩ゟ少峯薬を被成御用候処、薬相等仕、検気ニも検気御座候
験アリ | 〃〃〃〃
| 様ニ相見え申候、左様候ヘハ、今一両日も、今度之御飛脚御待候而、いよ/\検も御座候ハヽ、
| 其段御吉左右被仰上尤ニ存候、又検も無御座様ニ候ハヽ、其上を以、御飛脚被遣候而も可然由、
| (浅山)(田中氏次)
| 被仰せ候、とかく修理・兵庫、それへ致参上、其上ニて之儀ニ可仕と、御返事申候事、
| (細川光尚)
求菩提山ヨリ光尚 |一、求菩提山ゟ 御六様御祈祷の御札之由にて、持参被仕候也、
ノ祈祷札 |
|
木下延俊領内ニ金 |一、修理・兵庫両人ともニ式ア少殿へ参候処、四季ア殿被仰候は、木下右衛門尉殿御領内ニ、金山
出来
山出来ノ報 | 候而、則右衛門殿侍衆江戸へ注進参候由、御物語候也、
|
| 二日 奥村少兵衛
|
江戸ヨリ飛脚ノ小 |一、江戸ゟ、御小人與介与源四郎・源三郎与吉蔵参候、江戸を五月九日に立、大坂へ廿三日に着、大
人帰着 ソノ旅程 | 同
三斎へ音信物 | 坂を廿四日に出船、今日着申候御小早にて罷下候、御小早船頭ハ桑田左兵衛也、 三斎様へ為
塩引鮭 | 御印信、鮭塩引十尺・かな川ふくの皮百枚、右ノ御小人幷式ア殿・左馬殿・備前殿・勘解由殿ゟ
神奈川鰒ノ皮 | ノ御飛脚、此六人に被仰付、持来候也、
忠利書状諸方へ | 一、佐藤将監方へ 御書壱通、
| (元五)
| 一、志水伯耆殿へ 御書壱通、
| 一、加々殿へ 御書壱通、
| 右は、歩之御小性長屋才三郎ニ持せ、進之候也、
| 一、御家老衆へ之 御書ハ、兵庫ものニ持せ、進之候也、
| 一、我等両人ニも 御書成被下、則致頂戴候也、
| (光尚)
| 一、楯岡鉄斎へも 御書成被遣候、右両人之御飛脚之内も、壱人ハ鉄斎御見廻ニ被遣通被 仰下
| 鉄斎相果候ニ付而 (定直)
| 候、〇 御書ハ子息孫市郎方へ、村井内蔵助を以、相渡候由、
| (恵重) (志水元五) (志水清久)
志水元五父宗加拝 |一、志水新丞登城にて被申候は、伯耆守申候は、宗加拝領仕候知行の水帳にて候間、差上申候、御代
領ノ知行ノ水帳ヲ | 官を茂被仰付にて可有御座候間、御代官ニ御渡候ためニ上申候由にて、新丞持参被仕候へとも、
差上グ | 今迄左様並多候へ共、水帳上りたる例ム御座候間、先御手前ニ被召置候へ、若御用ニ候ハヽ、従
先例ナキ故返ス | 是可申入由申候而、則差返候事、
現在の熊本史談会は15年ほど前に、肥後金春流家元の中村勝氏によって設立された。
地震のせいで些か資料が欠落して、確かなことが良くわからないが創立から一年後くらいに参加したように思う。
幸い残っていた「案内状」や「配布資料」、「資料作成原稿」などを頼りに、15年分の「史談会例会資料一覧」を作り始めた。
只今家の中は足の踏み場もないような有様である。資料を袋から取り出し一々月日と内容を書き出す作業をしている。
例会当時にもたらされた新聞記事やパンフ・写真等思い出深い品が出てきて作業の手を止めさせる。
配布資料のストックは二部だけ残して、大ナタを振るって処分することにした。
15年の時間が経過しているが、内容をながめると一つ/\が鮮明に思い出される、78爺もまだぼけてはいないようだ。
一覧はA4サイズ15頁に及ぼうとしている。
15年前の史料を整備すれば、再び新年度からの資料につかれるのではないかと考えている。
今日は部屋の中を抜き足差し足で歩いているが、紙資料を一日中触っているから、手はパサパサになってしまった。
おかげで今日は散歩に出るタイミングを失ってしまった。世の中は三連休だそうだから、休養日ということにしておこう。
