津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■処分しましたけど

2022-09-22 09:21:14 | オークション

                        ★永井荷風★『腕くらべ』(公刊本)、大正7年、初版、新橋堂★保存良好、保存用拵え帙入り

                                                               


 今朝ヤフオクを眺めていたら、見馴れた本が出品されていた。現在1,000円、永井荷風の大正七年初版の『腕くらべ』である。
多分昨日ゴミに出した袋に入っていたと思う。処分してしまった・・・
「東京新橋の花柳界を舞台として、芸者駒代と菊千代、実業家吉岡、役者瀬川一糸のからむ人間模様を描いている。」ウイキペディアより。

こんな風にヤフオクに出品されるのを見ると「しまった」感も感じてしまうが・・・

一方、幸田露伴の「小説・尾花集」という本も処分しようと思って仕分けしていたが、内容を再確認して・・止めた。
題と内容は大違い、実は「五重塔」だった。(もう一つ、血紅星が掲載されているが・・)

実は、山本夏彦の影響を大いに受けている私は、随分文語体の本を購入した。その残されたのがこの二冊だったのだ。
「五重塔」はもう一度読んでから処分しようと、山本夏彦の著「完本・豊後文」の隣にしばし残すことにした。

              

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■押し入れ整理

2022-09-22 06:51:59 | 先祖附

 ■応急的押入れ内ダンボール本棚に入っている資料類をとり出して、内容物を調べている。
いろんなものが顔を出し、整理どころの話ではなくなってきた。
袋のなかには数種類の資料がごったで入っていて、まるで宝箱?を開ける感じである。
古い新聞は切り抜きもせずそのまま入っているから、必要なものだけ残して後は処分するのだが、捨てる前に目を通すと記事が書かれた当時の事などが思い出されて、時間があっという間に過ぎていく。
東大史料編纂所の大日本近世史料・細川家史料には、各巻末に登場人物の索引が乗せられている。
15巻くらいまでの登場人物の名簿を作り、どの巻の何ページに記載あるか「細川家史料・人名索引」を作ってHPにUPしたが、後に史料編纂所からお叱りを受けて削除に至ったことがある。その原稿が顔を出した。
削除はしたが、個人名を打ち込むと時折その人物に行き当たりびっくりするが、データが幽霊状態で残っている。
懐かしい思い出である。
ある団体がHPを立ち上げる前に当サイトでいろいろ情報を発信したりしていたが、立派なHPが出来て当方は手を引いた。
そんな原稿が顔を出す。チョット目を通して一括処分。
「平成肥後国誌」の編著者・高田先生の晩年、手のふるえで段々文字が乱れてくる折々の手紙の文字なども懐かしい。
元の細川侯爵邸、現在の和敬塾の設計図はヤフオクで落札したものだが、これはCADで図面を再現しようと試みたが、忙しさに忙殺されて未完である。A1の大きな青焼きだが、コピー屋さんに持ち込んで製本しようと思っている。
先に書いたA0版の大正四年の番地入り熊本市の地図のコピーも、ミウラ折りにする作業が未完である。
そんな史料でデスク廻りは足の踏み場もなくなってしまった。
今日も床に座り込んで、20年ほどに及ぶ過去に対面することになる。

 

 

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■書籍終活・ごみだし二回目

2022-09-21 09:03:49 | 徒然

 紙袋四つに約100冊の本を入れて、両手にぶら下げて二往復、それに一般の紙類を小さなダンボール箱に入れて一往復、都合三往復ごみだししました。
片道100m以上ありますから、合計600mほどの重労働の散歩で、すっかり随兵寒合の涼しい朝になったというのに大汗です。
本はこれで都合で250冊ほど処分しました。あと大きなダンボールが三つほどあり、200冊ほどは入っているでしょうが、これは3回目、4回目のゴミ出しで処分の予定です。
それにしてもデスク脇の本棚は相変わらずの満杯状態で、本が減ったという感じが全くしません。
押し入れが少々すっきりした感はありますが・・・
問題は紙資料で、これを何とかしないといけませんが、まずは「有禄士族基本帳」の原本のコピーを処分するべく棚の上から降ろしました。コピーが5~600枚ほどは有るでしょうか。
熊本県立図書館でコピー代が一枚20円時代のころのものですから、10,000円以上の経費と労力を掛けた物ですから、処分を躊躇していたのですが今となっては処分対象第一号です。

