津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■除籍本「丹後資料叢書・第一輯」

2021-07-23 10:10:58 | 書籍・読書

               

 私はメモというものをしない人間で、後悔することが多い。この古い「丹後資料叢書・第一輯」もいつ購入したのかはっきりしない。昭和二年に発行されたもので除籍本である。
バラバラになりかけているので、厚紙でカバーを作って収めているが、久しぶりに取り出してみた。
というのも、中嶋利雄先生の「宮津の歴史散歩‐細川時代の宮津」を読んでいたら、細川家の一色義有誅伐後の幽斎の娘・伊也に関する「一色軍記」のいわれのない記述についての解説があり、改めて目を通したところである。
これはまことに怪しからぬ史料で、中嶋先生同様にこれが大いなる間違いであることをこの機会にお伝えしたいと思ったからである。
明日から数日この「一色軍記」全文をご紹介しようと思っている。
触るたびに手を洗わなければならないような本だが、いまではなかなか手に入れることがむつかしい本だから大切にしている。
熊本県立図書館も所蔵していないようなのでそのうちに寄贈しようかとも思うが、大体が除籍本だから受け入れはしてくれないのではないか・・・?

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■鳴き納め

2021-07-22 16:29:02 | 徒然

 なんだか近くでクマゼミがやかましく鳴いている。
ベランダに出てみると腹をうえにむけて、そろそろご臨終という感じである。なんでセミは最後はあおのけになるのだろう。
かわいそうだから、緑の葉がよかろうと蘭の鉢につかまらせた。しばらく鳴いていたが本当に断末魔であったらしく鳴き止んでしまった。
あんなに勇ましく鳴いていたのに、セミのわずかな命は寂しすぎる。

               

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■朝顔や・・

2021-07-22 11:19:49 | 徒然

 世の中は今日から四連休だそうな。今日は海の日、明日はスポーツの日、そして土日と続く。
とかく嫌な話題が多いオリンピック開催の日も近づいてきた。
そんな中、小中学生は夏休みに入ったらしい。昨日は小学生たちが、学校で育てた朝顔の鉢を重そうに持ち帰っている姿を見かけた。
熊本では肥後六花の一つ「肥後朝顔」が有名だが、近くの小学校では生徒たちの鉢に並んで、それらしい鉢も仕立てられていた。
昔は夏の強い日差しを避けるために、竹を組んで朝顔のつるを這わせたお宅をよく見かけたものだ。
しかしご時世か、最近ではあまり見受けないし、朝顔自体をあまり見受けないように思う。
朝顔よりも、昼顔が可憐な花を公道の植込みなどに咲かせている。
この朝顔、季語としては「秋」に属するのだそうで驚かされてしまう。ただ「朝顔市」は夏だそうで、何とも不思議なことである。
山崎貞士氏の著「東肥花譜」には、あの横井小楠が残した句に「朝顔の顔が見たくて起きにけり」といく句があるそうだが、あまりうまいとも思えないが、氏の解説によると小楠が残した唯一の句だとされる。

 私はといえば幼いころ、母と夜市に出かけ朝顔を買ってもらったが、ひも(麦わら?)が切れて落としてしまい鉢がわれてしまった。
土をかけ集めて持ち帰って、翌朝小さな畑に植えてみたが、二三日内に枯れてしまい、姉からずいぶん嫌味を言われたことを思い出す。
この朝顔といい、幼いころの思い出に良いことは一つもない。

 

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■解説・有吉家文書「年中行事抜粋」(十一)窺日之式

2021-07-22 06:57:08 | 有吉家文書

■窺日之式

  四日    同席一人・御奉行一人・御郡代一人     
                     この扣を作ったのが家老の有吉氏であり、同席とあるのは家老職であることを示す。