「麒麟がくる」を見て、シャワーをつかって寝るばかりだから、散らかった史料はそのままということになる。
明日は一番に散歩をして、又終日この作業が続くことになる。
私の15年の歴史である。
熊本城の長塀工事が完了していた。熊本史談会例会の帰り、遊歩道へまわりデジカメ撮影してみた。
阿蘇地方において大被害を受けた国道57号線の復旧とバイパス道路も共に竣工して、阿蘇観光にも光明が見えてきた矢先、コロナの第三波がGoToトラベル事業を危うくさせている。
熊本城も観光客の減少状態が続き、入場料のUPが検討されているらしい。
このような、地震から復旧している熊本の姿を全国の皆様に「さあ、見においでください」と大声で申上げる時期がいつ来るのか、コロナ感染者は熊本でも増加傾向があり、暖かい春の訪れまで待たなければならないのだろうか。
365日連休状態の私だが、このコロナでの籠り状態はどうも別の精神状態にさせて、疲れること甚だしい。
皆様も御身お大切にお過ごしください。
肥後狂句だと思うが「うう頭 井戸を覗いてかやり込み」というのがある。
「うう」は「大」の意であり「大頭」、例えば「大番外」を熊本では「ううばんぎゃー」と読んだりする。
「かやり込み」は「倒れ込み」の意である(大分方言)。
つまり、「大きい頭の人が、井戸をのぞき込んでいたら倒れ込んでしまった」ということである。
斯くいう私も「うう頭」の持ち主で、二歳ころの写真が残っているがまさに井戸のそばに立っていて、「おいおい危ないぞ」と声をかけたくなる。
一年程前か、散歩をしていてまっすぐ歩けないことに気づいた。本人は真っすぐ歩いているつもりなのだが、50㎝くらいの幅で右に左に身体がぶれるようになった。
病院で検査をうけたら、「小脳」が小さくなっているとのご託宣である。
「脳」が小さくなっているのなら、「うう頭」も少し小さくなってくれれば有難いのだが・・・
心筋梗塞予備軍だから「ニトロ」の携帯を言い渡され、高血圧・高血糖の薬を欠かせず、インフルエンザの予防注射を人生初めて受けたが、コロナにかかればもうあの世行きは間違いない。
最近では時おり「パーキンソン病」ではないかと思わせる症状が出る。歩いていると右へ右へ身体が引っ張られていく。
これが何とも不安でしょうがない。又精密検査をうけなければならない。
そんなこんなの我体調で、今般8年間務めた「熊本史談会」の事務局を引退させていただくことを、昨日の例会で表明しご了解をいただいた。
来年度からは新体制で、新たな発展に向けて歩みだすことになる。元気な内は協力を惜しまないことは当然である。
日帳(寛永六年五月)廿七日~晦日
|
| 廿七日 (ママ)
|
鉄炮弓頭病死 |一、山内勘兵衛、昨日病死被仕候由、金子喜左衛門尉被申候事、
三斎少峯ヲ呼ブ |一、式ア殿ゟ被仰越候ハ、中津ゟ少峯へ御用之儀被 仰越候、則御請仕候間、飛脚壱人申付、加遣由
| ニ付、御飛脚申付、遣候也、
| (興相)
牧興相死セシ寄子 |一、牧左馬允殿ゟ被仰聞は、山内勘兵衛相煩、昨日被相果候、拙者達而差出候而、申入儀にて候ハね
鉄炮弓頭ノ跡式ニ | とも、拙者寄子故、連々頼置被申候ニ付、如此候、未御目見えとも仕せ候せかれなれとも無御座候、
ツキ申入ル | 跡式茂 御下向の上、いつれノ道ニも可被仰出と存候、其間は妻子如前々、先勘兵衛屋敷ニ居に
| て可有御座候や、御尋申入候由、被仰越候、此段は御家老衆ニも可申入候哉との儀被仰付候、此
| 方よりご返事申候は、勘兵衛儀ニ付、御使者得其意存候、妻子は先般仰出御座候まてハ、勘兵衛
| 殿屋敷ニ御座候而可然存候、此段は御家老衆まて被仰入儀にても御座有間敷候間、いつにても御