まだまだ後に続きます・・・・・・

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■御侍帳・家紋から考える(43)

2022-09-21 06:44:42 | 家紋

              
                  新・肥後細川藩侍帳【ま】の部

■松浦吉左衛門は、(南東37-18)松浦治右衛門家の7代目・左太郎(吉左衛門)。家紋は「離れ鬼蔦紋」「   」
■松浦季大夫は、同上分家(南東37-17)松浦新吉郎家の5代目・源八(李大夫・十郎右衛門)。家紋は同上

■松尾亀次は、「細川家家臣略系譜」に記載がなく不明。
■松尾又左衛門は、     同上

■的場甚右衛門は、(南東38-13)【青龍寺以来】的場 登家。代々甚右衛門を名乗り人物の特定できず。家紋は「三つ石」  

■的場角兵衛は、的場三家の嫡家、(南東38-17)【青龍寺以来】的場寿平家の6代目・八大夫(角兵衛)である。家紋は「丸に■■」  

■的場喜太郎は、(南東38-16)【青龍寺以来】的場範十郎家の6代目。文化十年一月(目付)~文化十二年七月 用人、
        文化十二年七月~文政四年八月 奉行
   的場喜太郎 名は安実、斎藤芝山に学ぶ。藩に仕へ奉行職となれり。
 

■町 孫平太は、吉良左京進(長曽我部元親ノ弟吉良親貞ノ子・親実)を祖とする、(南東11-5)町(長曽我部)市郎家の6代目。家紋は「陰隅切り平角に片喰紋」これは宗家の「七つ片喰紋」に由来している。
                安永六年七月~天明五年七月 奉行副役
                天明五年七月~寛政二年九月 奉行(被差除)

                寛政十年七月(大組付)~寛政十一年三月 中小姓頭
                寛政十一年五月~文化十一年七月(隠居)奉行

         町遊川 名は貞英、孫平太と称し、致仕して遊川と称す。藩に仕へ食禄四百石、
              使番、御目付、中小姓頭、奉行職等となる。事を執る甚敏にして渋滞なし。
              文政八年三月二十一日没す。享年八十三。墓は北岡安国寺。
        
 弟・村山次郎九郎、従兄弟・大里角次と共に各々奉行となり宝暦の改革に尽力す。  

■槙嶋太次郎は、足利将軍家執権職で宇治槙嶋城主の孫六・重利(玄蕃頭昭光・云庵雲庵)を初代とする 
        (南東38-3)槙嶋真徴家の7代目太次郎、千石。
                
享和二年三月(三拾挺頭)~享和二年十一月 鉄炮五十挺頭
                享和二年十一月~文化十一年六月 用人
 
                           家紋は「丸に三文字紋」「蔓付細柏紋」 

■益田弥一右衛門は、(南東38-2)益田弥一家。代々弥一右衛門を名乗るが、8代目・嗣太(弥一右衛門)と思われる。  
        御番頭御小姓頭御留守居御番頭・中着座御免之席 大頭席 千百五十石
                
文政八年二月(後拾挺副頭)~文政十二年二月 鉄炮語拾挺頭
                文政十三年二月~天保三年十二月 留守居番頭
                天保三年十二月~天保六年六月 番頭
 