  十六日   同席一人・御奉行一人
  廿五日   同席一人・御奉行一人・御郡代二人
    但大御奉行御目附之儀ハ御定例被召出ニてハ無之候事
              但大御奉行・御目附のことは御定例の召し出しではない事
  附紙
    御着坐之上被召出日窺日等之書付ハ初而被遊御用御聞候前ニ御用番より書付御用人を以奉伺候得者追而被仰出
    候事
    御着坐の上召出日・窺日等の書付けは初めて御用御聞なされる前に、御用番(月番家老)より書付を御用人を以って伺いたてまつれば、追
    って仰せ出されること竪
一、奉伺候ケ条申談諸書付共取揃前日伺文箱ニ入置候事
  御伺いするケ条を申し談じ、諸書付共取り揃え前日伺文箱に入れて置く事
       但半切もの其外諸書付ハ伺文箱ニ入組、竪紙もの等ハ服紗ニ包持候、右之文箱服紗ハ御用箱ニ入居候事
    但半切(はんせつ・紙を長手方向に半分にしたもの)もの其外諸書付は伺文箱に入れ組み、竪紙(紙を竪長につかうもの)もの等は服紗に
     包み持ち、右の文箱服紗は御用箱に入れ居く

一、伺之点前有之候間伺前之人五半時出仕、直ニ伺御機嫌今日伺前ハ私ニ而候段、以御用人申上、詰間江引取居候事
        伺の点前有るので伺い前の人は五つ半時(9時)出仕、直に御機嫌伺い、今日伺前は私にてもことにて、御用人をもって申上げ、詰間へ引取り居
   る事

    但其餘同席ハ例刻出仕如例奉伺御機嫌候事
    但其のほかの同席は、例の刻に出仕、例のごとく御機嫌うかがう事
   御用人より案内有之歌仙之御間江座着、猶案内有之御前江罷出候脱剣且罷出様等諸事御着座後初召出之通候事
  御用人より案内が有り、歌仙之御間へ座着、猶案内が有り御前へ罷出、脱剣且罷り出の様等諸事御着座後初て召出の通りの事
    但歌仙之御間江者奉行已下も相揃候事
    但歌仙の御間へは、奉行以下も相揃う事
一、会議帳ニ被遊御青印当御代、可ノ字を御用ニ相成候御下被遊候付御側江進ニ寄取揃箱なから御印を頂戴仕、蓋いたし
  紐結傍ニ置夫より伺物有之節ハ右之跡ニ而奉伺元之箱ニ入御前下候事
  会議帳ニ御青印あそばされる当御代、「可」の字を御用いに成り御下し遊ばされるに付、御側へ進寄り取揃箱なから御印を頂戴し、蓋をいたし
    紐で結び傍に置き、夫より伺物があるときはこの跡で伺い奉り、元の箱に入れ御前を下る事
    御着座後初窺日ニ者会議帳御下ニ不相候、其子細者復議之式ニ記置候事、当時ハ此差別無之一同復議以下選挙方
    伺物ハ奉行江被遊御下候事
    御着座後初ての窺日には、会議帳御下げにはならぬ、其の子細は復議の式に記き置く事、当時はこの差別はなく一同復議以下選挙方伺物は
     奉行へ御下あそばさる事

一、御前より下候ヘハ歌仙之御間江御奉行以下控居候へも不及会尺等罷通候事
  御前より下れば歌仙の御間へ御奉行以下控え居れど会釈などにはおよばず罷り通る事
一、詰間江参会議其外伺物御用番江差出被仰出之趣等致演舌候、左候而請持之帳面江伺之趣頭書いたし佐弐役江見せ置候
  事
    詰間へ参り会議其の外伺物御用番へ差出し仰出之趣等演舌いたさる、そうして請持の帳面へ伺の趣頭書いたし佐弐役へ見せ置く  
一、夫より御用番伺書之箱を請取見志らへ箱なから御印頂戴仕候段申達候得者、席中一同平伏仕候事
  夫より御用番伺書の箱を請取り見調べ、箱なから御印を頂戴し仕たことを申達して、席中一同平伏する事
一、御奉行江被遊御下候伺帳等御奉行御前より下り御用番江差出候得者是又見志らへ御用番迄御印頂戴、夫より同席より
  伺物之内自筆物之分ハ取除佐弐役へ相渡左候而其除者伺帳之箱なから御奉行より之伺物茂右一同ニ御奉行江渡候事
  御奉行へ御下しなされた伺帳等、御奉行御前より下り御用番へ差出しだせば、是又見調べ御用番迄御印頂戴し、夫より同席より伺物の内、自筆物
  の分は取除き佐弐役へ渡し、そうして其除は伺帳の箱ながら御奉行よりの伺物もこれらと一同に御奉行へ渡す事

    但佐弐役身分之儀ニ付伺物有之節其者当人江伺書不相渡様心付見志らへ可申事
    但佐弐役の身分のことに付、伺物が有るときは、其は当人へ伺書は渡さぬ様心付け見調べ可き事  

