ヤクルトの村上宗隆選手、ついに王貞治さんのHR55本の記録に並びました。60本も夢ではなく、それで三冠王ともなればこんな記録はもう破られることはないでしょう。
大谷選手に負けじとアメリカに渡るのでしょうか?熊本が生んだスーパースター誕生、奥方がTVを見ながら手を叩いています。
つゆ草の一叢小降りありし如 津々
この時期散歩に出ると、シジミ貝を二廻りも三廻りも小さくしたような形のつぶらな水色の花が可憐に咲いている。
数本が鈍角に幾つも茎をのばして一叢を作っている。そしてそのそれぞれの花が露を湛えているから、小雨でも降ったのかと錯覚させる。
ここ数日疲れ果てて朝散歩をさぼっていたので、小さな発見であった。
昨年見かけた萩の花は見つからない。「萩の花忌」と私が名付けた高祖父・上田久兵衛の命日が近くなってきたが、もうこの界隈で萩の花を手に入れることは難しくなってきた。
熊本はもうそろそろ、「随兵寒合」の季節となり朝夕はめっきりと涼しくなっていく。
押し入れから本を取り出すとどうなるか。120冊ばかりを引っ張り出したが、当然のことながら又本の山が出来る。
■応急的押入れ内ダンボール本棚が、最上段部分は空になり、ほかの処も随分空きが見え始めた。
予期していたことだが、パラパラ頁をめくっていると、ついつい読み始めたりしてしまって、ちょっと除けてしまってそんな本が小さな山を為し始めた。
松本清張やフレディックフォーサイスなどの文庫本など、あといっぺん読んでから捨てようとか思ったりするからである。
山岡荘八の「徳川家康」や、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」等の初版本などは、50年ほど前に買ったものだから紙質も悪く汚くってしょうがない。
これを「第一回捨てる分」として、その他文庫本を50冊ばかり選別して明日処分することにした。
買ったばかりで真っ新な本もある。お気に召さなかったに違いない。今一度パラパラ眺めてやはり処分候補へ・・・
■四冊はさすがに?はさすがに二冊になっていたが、他にも二冊持っている者などはこの際処分・・・
もっぱら押し入れの本が主になっているから、それ以外の本棚は一向に減らない。
足元に積み上げていたものがやや減ってきた位だ。最終的には本棚からはみ出さない程度まで処分しようと思っている。
今日も新たにできた本の山の選別に時間を費やすことになりそうだ。
本を処分するために押し入れをかたずけているが、A0サイズ(841×1189㎜)の用紙をまるめたものが出てきた。
出てきたのは大正4年の熊本市内の地図である。それもコピー物である。
そんな地図の存在は覚えているが、その元図は何であったのかが思い出せない。
私は何でもかんでも、コピー屋さんに持ち込んで拡大コピーをしているからその一つに過ぎないのだが、A0はでかい。
折りたたもうと思ったところで、一発で開くたたみ方があったなと思ったが名前が判らない。
いろいろワードを入れて検索している最中に「ミウラ折り」だったと思いだした。
サイトで折り方をチェックしてみた。
こんな具合だが、精密さが要求されるようだ。それとあまりに小さく成りすぎるので短辺を3ツ折り位にできないものかと考え始めた。今晩一晩考えてチャレンジしようと思っている。
細川綱利の正室は、松平讃岐守頼重の養女であるが、その実は頼重及び水戸光圀の実の妹である。
そしてこの書状のあて名の松平播磨守とは徳川頼房の五男・頼隆。松平頼重・水戸光圀の弟である。つまり綱利室「菊姫」の弟に当たる。
又、書状の冒頭部分にある「壽光院」とは播磨守の生母である。
時間をかけて内容を詳しく読んでみたい。
こういう文書がヤフオクに出て、水戸家に係わることに就いてのぞき見できる楽しさをもたらしてくれることに感謝・・・
「第7回全国藩校サミット熊本大会」が2008年(平成20年) 6月21、22の両日、熊本市の市民会館で開催された。