        2代目弥一右衛門が天草島原の乱で実質の本丸一番乗りを遂げた。
        家紋は「右一つ丁子巴紋」「子持ち菱に中子菱紋」 

■益田八郎は、(南東37-12)益田才右衛門家の5代目。家紋は「隅切り平角に橘紋」  
■益田貞右衛門は、(南東37-13)益田熊助家の6代目か。(7代目も後、貞右衛門を名乗っている)家紋は同上  

■益田団七は、(南東37-14)益田寛吾家の5代目。家紋は「丸に■■」  

■増田勘十郎は、(南東37-15)増田貞右衛門家の7代目。家紋は「   」  

■増田角助は、【丹後以来】(南東37-16)増田十之助家の 9代・角右衛門(角助)か。文化七年から文政十年にかけて
      阿蘇南郷・山本・野津原・下益城・飽田託麻郡代を勤めた。家紋は「入れ子菱紋」
 

■牧 左学は、【青龍寺以来】(南東38-6)牧 新五家の6代目、佐学・顕相、相久(左太郎)1,000石、 
      牧家の嫡家である。
                正保三年八月~     熊本町奉行、寺社奉行兼
                享保八年十月~元文三年二月 番頭

                元文三年二月~宝暦四年二月(病死)鶴崎番頭 
      家紋は忠興拝領の「銀の中くり」、後将軍秀忠の所望により秀忠の円居となった。         
   

■牧 藤左衛門は、同上一族【青龍寺以来】(南東37-5)牧 藤衛家の5代目・辰之允(藤左衛門)。家紋は「銀の中くり」「扇紋」  

■牧 太直は、同上一族【青龍寺以来】(南東38-7)牧 新二家の7代目。家紋は「丸に沢潟紋」である。 

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■BBC放送を観る

2022-09-20 09:04:00 | 徒然

 エリザベス女王の国葬、最初NHKニュースで眺めていたが、とぎれとぎれになるのでインターネットでBBC放送の画面で一部始終を放送時間(9:00終了)いっぱいを観る。
イギリスの伝統に裏打ちされたこれぞ「国葬」、安倍さんの国葬はまずい時期にかさなってしまい、どうしても比較されることになるだろう。
聖歌がながれる荘厳なゴシック建築のウエストミンスター寺院の見事な空間、またその後の砲車に乗せられた棺を守る葬列の壮大な列と音楽、附き随う緩やかな歩みの長い列、イギリス連邦各地から参列した人々の華やかな衣装、木々の緑ゆたかなバッキンガム宮殿からウィリントンアーチまで砲車の跡に歩んで続く新国王と家族たち、伝統と格式に裏打ちされた見事なものだった。
その後映像は途切れたが、霊柩車に乗せられウインザー城に運ばれ教会の墓地に夫君に並んで埋葬されたという。

天皇をはじめとする各国の国王や大統領などが映し出されることも一切ない。たんたんと荘厳な儀式の模様が放送される。
そして、これを見送る幾重にも重なる沿道の人々の数、愛されたエリザベス女王を見送った。


 私たちはかって昭和天皇の大喪の礼を拝見しているが、いかにも日本の国らしい素朴なたたずまいや、長い歴史を伺わせる荘厳な儀式であったことを思い出している。
形こそ違え、国民がこぞって弔意をひょうした。

 今回のエリザベス女王の葬儀は、国葬とはどういう物なのかを知らしめた。
国民の絶大な賛同が得られぬ安倍氏の国葬は、大いなる禍根を残すかもしれない。
せめて国会の決議を経るという手続きは必要ではなかったのか。手遅れとなった今、後味悪くその日を迎えようとしている。

