津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■10数年ぶりの約束を果たす

2024-01-22 12:42:08 | 史料

 10数年前熊本の100石取りの侍の生活を示す「1か年暮らし方見積もり」をご紹介したのち、100石以外にも資料があることを匂わせていたが、しばらく後悪友からそれを全部教えろと言われた。
「熊本市史」に掲載されているデータだから図書館で見ろと言ってやったが、ちょっと後味が悪く「少し待て」ということにしてきた。
その後度々図書館には出かけているのだが、すっかり忘れていたところ、最近数枚のコピーが顔を出した。
ここでようやく10数年ぶりの約束を果たすことができる。

 100石・150石・200石・300石・400石の侍の「暮らし方見積もり」だが、100~200石取りは慢性的赤字の生活であることが判る。
数字の根拠としては、家族が隠居夫婦・当主夫婦・子供三人の計7人、これに400石取りでは「若党1人・下女3人・小者2人、計6人」が加わる。300石では「同0人・2人・2人」であり、200・150石は「同0人・1人・1人」となり、100石に於いては若党・下女はつかず小者1人だけである。

    

 さて皆さまは比表を見てどのような感想をお持ちになるだろうか。悪友のお宅は200石、「おいおい毎年赤字かい?」という声が聞こえそうである。
「UPしといたぞ・・」と連絡を入れたいと思っている。

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■三體千字文

2024-01-22 08:30:06 | 徒然

 俳句を書きつけている大学ノートをめくっていたら 書初めや 手本は三體千字文 という句が出てきた。
購入して2~30年になろうかと思うが、和綴じの糸が切れたりして持ち主同様、相当くたびれている。
それでもそうそう使うものではないから大事に使っている。
古文書を読むためには、自ら文字を認めなければなかなかスイと解読は出来ない。
最近は毛筆で字を書くことに慣れようと思い、もっぱら「ぺんてる筆」を使って何かにつけて落書きをしている。
駄句を書きつけてみたり、古文書を写してみたり、時折この三體千字文から「天地玄黄」から始まる文章を楷・行・草の書体で書いたりしている。
時にはYouTubeで習字の番組を見たりして、隷書などにもチャレンジしているが、篆刻の文字なども面白そうだと思ったりしている。
私の小学校時代の担任のO先生は、見事な文字を書かれる方だったが、もうすこし真剣にならっておけば良かったと悔やまれる。
実は我が家からほど近いところに、書家・武田双雲氏のご実家の書道教室がある。
気持ちが揺らがないでもないが今更の感があって、82爺には今更?の感が強い。
今年はぺんてる筆を本物の筆に持ち替えて、じい様が使った硯で墨を磨って「般若心経」にチャレンジしようと紙を買いそろえた。
さてこの一年でどれだけ進歩しますことやら、年寄の悪あがきであります。

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■細川斎護世子・慶前、江戸参府(6)

2024-01-21 12:48:33 | ご挨拶

■八月八日 
大平川阻候ニ付、正四ツ時 御発駕、此日牧野備前守様尾州江之御
使者御行合、御一同程ニ御渡違ニ相成、但シ尾州公先月廿七日御逝
去 〇川場混雑いたし、九ツ比越立、暮候而吉田江着、是夜備前屋
庄兵衛宅江止宿、吉田文八等来飲

■八月九日 
六ツ時御立、荒井御昼ゟ越、夕方濱松江着、薄暮御着、是夜陰且雨

■八月十日 朝陰 漸晴
天龍水平常ノ如シ、大井川七日巳刻ゟ閉、今朝明候由、袋井御昼ゟ
越、日坂騮宿
  録去ル八日夜入吉田途中作 参州
 日落三河路、夜風吹酔顔、山沈平野外、月走亂松間、炎影行人
 去、橋聲驛馬還、治天未催雨、應踰遠州関  

■八月十一日
昨日江戸ゟ御飛脚着、両役一人、歩御使番一人被差越御様子も有之
候哉、 御急ニ相成候様、一旦御休泊替り、十五日江戸可被遊 御
着御模様ニ候處、猶御極之通可被遊御出ニ相成候、沢村方張込と被
存候、今朝御用多、五ツ比 御立、大井川昨日明キ候而、水勢殊之
外浅ク相見へ候、是夜ニ入丸子 御着
  「宿鞠子驛」
 山深繚繞岳南天、投宿家臨鞠子川、木影當空獰似鬼、蟲聲在草大
 於蝉、故人已恨三旬別、秋月恰看両度圓、旅瑣占貞因僮僕苦甘与