| 面談之時、御咄なされ候而可然存候、又勘兵衛与ノ御弓ノ衆、御ふちかたなと請取候時は、余の
| 御弓頭衆御入候間、か様の儀茂不苦候間、其御心得可被成候由、御返事候也、 (原)
豊後横目ヘノ音信 |一、豊後御横目衆へさうめん二箱・かつほ一箱・御樽三つ宛、御両人へ被進之御使二、歩之御小性孫
物ノ請取 | 〃
他国ノ段 | 孫介を被遣候、慥うけ取候との御内衆裏判取被来候、他国之段二入置候事、
| (粟野)(豊岡)
帆縫女ノ切手 |一、小舟之帆ぬいノ女、やとい切手御印帳に書付候上ハ、惣積衆判形可有哉と申候処ニ伝介・甚丞
| 被申候ハ、諸事かやうの切手二私共判入不申儀候間、町奉行衆へ人を付、遣候様ニと被申候、則
| 人を付、遣候事、
病死ノ鶏ハ鷲ノ餌 |一、千介預り之にわ鳥ノ内、御郡ゟ参候かしわのめんとり、煩候て死申候よしにて、差上申候、わし
| のゑに仕候へと、申付候事、
| 廿八日 加来二郎兵衛
|(ママ)
|一、
|
|
| 廿九日 安東九兵衛
|
| (興長)
三斎小倉侍中ヨリ |一、長岡式ア少輔殿内西村太兵衛登城にて申候、当地御侍衆中津へ度々御音信被仕候二付、 三斎様
ノ音信ヘノ返書ハ | ゟ御書被成遣候、下村已庵かたゟ届候様ニとの儀にて候へとも、御侍衆有増在々二被居候衆も御
小倉奉行所ヲ通サ | 座候二付、御書不残、御奉行所に差上申候間、御届被成候様ニとの儀にて御書持来候、得其意申
シム | 候通、返事候也
|
| 晦日 (ママ)
|
|一、式ア殿ゟ被仰聞候ハ、昨日中津ゟ 御書入参候箱を、此方へ可給由二付、則進之候、御使ハ久
| 保左太郎也、
先の人吉・球磨地方の大水害をうけ、熊本県知事が「川辺川ダム」建設を視野に入れた答申を県議会で表明した。
ダムがあれば6割の被害が防げたといわれている。樺島知事は、ダム建設反対を公約に掲げて当選し、今年熊本では避けられてきた四選を果たした人である。
「民主主義は市民が主権者」だから、民意をくみ上げて方向性を決めるというのだろうが、私が腹立たしく思っているのは、県知事初当選後から約13年間、県や知事や議会は、治水に関するダム建設の代替となる具体的施策を放ってきたことである。
私は若いころから仕事の関係で随分五木村や人吉球磨地区に通った。川辺川の清流と共に日本の原風景とも思える穏やかな村は、ダム建設の話でほんろうされ続けてきた。
家をすて移転を余儀なくされたり、村から離れていく人が続出し人口が激減した。民主党政権の登場と共にダムは否定されたころ、知事もその流れに達当選を果たしたが、それ以前から村民は長い間、政治に翻弄され続けてきた。
当時の村民の民意はまさしく「ダム反対」であったが、けんせつへ向かって猛ダッシュを始めた処で一変した。
ダム完成後を夢に見ながら、役場をはじめ、商店や住居などが新しい場所で近代的な「あだ花」を咲かせている。
自然に優しい「流水型ダム」を建設する方向で知事の腹は固まっているのであろう。
13年前に「流水型ダム」ではいけなかったのか、多くの使者・行方不明者を出し、膨大な被害を目にして、知事の心も乱れたことであろうことは想像するに難くない。
原始力発電を推進してきた人たちが、福島原発の津波被害に呆然とし、推進反対を言い足した構図とよく似た話だ。
「過ち而改むるに憚ること勿れ」という言葉がある。過ちと考えずに改めない人がいる。知事は13年前の決断をどう考えておられるのか、議会もメディアもそこを突くこともないようで、心底をはかり知ることができない。
「その時の民意をくんだ決断である」という話なのであろう。お詫びの声は聞こえないように思う。
虚心坦懐、関係住民のこころに温かみが届くような言葉が欲しい。