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■熊本城自焼説と西南役

2022-09-20 07:27:14 | 歴史

 宮本武蔵の二天一流は明治にいたると、青木規矩男なる人が宗家となった。

 歴史とか人生とか、天は面白い巡り合わせを演出する。青木はある時、飽田で少学校の教師をしている姉を訪ねて、用務員室でしばらく待った。
するとそこの用務員(元軍曹・村上猪源太)が声を掛けてきて、規矩男が「島崎の出身」だと話すと、西南の役の時は「段山の戦い」が激しくて島崎も激戦地だったと語り出した。
そして、熊本城の火事について語りだし、「あれは司令官の谷干城の指示を受けて、自分が火をつけた」と語ったという。
軍曹として司令官・谷干城に近侍していたのだろうか。50年は人に話さないでほしいと、村上猪源太は申し添えたという。
この話は具体的で、今日では熊本城自焼説の大きな拠り所となっている。
しかし、司馬遼太郎などはこれに異を唱えている。それは籠城の為の兵糧を全部失ったことを理由としている。
熊本城の籠城は2ヶ月に及んだ。突囲隊の必死の攻撃はまさに食料の確保でもあった。

 熊本城では本丸御殿建設に当たっては、事前の調査が行われ、青木が用務員から聞いた通りの場所が火元であることが確認されたという。
兵糧を失しなう危険を承知で放火を為し、谷司令官は熊本城自焼説を秘匿しようとしたのか?永遠の謎である。

 熊本史談会では来年1月の例会で、各地の西南戦争遺蹟調査に当たられた中原幹彦氏をお招きして「西南戦争の考古学&よもやま話」をお聞きする。
広範な地域で西南戦争に関する話は残っているが、これとても145年という年月を経ると忘れ去られるばかりである。
私は今、石牟礼道子の「西南の役伝説」を読んでいる。これは、戦争そのものの話ではない。
痛めつけられた庶民の当時の噂や風説を通して、子々孫々伝えて行こうという彼らの思いを代弁する。
「想うてさえおれば、孫子の代へ代へときっとなる」と・・・


                                   中村幹彦著 西南戦争のリアル 田原坂 (シリーズ「遺跡を学ぶ」153)

                                   西牟礼道子著 西南役伝説

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■台風通過中

2022-09-19 07:40:38 | 徒然

 昨晩は10時半にはベッドに入りすっかり熟睡してしまいました。
風が吹いているのは何となく判っていましたが、大雨が降るでもなく、3時頃には台風の目に入ったのかしばらく風もやんだのでまた寝入り、5時頃又風が強くなったように思います。
勢力も940HPaくらいまで弱まってきたようですが、今は台風の中心部は佐賀から福岡へ向かい、風の向きが完全に変わり西南方向からに替りました。
風の唸りはなくなりましたが、まだ遠くに見える自衛隊の松の木(高さ20mくらい)数本が、右に左に煽られています。
台風が熊本の真上を通ったことがかえって幸いしたようです。九州山脈の壁に当たって宮崎・大分の方が風雨共にひどく、被害が出ないように祈るばかりです。
あと数時間はまだ用心が必要ですが、どうやら31年前の二の舞は免れたようです。

 この台風が通り過ぎると、熊本は「随兵寒合」の朝夕の涼しさが感じられる本格的秋へと突入です。
もっとも肝心の「藤崎宮秋の例大祭」の神幸行列や馬追い等は取りやめとなり、10月に延期となったようです。
秋の熊本観光に一つ行事が加わったようなものです。「どうぞお出でまっせ。お待ちしとります」

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■家紋付きポシェット???

2022-09-19 07:21:06 | オークション

       弾嚢 未使用品 熊本.細川藩.松井家 当時物 完品 火縄銃 エンフイールド銃            

                 

 パット見、松井家家紋入りのポシェットかと思いましたが、すぐ「胴乱」だと気づきました。
実の用がもたらしたデザインでしょうが、見事なものです。未使用品とありますが勇気ある方はポシェットに如何がでしょうか?
ちなみに未だ松井家のこの家紋の正式な名称を知り得ません。「竹輪に九枚笹紋」で良いのでしょうか。