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■何と読む「為済」

2021-07-21 13:58:47 | 徒然

 TRILLニュースというサイトで「読めたらスゴイ難解漢字」というのをやっている。
今日は「為済」が取り上げられていた。日頃古文書に親しんでいるものとしては読めなければならないものかも知れないが、一般の人にとってはもはや「無用の長物」死語といっていいようなものである。
答えは「し・すます」と読み、「首尾よくやり遂げる。 成功する。」の意である。現代では「仕済ます」とするようだ。
私のブログの中で、この言葉が何回出てきているか検索サイトに文字を入れ調べてみると、11の記事がヒットしたが、そのくらいしか使うことが少ないということが言えるのではないか。ちなみに私の過去の記事は8,770に及んでいる中でである。
よくクイズで東大生の方がられて出られて回答し、どや顔をしている処を見かけるが、こんなものは出てきたらWEBで検索するとすぐ教えてくれる漢字だから、知らぬなら知らぬで済む言葉のように思える。
知らなかったらすぐ調べれば済む話である。それにて為済・・・

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■起き掛けの散歩

2021-07-21 08:57:58 | 徒然

 連日の真夏日に、爺様は少々くたびれ気味、起き掛けにブログを一件UPしてそのまま6:20~7:15の朝散歩、それでも汗びっしょりである。
シャワーをして爽快に朝食をとる。
クーラーが苦手な私は、一昨年くらいまではよほど熱くならない限りは付けなかったが、昨年あたりからよる年波に耐えかねて、24時間フルタイムでクーラーに浸かっている。
半世紀前の交通事故の右上腕部の傷(29針)が痛むので、毛布を掛けないと寝れず、就寝中、毛布を蹴やっては引き上げ/\を繰り返し、安眠とならない。夢ばかり見ている。

 歩いていても相変わらず足取りが左右にふれ、時折一方方向に引き込まれる感じがする。
ブレーキは掛けられるから、パーキンソンではないと自己診断しているが、この暑さも相まって小脳が小さく成りつつあるようだ。
熱い間は、早朝散歩にすることと致しました。

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■観世新九郎宛、忠利書状

2021-07-21 06:08:14 | オークション

 【真作】喜聞◆『細川忠利 書状メクリ(観世新九郎宛)』1枚(1通) 古筆 古文書 古書 消息 書簡 大名 熊本藩主 茶掛軸 能楽歴史資料 江戸前期

  

 観世新九郎にあてた細川忠利の書状である。書き出しに「明日は入来別而満足申事候」とあるが、毎度のごとく年号の記載がない。
忠利は寛永四年八月、新しい能の師として中村政長に入門し起請文を書いた(中村家文書)とされるから、それ以前のものではなかろうか。
新九郎の驕奢な生活ぶりには、「京の家の立派なことは驚くばかりであった(寛永八年三月忠興書状)」とも記している。
さてこの文書、巣ごもり生活には結構なお相手、拡大コピーしてチャレンジしてみたいと思っている。
法政大学の「観世新九郎家文庫目録」を見てみると、この書簡の事が判るかもしれないが・・・

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■大目附という職

2021-07-20 16:11:21 | 歴史

 細川藩において「大目附」という役職が独立するのは、宝暦の改革以降である。
それまでは数人いる用人の分職の一つであった。悉皆用人の専横があって政がゆがめられたが、監察の機能を託された目附がそもそも用人職の分職であったことが不思議に思える。
藩政の改革においては、大目附職は家老・中老・備頭・城代・大奉行につづく重要な役職となった。
これは一人が任命され、役高1,500石・役料米100俵と定められた。この中から大奉行・備頭・中老・家老へと進席する人がでた。
家老には平野新兵衛(天明3年)、朽木多仲(完成6年)、三淵守礼(寛政2年)等3人が見受けられる。

 一方「用人職」は宝暦の改革以降は座班においても役高においても、降格されたことが目に見えている。
それまでは用人から中老職に転じた人が多く見受けられたが、改革以降は政からは完全に外れ、家政職を専らとすることになる。
宝暦以降は転任による際立った進席は見受けられない。大目附が最高位か。