 汝共相憐

■八月十二日 陰
安倍川水落、五ツ時 御越立
  客意
〇漸覚単装不好眠、身行千里刀三尺、手握奇機書一編、朝叱崔嵬山
 上馭、夕乗洶湧浪間船、萬非得止吾生事、不敢利名欺老天
江尻御昼、暮方薩陀御越、暮候故 召無之、六ツ半比蒲浦御着、此
夜田子浦月光殊晴
一、明日尾州公御遺骸東上ニ付、 上ニハ岳麓御除ヶ道被遊候而、
御家中之面々ハ本道罷越、御行逢之節下馬下乗平伏いたし候様

■八月十三日 晴
七ツ時 御発駕、夜明富士川 御越立相済、御跡ニ付越立、直ニ本
道を参り、吉原驛東十餘町余田橋民家ニ槍轎を入、御通行拝観ス、
御先鉄炮三十挺、張弓二十張、長柄二十筋、大弓三、馬三、矢筒
二、行離十四五町跡より本行列御先歩士十耦計り、僧一轎先はら
イシテ、御棺大サ方六尺計、高サ淮之、白帛打覆、舁夫十六人、其
外五六人、手添臺四間計、跡ニ舁夫五六十従フ、皆黒外套、供槍ニ
三十筋、惣人数前後共ニ千四五百も可有之哉
途中望嶽、今朝より極晴、頂有一點雪、午後陰雲
我推天地始、濁者下為山、猶有未分象、三峯貫両間
此夜三嶋御泊

■八月十四日 晴
箱根 御越、小田原 御泊、〇早雲寺ニ参詣、長氏ゟ氏直迄 長氏、氏綱、
氏康、氏政、氏直
五代之碑有之、北条伊勢守宇治建と有

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■江戸證人十家

2024-01-21 07:53:07 | 侍帳

    現在細川家に於いて江戸證人となられたお宅の、何方が何時から何時まで勤められたのかを調べている。
まとめられた文献は見受けられないように思うし、私自身も個々に取り上げてはいるがまだ手つかずでいた。
「江戸へ證人差し上げ候衆之・・」によると、細川家家臣で江戸へ證人を差し出すように申し渡された家は、以下の十家になっている。
大名証人制度は、慶長五年(1600)から寛文五年(1665)までの65年の長きにわたっている。
「殉死の禁止」とともに終焉することとなった。 

       細川刑部        一門   25,000石
       長岡佐渡守(松井)   三卿家老 30,000石
       有吉頼母佐       三卿家老 18,500石
       長岡監物(米田)    三卿家老 15,000石
       長岡勘解由(沼田)   家老   10,000石
       沢村宇右衛門      家老     6,000石
       小笠原備前守      家老     6,000石
       清田石見守       備頭       3,035石
       田中左兵衛       城代       2,150石
       平野弥次右衛門 人持衆并組外衆    5,000石 

 

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■大寒や・・

2024-01-20 13:21:24 | 俳句

           大寒や 転びて諸手つく悲しさ  西東三鬼

                      たちい
           大寒に まけじと老の起居かな   高浜虚子

           大寒や 阿吽の像の力こぶ     津々           

 諸手をつくくらいは転倒するよりは良いのかもしれないが、本当に悲しいと思うだろうとつくづく思う。
齢を重ねなければこのような句は生まれない。
数年前、濡れたコンクリート型枠用の合板に足をかけて、見事に体が宙に浮いてしりもちをついてしまったが、以来転ばないように十分気を付けている。
転んでの骨折が怖いから滑らない靴底の靴を履いたりと、年相応の気遣いをしている。
もう力こぶはいらないが、まずは足腰がしっかりしていないと話にならない。

           大寒や 出かける前のスクワット   津々

今日は熊本史談会の例会に出席してきました。そろそろ20年、皆勤です。

 

 

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■米田是季・沢村大学、18~20年振りの御目見え

2024-01-20 06:25:52 | 人物

 寛永20年(1643)正月8日、江戸に於いて光尚に男子が誕生した。六丸のちの綱利である。
この時期光尚は熊本に居る。慶事を伝えるために10日ほどで誰かが馳せ帰ってきたのだろう。
正月廿日頃、光尚君八代ニ御出」という記録があり、祖父三斎に対し六丸の誕生を報告にでかけたか。