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■只今925HPa

2022-09-18 07:31:08 | 徒然

 今日の朝も昨日とほとんど違いはありません。嵐の前の静けさという感じで、どこの御宅も静かで「待ち受けている」という感じです。
アメリカの気象庁(?)は、14号台風を大型ハリケーンと読んでいるようですが、昨晩は910HPaといってたものが925HPaまで勢力を弱めてきましたが、さらに弱まってほしいと思います。
どうしても31年前の大被害をもたらした台風のことが頭をかすめます。
お昼頃から雨風がつよまり、今晩から明朝にかけてまんじりともせずに過ごさなければなりません。
80年も生きると台風、大地震、大水害と戦争まで体験しましたが、どれもこれも勘弁してほしいものです。
皆様もどうぞ十分に備えをなさって、ご無事であられんことをお祈りいたします。

    09:45 風がうなり始めました。  
    10:30 雨が降り出しました.。(まだ大した降りではありません)
    12:45 930HPa
    14:30 暴風域に入った感じ・・(     同上     )
    17:00 雨も風も小康状態、少々空に明るさがあります。
    20:00 鹿児島上陸、少々風雨が強くなりました。風が回り込む北風です。中心気圧は935HPa
    21:00 風が強くうなり始めました。熊本市内通過は明日3時、あと6時間ほどです。少々本格的になってきました。
    22:30 就寝

   


    

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■台風節近中、31年前を想う

2022-09-17 06:31:19 | 熊本

 

台風経路図

 この図は平成3年(1991)9月27日に九州に甚大な被害をもたらした台風19号の進路図である。
今回の台風14号の進路によく似ていて、なんとも嫌な予感がしている。
31年になるなと感慨深いが、その日は建築行政に係わる会議が市役所であり出席していたが、午後3時過ぎに中途閉会、帰宅を促された。
その時期でも相当な風で、熊本城の木々が大揺れに揺れていたことを思い出す。
熊本では各地で電柱が倒れ、1週間ほど電気が止まった。TVが消え、夜は仏壇のロウソクを頼りに過ごした。
我が家は電気以外は何事もなく、屋根の上に太陽熱温水器を上げていたので、お湯を得ることが出来風呂の心配だけはなかった。
今みたいにコンビニがあちこちにあるという時代ではなかったから、御飯も焚けずどんな食事を採っていたのだろうと思うが、31年の月日が経過するとすべて忘却の彼方である。

 そんなことを経験しているから、ただただ何事もなく通り過ぎてほしいと願っているのだが、強風域が広いからこの時期もう風が吹き始めていて、風鈴がけたたましくなっている。
今日は熊本史談会の9月例会、お昼には終わるので皆さん帰宅の時間もそう危険な状態ではなさそう。
帰ったらベランダの観葉植物が被害に遭わないようにしなければならないが、又いらぬ仕事が増えた。

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■司馬遼太郎が間違ったと思われる一節

2022-09-16 11:24:11 | 書籍・読書

 先にも書いたが、終活の為に本を処分しているが、ふと目に留まった本の頁をめくると、すっかり手が留まり時間を費やしてしまう。
現在「翔ぶが如く」の第六巻に釘付けになっている。
その中に、明らかに司馬氏が人物を取り違えているとされる一文がある。
池部吉十郎等が組織した「熊本隊」に関するものである。

  学校党は、幕末における公武合体派(佐幕派)だったとはいえ、薩摩の島津久光のような狂信的な保守主義ではなかった。
  かれらの出身は石取り階級が多く、また旧細川藩における官僚層の出身もしくはその子弟が圧倒的で、要するに薩長両藩に
  壟断されている東京政権については、肚をうちわれば、「天下をニ、三の旧雄藩に専有していいのか」という、維新に乗り
  おくれた細川武士の雄藩人としての素朴な自負心と憤りからその反政府熱は出ているといっていいであろう。
   かれらは、池部吉十郎に統御されていた。池部は肥後の西郷という異名さえあったほどに人望のある男で、かつては二
  石の身分であり、幕末では細川家を代表して京都にあり、公用人として奔走し、幕末における薩長の倒幕活動を陰に陽に索
  制した。が、薩長が成功して新政府ができた。池部としては、満腔の不満があって当然であろう。