藩政の機構が年を経て改革がくわえられて成熟していくさまが見て取れる。

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■解説・有吉家文書「年中行事抜粋」(十)御出入之式

2021-07-20 08:49:42 | 有吉家文書

■御出入之式

一、御出之節ハ御供廻申上ニ相成候段坊主より知候付、御弓之間南九尺之御入側ニ罷出、東頭ニ座着多門より御入側之出
   口左手之柱を丁口ニ〆坐着、此御入側と申ハ御玄関より一ト続之御入側之事ニて候事
        御出の節は御供廻申上ることに成り、坊主より知せに付、御弓之間南九尺の御入側に罷出、東頭に座着多門より御入側の出口左手の柱を丁口に
   しめ坐着、此御入側とは御玄関より一ト続きの御入側之事である

一、御帰座之節ハ、慶宅坂又船場橋米屋町等之御注進を承右西頭ニ坐着左手之柱を末坐ニ〆坐着之事
  御帰座の節は、慶宅坂又船場橋・米屋町等からの御注進を承り、右西頭に坐着、左手の柱を末坐にしめ坐着の事
    但御近習一手と御小姓組ニ者間合次第致会尺候事
    但御近習一手と御小姓組には間合次第会釈をいたす事
一、御先立左之通
      大先立一御取次 鷹之御間より一御小姓頭 御前之御先一御用人
  御先立は左の通り、大先立一御取次 鷹之御間より一御小姓頭 御前之御先一御用人
     右之通ニ而同席坐着之処無会尺被通候事
  この通にて同席(家老)坐着の処会釈なく通られる事
一、御出入共ニ御先立を見受手を付キ御間近く成平伏致居候得ハ、御一ト通御意被為在候、御帰座之節ハ御跡ニ少シ引下
  り直ニ中柱御間江罷出、例之通奉伺御機嫌候事
  御出入共に御先立を見受て手を付き、御間近くになり平伏していると、一ト通御意なされる、御帰座の節は御跡に少し引き下り、直ニ中柱の御
   間へ罷り出、例の通り御機嫌うかがう事

       但御用人御人少之節ハ不居合儀も有之候、其節ハ暫見合居候得者御用人出方有之候又ハ御用人詰間江参御次小姓
    を以申入候而も宜候事
    但御用人が少い節は居合ぬことも有る、其節は暫く見合せ居れば御用人出方がある、又は御用人詰間へ参り、御次小姓を以て申し入れても
    よい
一、五半時以上之御供揃之節ハ引揚
       五つ半時(9時)以上の御供揃の節は引揚
一、四半時已下之御供揃ニ而終日御留守之節ハ御出前罷出奉窺御機嫌候事
  四つ半時(11時)以下の御供揃では、終日御留守の節は御出前に罷り出て御機嫌うかがいたてまつる事
一、四時御供揃之節ハ御出前出仕御出ニ強而不懸合も不苦候事
  四つ時(10時)御供揃の節は、御出前に出仕し御出に強いて懸合らずも苦しからぬ事
一、四時已上之御供揃ニて終日御留守之節ハ郭茂直ニ政府へ出候事
  四つ時(10時)以上の御供揃にて、終日御留守の節は直に政府へ出る事
一、御帰殿八時過候得ハ滞ニ不及候事
  御帰殿が八つ時(14時)過のときは滞るのは及ばない事
一、御庭口より御出入之節ハ御出迎等無之候事
  御庭口より御出入の節は御出迎等は必要ない事
一、出仕之節御供廻居之時分ハ表御門より詰間之様ニ難罷通候間、裏御玄関又者御次口より上り候茂不苦尤落間之所ハ刀
  遠慮いたし、其外ハ持通候事
  出仕の節、御供廻居る時分は表御門より詰間の様に罷り通り難いので、裏御玄関又は御次口より上ってもよい、尤落間の所は刀遠慮いたし、其
   外は持って通る事

     付札
    四時之御供ニ而終日之御出被為在候節ハ政府詰と嘉永三年御在國之節定候由之事
    四つ時(10時)の御供で終日御出ある節は、政府詰すること、嘉永三年御在國の節定められたる事

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■Norwegion Wood

2021-07-20 07:30:42 | 徒然

 先に文京区目白台(旧・小石川區)の細川邸に関することにふれた。
ここにあった旧・細川侯爵邸は現在は和敬塾本館として知られる。
「ノルウェーの森」を書いた村上春樹が早稲田大学に通う一時期をここで過ごし、作中に引用されている。