もう14年前の話だが、熊本史談会の歴史と並行している。
今回講師を勤められる中川氏は、この藩校サミットを機会に熊本史談会会員となられた。古参会員である。
現在は「青少年の生活指導委員」としてご活躍だが、叙勲をうけられている。
熊本大会に於いては、当時会員であった方が運営されていた保育園の幼児が、「論語」を声高らかに暗唱するというパフォーマンスに、驚きと共に感動もし、思わず涙した事を思い出す。
この幼子の、かわいらしくも感動の「論語」暗唱は少なからず氏の心にも残り、青少年教育の有りようの指針を求められたように思う。
あの幼子たちは、そろそろ成人を迎えるお年頃だろうか。
果たして「論語」の暗唱が役に立っているかどうかは判らないが、立派な学生・社会人になっておられるに違いない。
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記
期日:令和4年9月17日(土)午前10時~11時45分
場所:熊本市民会館 第6会議室
演題:『藩校サミットと青少年教育』
講師:熊本史談会監査役員、現青少年の生活指導委員
中川敏孝氏
一般参加自由:
参加費 500円を(資料代を含む)申し受けます。
資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話( 090‐9494‐3190 眞藤)
尚、開会前に当会例会を催しますため、入場は9:50頃からと致します。
又、当日はコロナ対策の爲、マスクの着用とご記名をお願いいたします。
ビールを飲んでいるうちに「中秋の名月だ」と思いつき、ベランダに出てみると今の時刻東の空に見えてきましたので、あわててデジカメでとった証拠写真です。
そろそろ寝ようかと思いますが、まだクーラーが必要です。真夜中に目が覚めたら切る事にしましょう。
奥方に内緒にしていた本が届いた。すっかりばれてしまい奥方曰く「一冊買ったら二冊処分」と言われてしまった。
以前娘からも言われ本気を出して、ダンボールに本を入れる作業を始めた。断捨離及び終活である。
処が早々に頓挫してしまった。ダンボールの絶対数が全然不足している。
まずは100冊ほどを押し入れや本棚から取り出して積み上げた。
段ボールの準備が出来て本を入れたらそれをどこに置くか。どう処分するのか?そこまで未だ頭が回っていない。
だらだらやっていると、又未練が出て本を取り出して読みかねない。
500冊ほど処分しようと思っているが、買取の店で1冊10円で売れたとしても5,000円だから、TAXIを頼んで運んでも赤字間違いない。故に古い本はごみで処分してしまおうかとも思う。
一週に50冊ほどを一箱にして処分して10週間、二月半で処分できる。一階まで下ろしてキャリーでゴミ捨て場迄約100m、なんだかこれで落ち着きそう・・・
500冊、購入時はどんなに安く見積もっても1,000円以上はしているから、500,000円分だから、何とも複雑な話ではある。
残る本は思い入れのある本と、細川家関係・歴史関係の本、恵贈を受けた本、郷土本、図録等々である。
建築関係の雑誌は1,500冊ほど建築事務所をたたんだとき処分したし、熊本大地震の後も2・300冊くらいは処分した。
少しはデスク廻りがすっきりするだろうと思うが、資料の山は又別物で、諸家先祖附などもそろそろ処分しようと思っている。
いろんなことを「知りたい」という意欲はまだまだあって、今後はPCをもって図書館で過ごすことにしようと思っている。
古文書超有名戦国武将の書状●天文15年 誓詞之意趣者 武田晴信(信玄) 春日源助宛武田晴信誓詞 男色の疑い
これは大変有名な武田晴信(信玄)の男色(同性愛)を示す有名な文書、本物がヤフオクに登場するとはびっくりである。
480,000円との設定もオーバーして落札されること間違いなし。なんでも鑑定団に出したら100万円に行くのではないか?