この文章の着色した部分は、池部吉十郎ではなく上田久兵衛だとされる。「肥後の西郷」とは久兵衛が西郷と比べても引けを取らぬ大兵の体つきであったし、後半部分は久兵衛の京都留守居役時代の事を指しており明らかな間違いであることを、上田久兵衛の研究をされていた鈴木喬先生や、川尻の郷土史家・西輝喜先生(小説「柳絮の舞)からお聞きした。
先にも記した通り、司馬氏には資料収集の係が居られたというが、この「翔ぶが如く」の大作に於いては、このような間違いも生ずることであろう。

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■西郷隆盛、京町へ現る

2022-09-16 07:52:57 | 書籍・読書

 押し入れの本を整理する中で、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(文芸春秋社)が七冊そろって顔を出した。
一冊目からパラパラを頁をめくってみるが、本を処分するときはこんなことはせずに一気呵成にしなければ元の木阿弥になる。
丁度いま、私は西南の役について調べている処で、司馬がこの熊本を西郷軍が散々に踏みつぶした不毛な戦いをどう書き表しているかを知りたくなった。
全部を読む気力はないから、第六巻の西郷軍の薩摩出発から読み始めようと思い、まずは拾い読みを始めた。

西郷は陸路加久藤越えをして人吉に入り、球磨川下りをして八代へ、それから川尻に着くとここに本營を構えた。
その後、城下の北岡神社に本營を移し、その後二本木に移ったとされるが、この程度の事は承知していた。
司馬氏には、資料を収集する係がいたと聞いたことがあるが、熊本に於ける地名など小字で表記するなど徹底している。
何か齟齬はないかと目を皿にしているが現在の処見受けられない。

 熊本史談会では、西郷が植木あたりの温泉に入ったのではないかという事で議論がある。明日の史談会ではそんな報告もあろうかと楽しみである。
西郷は京町口の前線に突然姿を現したということを、司馬氏は鹿児島県立図書館が所蔵する「実歴譚」という、河野圭一郎という人が書き残した史料をもとに書いている。

 「私の隊が居た所は、出町の加藤清正の墓地のある所なり」と言い、略図も添えてある。

その略図はこの本では紹介されていないが、墓地ではなく荼毘に付した場所の事であろう。
この場所は静慶庵と名付けられ、現在は九州森林管理局内にその碑がのこる。
3月3日の夜、その河野の赤尾口の陣に突然西郷が現れたというのである。

 「田原は、苦戦ち、聞き申した。破れはし申さんか」
 田原(田原坂)が苦戦と聞いたが、破れはしないだろうか、ということである。

 かれはさらに「行って、様子を見て来もそか」(中略)とさえいった。

河野は驚き、斥候を出しておりそろそろ戻るころだと押しとどめ、丁度牛鍋を作っていたものを進めたという。
その内に斥候が戻り「田原は大丈夫」との報告を得、

 西郷は説明ももとめず、感想もいわず、それはよかったと言い残して去った。

その赤尾口に屋敷があった吉田如雪は「西南の役見聞記」という貴重な記録を書き残している。
吉田の家は新宅が近くにあり、そちらにいたのであろう、当然のことながら全く気付いていない。
 三月三日の記録には「熊本城攻守共休戦の如し、砲声殆んど絶するに似たり。」とあるのみである。