 その「ノルウェーの森」という題名はビートルズの割に早い時期の作品である「Norwegion Wood」からきているのは周知の事だが、この曲名の和訳についていろいろ論争されていて非常に面白い。
この曲名の和訳者は、あのバイオリニスト高島ちさ子氏の父で「ビートルズの日本での仕掛人」といわれる音楽プロデュサーの高島弘之氏だと言われている。
シタールという楽器ではないかと思うが、その音色が不思議な雰囲気を漂わせている曲である。

   https://www.youtube.com/watch?v=Y_V6y1ZCg_8
       
 さてその論争とは「Wood」を「森」とするか「木材・家具」とするかという話なのだが、多くの音楽関係者や英語研究者その他が侃々諤々と論争していて非常に興味深い。「森」はWoodsと複数形でなければならいそうだが?
村上春樹は高島弘之が命名した曲名をそのまま使っている。
いろいろ語られているところでは、当初は曲名が違っていたらしくSEX用語が入っていて、少々いかがわしい雰囲気がある。いかにも若者らしい話だ。
主人公が女の子に誘われて訪れた部屋が「ノルウェーの森のようだ」と和訳されている。しかし作詞者はこの部屋を出るときに「放火」をした事に設定していたというから、それじゃあ「木材・家具」だろうという話になる。
英語圏の人たちは、この短い言葉で確実に森か家具か判別がつくのだろうかという不思議がある。
そして論争はこれらの歌詞の背景も含んでのことのなっている。

 こんな論争に対して村上氏はどう思っておられるのか知りたいところだが、何やら語っておられるのかもしれない。
毎年ノーベル賞の時期になると、村上春樹の文学賞が取り沙汰される。今年は果たしてどうであろうか?  

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■解説・有吉家文書「年中行事抜粋」(九)年頭御入之節講尺初被仰付候節

2021-07-19 09:16:29 | 有吉家文書

■年頭御入之節講尺初被仰付候節

一、例之御役々并御使番茂罷出奉行所御入之御注進之所ニて聴衆繰付可申段一言有之例之通と申述候事
  例の御役々并て御使番も罷り出、奉行所御入の御注進の所にて聴衆繰付申す段一言有あり、例の通と申述べの事
一、館江御入之上直ニ毎講尺出席之座より南ニ寄北より五畳目ニ坐着、御襖明候処ニて平伏、講尺之所ニて頭を上手まて
  膝
脇ニ下ケ敬し罷在相済候所にて猶又平伏詰間江引取候事
  館へ御入の上、直に毎講釈出席の座より南に寄、北より五畳目に坐着、御襖明けてある処にて平伏、講釈の所にて頭を上げ手まて膝の脇に下げ
    敬し罷り在り、済んだ所にて猶又平伏、詰間へ引取る事

一、夫より御式被召出諸事前条之通にて御立後文官不残講堂江繰付学監より案内有之鏡板折廻しカマチを右ニ取北壁付よ
  り
九畳目ニ罷出不相替何方茂出方目出度と申述直ニ引取候事
  夫より御式に召し出され諸事前条の通にて、御立後文官残らず講堂へ繰付、学監より案内有り鏡板折廻し框を右に取、北壁付より九畳目に罷り
    出,、
相替らず何方も出方目出度と申し述べ直に引取る事
     但名前ハ学校御目付より差出候
     但名前は学校御目付より差出しのこと
   右之外相替儀無之候事
  右の外相替ることは無い



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■ご恵贈御礼・「舒文堂古書目録・53号」

2021-07-19 06:03:01 | 先祖附

               

 159頁に及ぶ古書のリストが掲載されている。今回で53号、半世紀以上の歴史を刻んでいる。
創業は明治10年という熊本で著名な古書籍店‐舒文堂河島書店だが、夏目漱石もラフカディオハーンも尾と訪れたことであろう。
熊本の歴史関係の古書も数多く掲載されていて、金欠病でまだ買い求めていない本や、存在を知らなかった書籍やらが多くの欲しい本が並んでいる。
もう十年以上前からご恵贈賜っているが、厚くお礼申し上げる。