宛名の春日源助とあるのは、甲斐武田氏家臣で譜代家老衆として知られる、あの高坂 昌信(春日虎綱)である。
この文章を読むと晴信の一途さが見えて微笑ましくもあるが、少々引けてしまう。
誓詞之意趣者
一 弥七郎ニ頻ニ度々申候へ共虫気之由申候間無
了簡候全我偽ニなく候事
一 弥七郎ときニ袮させ申候事無之候此前ニも無
其儀候況昼夜共弥七郎と彼義なく候
就中今夜不寄存候之事
一 別而ちいん申度まゝ色々走廻候へハ還而
御うたかい迷惑ニ候
此条々いつわり候者当国一二三大明
神冨士白山殊ハ八幡大菩薩諏方上
下大明神可蒙罰者也仍如件
内々法印ニ而可申候へ共
甲待人多候間
白紙ニ而明日重而
なり共可申候 七月五日 晴信(花押)
春日源助との
態々、この文書を解説するサイトさえある。(同上文書の現代語訳もあるのでご参照の程を・・・)
【手紙】武田信玄の男色(同性愛)を示す証拠の手紙と知られざる内容と詳細
追記:東大史料編纂所に同様の書状が所蔵されている。
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/000/_000ki_14/6/10000010?m=all&n=kno&fbclid=IwAR0wZXQUf-HO-PcpwtYyYoCTNdKuJS5MS6vop_gIoUhZT6OCYuYYYBkf0ow
熊本史談会の今後のスケジュールの中では、会員の中に「西南の役」に御熱心な方がおられることもあって、「西南の役」が何度か取り上げられるようだ。
先に、警視隊の大警部・神足勘十郎が壮絶を極めた「段山の戦」で戦死したことに触れたが、その中で本妙寺が消失したことを知り、是が鎮台兵の放火であったことを知った。
ならば、錦山神社(加藤神社)はどうであったのか。もともとは熊本城内・平左衛門丸に鎮座していたが、熊本鎮台が城内に入るに及んで、旧氏家家屋敷に遷宮を余儀なくされた。
加糖神社のHPに「錦山神祠改建紀」があるが、これを読むと「明治八年、当時の権令 安岡良亮氏が、江戸末期の儒学者 安井衡氏に頼り内容を漢碑として大成させ・・・」とある。
また、「知事細川護久公が言われるには、神仏混淆は(明治)政府の意思ではないと。祠を城の中(熊本城)に移した。数十家の商人が移住した。
お参りする人は、昼夜となく集まった。この年の冬に鎮台が熊本城におかれた。陸軍省が論議していうには、軍容は厳粛であることを尊重する。
今、兵家と商人が入り交じっているのは、国威を損なうことになる。すなわち命令して商人を城外に出した。」ともある。
ならば、商人だけを出せばよかろうにという論法も成り立つが、軍は遷宮を強行した。
熊本城の燃亡については、今日では谷干城の指示により自燃説が云われているが、谷は「清正公に申し訳ない」と放火を指示した人物に語っている。
果たして「錦山神社の燃亡」の原因は何だったのだろう。手元のわずかな史料では見出せないし、WEB検索でもようとして知れない。
私は、本妙寺同様、鎮台の指示によるものではないかと思っているが、御存知の方がおられればその典拠ともどもご教示いただきたい。
熊本藩 江上家 文書」検)細川藩 手永 山本郡・正院村 玉名郡・向津留村 惣庄屋 岡藩・俄一揆 江戸 幕末 明治 書簡 書状 資料
熊本県 士族 古閑家 文書」検)細川藩 佐々干城 清国 厦門 熊岳城 香港 台南民政厰 安達謙蔵?日清日露 主に明治 資料 史料
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いつも思いますが、こういったある程度まとまったお宅の資料は、出身地などしかるべき機関が落札されて研究資料などにされることを望むのですが、行政に於いては緊急の支出行為では対応しきれないのでしょう。
好事家の手に落ち、研究などされることを望みます。
私も喉から手が出るほど欲しいのですが、断捨離・終活を始めた身としては只指をくわえるのみです。
押し入れの奥から、柴田錬三郎の「秘剣揚羽蝶-源氏九郎颯爽記」がでてきた。
60年以上前だと思うが、中村錦之助が主役で映画化されたが、いかにも東映の時代劇といった映画が全盛の頃のものである。
着流しの着物に「揚羽蝶」の紋があった。きれいなデザインだと思った処を見るとこの映画を見たのだろう。
細川家家臣諸家の家紋を眺めていると、この紋を使って居られる家がいくつかある事に気付く。
本来は平家の家紋だとか言うが、この小説の主人公「源氏九郎」の如く、清和源氏・宇田源氏の諸士もつかっているというから、その出自に共通するものは見つからないのかもしれない。