北岡の本營からこの赤尾口までどこを通ってきたのだろうか。いずれにしても西郷が隠密に赤尾口まで来たというのは本当らしい。

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■明治十年の熊本県廳

2022-09-15 07:38:43 | 人物

 現在の熊本第一高校は、熊本の歴史上大変興味深い場所である。
中世から近世初頭に於いては隈本城があった。鹿子木→城→佐々→加藤清正という武将たちが、此の丘陵地に居を構え激しく変貌する時代の流れに身を置いた。
細川家の時代になると、この一角は重臣たちの居住区となる。一本の道が城内に連絡していた。
明治期になると新時代の夜明けを思わせる、ジェンズやマンスフェルトなどの居館がたち、西洋式の学問に多くを学んだ人々が巣立っていった。
一方では「神風連の乱」が起り、薩摩の不平士族の東上により「西南の役」が勃発し、熊本はお城や城下は焼け落ち、各地が戦乱の地とかした。
川尻の地に軍を進めた西郷軍は本營を定める。町の平安の爲、前の川尻奉行を勤めた上田久兵衛は、町民の乞うところにより鎮撫隊を結成して、西郷軍との折衝や町の安寧の為に奔走した。
しかしながら、西郷軍が敗走するに及んで政府軍に捕縛された。「西郷に味方した」というのである。
そして、九月三十日の夜、高祖父上田久兵衛は、家族にも報せられることもなく明治新政府によって刎首させられた。
熊本県廳で刎首させられたというが、この時期県廳は現在の第一高校内に在ったとされるが、その詳しい場所もようとして知れない。花を手向ける場所がない。
罪状として、「朝憲ヲ憚カラス、名ヲ鎮撫ニ假り、兵器ヲ弄シ衆ヲ聚メ其長トナリ、西郷隆盛・池邊吉十郎等ノ逆意ヲ佐ケ」とあるが、安易に政敵を屠るという暴挙である。
後に名誉は回復され護国神社に祀られた。空々しい話である。
上田久兵衛を研究頂いていた鈴木喬先生は、「彼の業績と人望、それに今回も発揮された彼の威信と信望とが、当路者にとって、生かしておいては将来の禍根となるとの感を抱かせたためであろう。」と仰っていただいている。
かって河尻の町を尋ねて奉行所跡や鎮撫隊の本營地(河尻小学校)などを見て廻ったが、ただただ無念の涙を禁じ得なかった。
牢獄の中筆も料紙もない中で、元結をほどき、箸の漆をかみ砕き、楊枝で歌を書き残した。


              

 その一つに「秋風ノタヨリニキケバ古サトノ 萩ガ花妻今サカリナリ」がある。
今頃、その妻が夫の帰りを待った城山半田の川塘は、萩の花が咲き始めたことであろう。
私が勝手に名付けた高祖父の命日「萩花忌」が近くなってきたが、最近街中では萩の花を見かけなくなった。
一本だけでも仏壇に飾りたいと思うが、この時期なかなかままにならない。

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■本の処分、本日150冊・・

2022-09-14 10:59:22 | 徒然

 今日のごみの収集は「紙」の日(毎週水曜日)、昨晩迄まとめた本約150冊を処分した。
最初の二つは箱に入れてキャリーで運び、二回目は紙袋に入れてたものを下げて持っていった。
二回目分は予定外だったのだが、一週間またまつのは厭だなと思い、急遽隙間に入るだけ押し込んだ。
これが重い。収集所まで約100m、左肩が痛いから右手に下げて出たが、下げひもが手に食い込んで痛い事・・・
それでもまだ小山があって100冊ばかりあり、押し入れからまだ出ていないものが100冊はありそう、都合350冊くらいになりそうである。
今日は暑そうなので散歩は取りやめ、一日本の整理に励みましょう。
運び出すときに奥方が「淋しいね」と声を掛けてきたが、しんみりになるより終活が進むことの方がうれしい気がする。