四期目の任期いっぱい、政治学者である知事の苦悩はつづくのであろうが、精いっぱいご努力いただきたいものだ。
先に ■豊前入国後の忠興の子とその生母たち をご紹介したところ、立孝・興孝の生母・幾知(圓通院)の実方である清田氏のご一族、福岡在住のKK様から、圓通院の墓石その他の写真資料をお送りいただいた。感謝申し上げる。
私も過去に何度かこの場所は訪れているが、これは細川刑部家一族の墓地である。
圓通院は細川刑部家初代興孝の御生母としてこの場所に葬られている。
私が訪ねた折は入り口の扉が閉ざされており、無断で入ることもはばかられ、詳細を知りえないできた。
細川宗家の藩主の墓地である泰勝寺(立田自然公園)にほど近い場所であり、かっての泰勝寺塔頭・慈眼庵のあった場所である。
圓通院の墓碑 同左
慈眼庵・案内図
慈眼庵標木 細川刑部家・墓地
今朝は6時前に起床、熊本の日の出は7時少々前だから外はまっくらである。
6時半過ぎレースのカーテン越しに、白み始めた空が見え始めた。
窓を開けて換気をしようと思いカーテンをあけ、サッシュを開こうとしたら網戸状態でなんと開けっ放しにしていた。
熊本ではここ数日夏日が続いており、昼間は網戸にして半袖で過ごしている。
それでも寝るときにはサッシュを閉めて寝るのだが、昨晩はシャワーをしていきなりベッドに入ったから、開けっ放しに気付かず寝てしまっていた。
うっかりの極みだが、現在室内気温は24度ほどで快適温度ではある。今日も夏日になりそうな気配だ。
雲に朝日が当り、ピンクのだんだら模様が空に広がってきた。いかにも初冬らしい風景だ。
大きなくしゃみを一つ、そこで窓をしめました。
日帳(寛永六年五月)廿四日~廿五日
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| 廿四日 (ママ)
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| (興相)
三斎高麗鷹舶来ノ |一、牧左馬允殿登城にて被仰候ハ、中津へ御見廻ニ参、夜前罷帰候、 三斎様被成 御諚候ハ、高麗
注進ヲ命ズ | 鷹下関へ売ニ参候は、可被召上候間、中津へ可申上旨、被成 御意候間、可得其意通被仰渡候、
| 奉得其意通申候也、
|
| 廿五日 加来二郎兵衛
|
|一、友田新丞、此中腹中相煩候ニ付、松野道遊薬をたべさせ候へハ、はやよく候由、道遊途上にて
| 被申候事、
| (田川郡)
彦山政所坊五月ノ |一、彦山政所坊、今月御祈祷ノ御札持参被仕候、則御本丸へ御上候而、隠岐ニ可有御渡由、申渡候也、
祈祷札 |
| (雑賀)
鉄炮足軽ノ跡目 |一、井門亀右衛門与御鉄炮衆之内、坂本孫左衛門と申もの相煩、今月三日ニ相果申候、此者ハさいか
雑賀者 | ものにて、御切米十五石二三人ふち被下候、ぬし年寄、相煩申ニ付而、養子むこニ左太夫と申
| もの名代ニ出、去年御供ニ江戸へ罷越、于今相詰申候、跡目之儀も孫左衛門同前ニ可被仰付候哉
| と与頭亀右衛門・加左衛門、小頭とも同然ニ尋被申候事、
|
| 廿六日 安東九兵衛
|
| 煩候而
欅門番ノ死跡 |一、けやき御門ノ御番内藤新右衛門、夜前相果申候、彼せかれ内藤左太夫江戸へ御供仕候、彼ものい
| ま■た屋敷なとも拝領不仕候間、右新右衛門家屋敷を拝領仕にて可有御座候間、余人望候とも
| 不
| 被遣様ニ被仰付候而加被下之由、上田さん右衛門登城にて申候由、
|一、山村三丞、此中在所へ参、今日登城仕候事、
筆 |一、慶養所ゟ筆五対さし上候事、