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■陶芸家・辻村史郎氏

2021-07-18 09:53:17 | 徒然

 昨晩はBSプレミアムで「驚き!ニッポンの底力‐建築王国物語2」を見ようとチャンネルを回していたら、BS1スペシャルでは「作る事が生きること‐陶芸家・辻村史郎」をやっていた。
扨どちらを見ようかと悩んだが、私は後者を選択した。
細川護熙様が自らの師匠だとされるのが、この辻村史郎氏だ。
辻村氏は若いころ「死」について思い悩み19歳で禅の道に入られたという。その後美術館で見た茶器に魅せられ陶芸の道に進まれたという。
道を究めた人のなんと柔和で良い面構えか。そして人里離れた山中の自宅+作業場での自然を相手の悠々たる生活ぶりは、まさにいまも禅の道を探求されているのではないか。
ただただ作りつづける、死ぬまで作り続けたいと言われる。

 例えばヤフオクで「細川」と打ち込むと、護熙様の作品がずらりと並んで出てくる。そして高い。
そして護熙様の師匠としてこの辻村史郎氏の作品も顔を出す。これは出品者のテクニックによるもので辻村氏の意とするところではなかろう。
護熙様は氏を「轆轤の指導をうけた」と仰っているが、その師弟関係がどの程度のものかはよく知らない。

 自ら土を掘り、小さな礫や植物の根なども完全に取り出すことなく、曝し練り上げていかれる。
それが器の表面に何とも言えぬ味わいをもたらしている。荒い肌に鉄釉でさっと模様を着けられて、出来上がりを楽しみに待たれる表情が何とも楽しそうで、こちらもほっこりしてくる。

 茶道からはなれて40年ほどになるが、まだ茶器や花器などに興味が残っている。
野の草花が好きなのも、茶道をやった名残だ。辻村先生の茶器を購入して一服のお茶に親しみたいものだと本当に思うが、天下の名人のお作にはなんとも手が届かない。

                 NHKのプロフェッショナルで辻村史朗氏を観た 樹下美術館の辻村作品 ...
                        史郎氏と夫人

 

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■亀さん死して火鉢を残す

2021-07-18 07:50:16 | 歴史

          

 東京・小石川區(現文京区目白台1丁目)高田老松町にあった、細川家の玄関前である。
玄関前に町名の由来となった松が二本(鶴亀の松)が立っている。子供たちがたむろしている通りが現・目白通りであり隔世の感がある。
建物の右手に左へ入る小道が見えるが、これが幽霊坂であろうか?
細川護貞様の御著「怡園随筆 茶・花・史」によると、「鶴亀」のうちの亀の松が大正六年に枯れたとされるから、この写真はそれ以前のものであることが判る。
鶴の松は一度枯れて植え替えられた二代目だそうであり、小さい右手の松がそうであろう。
左手の亀の松が枯れた後は、火鉢に加工されている。「亀さん死して火鉢を残す」である。

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■熊本城・行幸坂のこと

2021-07-17 11:43:51 | 熊本地震

 昨日の熊本のメディアは、熊本地震で被害を受けた行幸坂の復旧に際し現れた旧南坂の跡が、メディア公開されたことを報じていた。
行幸坂を元・南坂という人や文献などを見受けるが、私は別物だと解釈している。
行幸坂は明治末期に明治天皇の行幸の際に乗り物が緩やかに登れるようにと、南坂の脇に新たに作られた坂である。
右手は空堀りになっており、かっての南坂には南門の石垣の脇には本丸側に回り込めないように塀が設けられていた。
行幸坂は南坂を若干削って南門の脇塀を壊して直進することになるが、それだけでは幅が確保されないため、一部空堀を埋めなければできなかったろうと考える。
緩やかな坂道(行幸坂)にするために、南門石垣東側の足元は覆土が削られたのではないか?(現在ではコンクリートで固められているかもしれないが・・・)

 話が遠回りしたが、今回現れた南坂であったとされる遺構は数十センチ切り取られた跡ということだろう。
TVで見る限りかなり厚めの盤築であったように思えるが、一日でも一般市民も見学出来たらよかったのに・・・
空堀側に亀裂が見られたコンクリート歩道(巾1.8m)は、遺構を残すためにずいぶん厚く大きなコンクリート板を敷きこむらしい。
使用開始は秋になるらしいが、来年の桜の時期には間に合った。
大小天守は出来上がって見学が可能になったが、肝心の行幸坂が開通すればまた人の動きも活発になる事だろう。

 

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