安富氏
土山氏 土山城跡 御城印
谷 氏 武家家伝_谷氏
續 氏 續 繁弥殿
村井氏
日本語には不思議な言葉がある。「又ぞろ」などもその一つだと思うが意味を調べたこともないが「又ぞろぞろ→次々に」くらいの意味ではないかと思ってきた。
オリンピック委員会の某理事の収賄事件はまさにそんな感じで、ここにきて次々と露見してきた。
統一教会に関連した国会議員もぞろぞろである。
改めて「又ぞろ」をひも解いてみると、「又候」、類似する状態が既にあるのに、他の同様の状態が新たに存在することを、一種のあきれた気持・滑稽感を含めて表わす語。とあって私の解釈はせいかいであった。
又ぞろ 遊びの虫が騒ぎだす という狂句があるが、こんな具合もこの暑さやコロナ禍だと、世の遊び好きの御仁も、早々こういう訳にはいくまい。
うつうつと 又ぞろの機を伺えり 津々
と言った感じだろうか。いずれにしても良い意味では使われないようだ。
11号台風が過ぎ去ったと思って安心していたら、又ぞろ12・13号の発生が懸念されている。
■松山形馬は、【丹後以来】【田辺城籠城】(南東38-4)松山 繁家の 8代目・刑馬 御小姓頭・御中老支配 千石
文政五年七月(拾挺頭)~文政五年九月 小姓頭
文政五年九月~天保七年十一月 用人
家紋は「右一つ巴紋」「離れ鬼蔦紋」
■松下久兵衛は、松下意綱の孫・市之進一意(春日局の兄・斎藤利宗女婿)を祖とする、(南東38-8)松下亀雄家の7代目・季四郎(久兵衛-中瀬助之進子・意晴)
松下子荘 名は意誠、久兵衛と称し、致仕後子荘と称す。藩に仕へ川尻町奉行及び奉行職と
なり、後大奉行に進む。禄千五百石。堀平太左衛門に次ぎての人物と称せらる。
天明元年四月(留守居切米取触頭)~天明七年十二月 川尻町奉行
天明七年十二月~寛政元年閏六月 奉行副役
寛政元年閏六月~享和元年十一月 奉行
享和元年十一月~文化五年閏六月 大奉行
家紋は「丸に四つ目結紋」
■松崎勝三郎は、(南東36-7)松崎 傳家の7代目。家紋は「違い鷹の羽紋」
■松崎市之丞は、(南東36-10)松崎欣哉家の4代目。家紋は「松皮菱紋」
■松崎勘太夫は、(南東36-8)松崎二郎家の4代目。家紋は「組み合わせ角紋」
■松崎源右衛門は、同上分家 (南東36-9)松崎治平家の6代目。家紋は同上、今一つ「七つ割平結紋」
■松本甚十郎は、(南東38-14)松本甚次郎家の6代目・次郎八(甚十郎)。家紋は「隅切り平角に■■」
■松本安左衛門は、【丹後以来】【田辺城籠城】(南東37-19)松本助左衛門家の8代目。初代・平田因幡室は、ガラシャ夫人に仕えた小侍従。
家紋は「変り山形紋」「山型紋」
■松本杢兵衛は、(南東38-10)松本杢十郎家の3代目。家紋は「 」
■松本律次は、(南東37-8)松本多村家の5代目。家紋は同上
■松岡久左衛門は、(南東36-18)松岡一枝家。代々が同名で人物の特定が出来ない。
家紋は「子持ち隅入り立角に丸」「丸に■■」
■松岡久太夫は、(南東36-19)松岡九門家の5代目・九郎七(九左衛門・九大夫・九左衛門・九右衛門・角兵衛))
家紋は同上、及び「丸に違い丁子紋)
■松岡文大夫は、(南東36-21)松岡甚九郎家の4代、もしくは5代。
家紋は久大夫家に同上、
■松岡満寿は、御医師(南東56-21 医)松岡俊吾家の4代目。家紋は「六角三ツ割菱紋」
■松田七十郎は、【丹後以来】(南東36-11)松田七十郎家の7代目・七八(養子 七十郎 実・長瀬真幸実弟)。
家紋は「隅立稲妻紋」「丸に■■」
■松田仁左衛門は、(南東36-13)松田四郎八家の6代目・多学(仁左衛門)か。家紋は「丸に二つ矢筈紋」
■松見卓右衛門は、(南東38-15)松見太郎八家の7代目。家紋は「左二つ巴紋」
■松村英記は、(南東37-7)松村重次郎家の8代、松村大観 名は昌直、名は仲簾、英記と称し、大観と号す。食禄二百五十石、郡代、
勘定所目付、作事頭、川尻町奉行及び奉行職を勤む。又学を勉め武を修む。尚刀鍛を好み、武相薩南に遊びて其精徴
を定む。刀剣或問の著あり。
寛政十二年八月~文化二年三月 八代郡代
文化二年二月~文化三年八月 上益城郡代
文化十一年(勘定所目付)~文政元年二月 奉行副役
文政元年二月~文政二年四月 奉行
文政九年十一月(勘定所目付)~文政十年十一月 川尻町奉行
天保三年十二月~天保五年十一月(病死)奉行
家紋は「 」「 」
■松江文右衛門は、(南東38-9)松江冨太家。同名があり人物特定不可。家紋「 」