|一、友田新丞、此中腹中相煩候処、松野道遊薬を用させ候ヘハ、今日ハはやすきとよく御座候、忝由
| にて御番■衆上ヶ被申候事、
次回の史談会で、ある事情で若干の挨拶をしなければならない。
私が事務局をお預かりしたのがいつだったのか、地震で記録が散逸して定かではない。
ふと思い立ってこのブログで「史談会」と検索すると、随分前に遡ることができた。相当な数の小文を書いていた。
いろんな記事がいろんな出来事を思い出させてくれる。そして私の入会が2006年の11月であったことが判明、ちょうど14年になる。
これは当時事務局を預かって居られた、肥後金春流の中村勝氏がわざわざ我が家を訪ねてこられたことによる。
どうやら、私のサイトをご覧になってのことだが、氏は初対面の私に「奇人」といわれた。
馬鹿なことをやっているとの意であろう。
2013年の4月から私が微力ながら事務局をお預かりすることになった。7年7か月ほどお預かりしてきた。
史談会の歴史をデータだけでも明らかにしたいと思っているが、幸いにもこのブログが役に立った。
相当な記事があるが一つ/\とりあげて、紡ぎあげていこうと思っている。
記事の間から、懐かしい風景もよみがえるし、おやめになった会員や、鬼籍に入られた会員の御顔なども浮かんでくる。
熊本史談会は15年の歴史を有する老舗となりつつある。さらなる飛躍を望みたい。
日帳(寛永六年五月)廿二日~廿三日
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| 廿二日 加来二郎兵衛
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| (松井興長)
唐人少峯ヲ急ガシ |一、式ア少輔殿ゟ、山本源太夫を以被仰候ハ、少峯参候儀、片時も急参候様ニ、重々申遣候へと被仰
ム | 候二付、又飛脚二人申付、遣候事、
三斎唐人少峯ニ松 |一、松丸様御煩ニ付、少峯 三斎様ゟよひニ被遣、今日参着候事、
ノ丸ヲ診療セシム |
|一、松丸様御煩ノ様子、江戸へ申上候早飛脚二人申付、出船今晩仕候事、
長崎買物奉行出船 |一、長崎為御買物奉行飯銅上右衛門、歩之御小性唐沢長介・嶋田勘右衛門、今日出船仕候、石寺加兵衛も
| 被参筈候つれ共、相煩候ゆへ、此度ハ不参候、快気次第被参筈也、
| (是次) (武久)
大坂京都ノ奉行へ |一、御年寄衆ゟ、米田左兵衛・田中猪兵衛両人へ被遣御状一つ、又京都へ被遣御文箱一つ、内ニ御
ノ書状 | 袖判御座候由にて御渡候、慥請取申候、大坂にて左兵衛・猪兵衛両人へ慥相渡可申候、以上、
袖判書状ノ請取 | 御船頭田中作兵衛(花押)
|
| 廿三日 安東九兵衛
|
辻某用命ヲ待ツ |一、辻九右衛門、今ほと何之御用茂無御座、いたつらに居申候間、用之儀御座候ハヽ可被仰付之由、
| 登城にて申候也、
| (武次)
|一、牧丞太夫、今朝まてニ御本丸御番相勤候て、罷帰由被申候、初日がいきを仕候而、一日不参仕候
| 由、被申候也、
|一、有吉頼母佐殿御内衆、江戸ゟ被罷下候二、江戸御奉行衆ゟ之書状共言伝り、相届被申候、江戸を
| (成政) (幸長)
| 去月廿鉢日ニ立、今日参着候由申候事、但、坂崎清左衛門ゟ之奉書・野田小左衛門ゟ之返事持来
| 候也、
|一、野田小左衛門尉ゟ白井兵助へ遣被申候書状、御船頭南喜右衛門尉ニ渡ス、
坂崎成政奉書案 | 為 御意申入候
忠利ノ命 | (重義)
長崎買物奉行宿所 | 一、長崎へ被参候御買物奉行ニ可被申渡ハ、長崎ニて買物奉行衆宿所、竹中采女殿御座候近所ニハ
ヲ竹中重義邸ヨリ | (政直) (守信)
遠ザクベシ | 無用之由 御諚候爰元にて末次平蔵 殿様へ被申上候ハ、右ニ、水野河内殿御宿所近ク、