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■宝永四年山崎町の火事-焼けだし

2022-09-14 06:43:42 | 歴史

 宝永四(1704)亥年三月五日夜八ッ時分より熊本山崎喰違丁角
 住江専右衛門屋敷長屋出火右屋敷其節原田彦右衛門借宅

                     
   上の地図の縦方向に伸びる赤線が「山崎喰違丁」、上から四本目の横に伸びる道が「喰違丁」船場橋に伸びる現在の市電「上熊本線」の道路です。
花畑邸の目と鼻の先ですから、大いにごった返した事でしょう。現在の  SAKURA MACHI Kumamoto
  あたりです。

     二百石・原田彦右衛門   三百石大本・住江専右衛門  三百石・狩野太郎八   弐百石・成瀬次郎右衛門
   百五十石・内藤丈右衛門  三百石・佐方伊左衛門    五百石・横井佐左衛門  弐百石・財津何右衛門
   弐百石・春木七郎右衛門  三百石・浅山七九郎     三百石・吉山市右衛門  弐百石・戸沢市助
   弐百石・的場勘七     五百石・新篠勘右衛門    百石・江村家国     百五十石・長谷川新右衛門
   三百石・伊藤又右衛門   二百石・西沢太郎右衛門   千五百石・弓削喜七郎  三百石・堀内源之允
   三百石・魚住丹之允    ■■■・堀半蔵         百五十石・山下九兵衛  百五十石・竹内早之允  
   二百石・上村久右衛門   百六十石余・■坂伊左衛門   百石・荒川十兵衛    五百石・津田半兵衛
   三百石・佐藤半七     五百石・冨田小左衛門     御中小姓・大塚五兵衛  三百石・倉間春右衛門
     二百石・原田惣右衛門   求馬殿下屋敷          二百五十石・菅野甚斎  四百石・不破長次郎
   四百石・荒木助十郎    二百石・曽根八右衛門     百五十石・三浦半三郎  此人地有・津田何次衛門
   百五十石・管野左大夫   百石・二宮新右衛門      若狭守殿家来井上新之允ニ借置候・宮川国四郎
   四百石・境野又右衛門   二百石・神足浅右衛門     三百石・大塩助左衛門  二百石・谷市右衛門
   二百石・道家平兵衛    三百石・梶原源助       三百石・木野庄左衛門  五百石・伊藤一年
   三百石・磯谷半七     三百石・鵜川春兵衛      百五十石・田辺一年   二百五十石・中山九郎左衛門 
   三百石・久■権左衛門   五百石・田中又五郎      七百石・井上新之允   百五十石・高原国四郎
   二百石・大場藤左衛門   二百石・小林次兵衛      二百石・中山源兵衛   七十五石・大槻求右衛門
   三百石・堀四郎右衛門   二百石・池里次郎介      三百石・西本又兵衛   百五十石・岩男助之丞
   七百石・三宅平八郎    二百五十石・■■角右衛門    三百石・天野仁左衛門  千三百石・宮川倉右衛門
   三百石・宮川五郎左衛門  千三百石・斎藤又三郎     口ニ有・原口彦右衛門  五十石・児玉才右衛門
   三百七十石・原口五郎大夫 

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 宝永四年と五年、熊本は大火に見舞われている。共に三月である。
宝永四年は三月五日、藩主の居館・花畑邸の目の前山崎町の住江専右衛門宅の長屋から出火、侍屋敷78軒、古町町1036軒、本山村百姓20軒、寺社18寺が消失した。
翌五年は三月十日、坪井竹屋町から出火1200余軒が消失、多くの死傷者が出た。
これをうけて火除け地として広丁・草場丁が出来、又白川小堰から取水して水道町まで水道が設けられた。声取坂付近で白川に落としたという。
又、享保十四年四月廿八日の 享保十四年・藪の内火事では、この時期どこに住んでいたのかよくわからないが我が家も終えた。
2580軒の家が焼失、多くの寺院も燃え我が家の菩提寺も焼失している。

    ■享保の火事(1)
    ■享保の火事(2)
    ■享保の火事(3‐了)

    
                         
    

           
   

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