長崎代官末次政直 | (挨拶)
意見 | 三斎様御買物奉行衆宿を取被居、悪敷御座候、其上今度は、采女殿と 殿様御相察能も無之候
三斎代之前例 | 間、猶以御買物奉行采女殿御宿所之町なとにハ、宿を取被居候事不入儀と被申上ニ付、右之
忠利ト重義仲悪シ | 御諚ニ而候間、被得其意、可被仰渡候事
|一、余家中ゟ買物奉行余多参候へ共、中崎にて何篇ゆい事共ム御座候、 三斎様・越中様ハつね
細川家買物奉行内 | /\万事御法度能候ニ能被仰付候ニ、御父子様御買物奉行内わノ儀とハ申なから、今迄三度云
輪ニ三度ノ言事 | 事仕候条、長崎へ被参、御買物奉行ニ能々被仰付可然存候通、是又平蔵被申上候間、弥下々ニ
不行儀物言事ノ禁 | 至迄、長崎にて万事きやうきニ無之、物ゆひ事不仕やうニ可被申付旨、 御諚候間、被得其
| 意、堅可被仰渡事、
長崎買物奉行等請 | 坂崎清左衛門ゟノ奉書
書 | 右ノ通〇写被下、慥ニ請取、承届申候、以上、
| 飯銅上右衛門(花押)
| 石寺 加兵衛
| 唐沢 長介(花押)
| 嶋田勘右衛門(花押)
| 御のほり衆
| 峯本少右衛門〇(黒印)
| 同
| 早川 加兵衛〇(黒印)
|
| (長泰) 御
平野長泰女ノ預銀 |一、平野遠江様御息女様之御銀三十貫目被成御預候を御返シ被成、預り丞もとり申候を、幾島平三郎
| 被罷下ニ、京都衆ゟ被差下候、則粟野伝介ニ相渡候事、
忠興の豊前入国(1600・12月)以前に生まれた子女は、忠隆・興秋・忠利・長・古保・忠利・多羅・千丸そして最後は、万姫(烏丸光賢室)で慶長3年(1598)生まれである。万姫の生母は明智次右衛門女・小弥々で没年は元和9年(1623)である。
忠興は豊前入国後三人の男子を成している。(女子一人夭折)
四男・立孝(立允‐宇土細川家祖) 元和元年7月15日生 生母・清田鎮乗素閑女・幾知
五男・寄之(松井興長養子・松井家二代) 元和2年生 生母・眞下元重女・才
六男・興孝(細川刑部家祖) 元和3年正月13日生 生母・立孝同母
年があまり変わらない三人の子たちは、長じて運命を異にしていく。
四男は溺愛され、忠興の八代入国後忠興領の相続を確実としていたが、忠興より早く亡くなってしまった。
同母弟の六男・興孝は3歳より江戸証人となり、21年間江戸暮らしをした。実兄・立孝とは異なり、父・三齋とは関係は良くなかった。
五男・寄之は元和七年には松井興長の養子に出されている。
元和の初頭においては、忠興の側室・松の丸(藤)と多羅の二人の生母(郡氏)、小弥々(明智氏)、幾知(清田氏)、才(真下氏)の四氏が認められる。
松の丸は娘・古保(松井興長室)の許に在ったようで、現在ご紹介している「細川小倉藩」における記述においては、病にあることが記されており、興長が色々気遣いしている状況が見て取れる。寛永六年六月十九日没。
小弥々・幾知・才は三齋の許に在ったものと思われる。
但、寄之の生母・才については、元和四年の秋頃から五年にかけて、沼田勘解由延元におさげ渡しになっており、才はかわいい盛りであったろう寄之と引き離された。
つまり、寄之は実姉である養母・古保の手にゆだねられた。祖母にあたる松の丸にも可愛がられたのであろう。
立孝・興孝の生母・幾知はその後三齋に伴われ八代に入った。立孝死去後は興孝の許に在ったのではなかろうか、寛文三年七月二日死去、刑部家の菩提寺・慈眼庵に葬られている。
ちなみに三斎はその最晩年になっても壮健で、細川家の系図には記載されない二人の女子を成している。
系図には記載されないが、綿考輯録にちゃんと記載されている。系図に登場しない姫様達