「此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御目見被仰付候」ともある。

 ■長岡監物とは米田是季のこと、「今年(慶長11年=1606)、長岡監物興季故有て豊前を出て京ニ奔る、
  于時22歳 浪人之内、大阪ニ籠城の事等忠利君之譜、元和九年(1623)帰参之所ニ詳ニ出

  是季はこれ以降三斎に遭う機会を得ていない。つまり20年ぶりにお目見することになる。

 ■沢村大学は「寛永元年(1624)四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟」があり、三齋が機嫌を損じたという。
 「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」という、沢村大学牢人被仰付置候内
  道家左近右衛門方迄之状壱包(永青文庫)資料が残る。
  出国先の備前岡山藩主「松平宮内殿御詫言」により忠利により召返されのは寛永二年(1625)八月十八日である。(忠利書状)
  それより以降三斎には18年間面談が許されず、寛永20年に光尚に提出した「起請文」には、三斎に対する恨み言が書かれている。

このように、二人とも長い間三斎へのお目見えが許されていないが、光尚は自らの嫡子が生まれたことの報告にかこつけて、二人の
お目見えを演出したものと考えられる。
三斎が亡くなる3年ほど前のことである。

 

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■綱利代から続く水戸家との縁

2024-01-19 08:46:41 | 歴史

 細川家と「水戸徳川家+讃岐松平家」との縁は、細川綱利が徳川頼房女(久姫)との婚姻(宝永3年=1626)をスタートとしている。
その後水戸徳川家との婚姻が重ねられることはなかったが、200年以上経ても情報の交換などが続けられていたことが、天保~弘化期(1844)の
史料でも見て取れる。内容は水戸中納言(斉昭)公の隠居に関わることである。

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(御末家様より御知せ等左之通)
松平讃岐守様ゟ御知セ
今度讃岐守様依 召御登城候所、當年御暇被 仰出候得とも御用も有之候ニ付御滞府被為蒙仰、且亦水戸殿
御隠居被 仰出、鶴千代麿殿江家督被 仰出候處、御若年ニ付御貢献被 仰付、御懇之被為蒙
上意難有被思召候  天保十五年五月十八日
  讃岐守殿、大学頭殿、播磨守殿江
水戸中納言殿御家政近年追々御氣随之趣相聞、且御驕慢被相募、都而御自己之御了簡を以御制度ニも被相觸
候事共有之、御三家方者国持始諸大名之可為規範候處、御遠慮も不被為在、御始末御不興之事ニ被 思召上、
依之御隠居被 仰出、駒込御屋敷江御隠居穏便二御慎可被為在候、御家督之儀ハ鶴千代麿殿江被 仰出候、
此段讃岐守、大学頭、播磨守相越可被相達旨 御意候

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■落合東郭のご命日=私の誕生日

2024-01-19 07:10:08 | 人物

 今日は私の誕生日なのだが、まったく同じその日に熊本では落合東郭が亡くなっている。(S17・1・19)
落合東郭とは、夏目漱石の三番目の住まい(大江)の家主さんであり、元田永孚の外孫にあたる。
つまり落合家に永孚の娘・永子が嫁いで為した男子が為誠(東郭)である。当時宮内省に勤務していた。
漱石・鏡子夫妻は一番目の家(光琳寺町)には明治29年5月~9月迄、二番目の家(合羽町)には明治29年9月~30年9月まで住んだ。
30年に二人は東京で夏休みをすごしている。そこで鏡子夫人は体調を壊し、漱石は学校の関係もあり夫人を東京に残して一人熊本へ旅立つている
実は漱石は、夫人が帰熊する前に合羽町の家を出て、東郭の家を借りて引っ越している。
当然夫人は連絡は受けていたのだろうが、旅立った時の合羽町の家ではなく、大江の家に帰ってきたことになる。
そしてまったくの偶然だが、夫人が東京を立つときに、東郭の母親(元田永孚長女)と元田永孚の嫡男夫婦と一緒になったと「漱石の思い出」に書かれている。

そして、一緒に帰熊されたという。その元田永孚の嫡男の家は、東郭の家の隣だというが、漱石が東郭の家を借りたわけだが、東郭の母親は何処に住んだのだろうかと心配してしまう。
その三番目の家(大江町)は、現在の白川小学校の裏手、かっての中央病院(移転)の辺りだと聞いたが、私は正確な位置を知らない。
それからわずか7ヶ月後夫妻は、宮内省に勤務していた東郭が五高の教師となり帰熊するというので、この大江の家を明けて第四の住まい「井川渕の家」に引っ越すのである。
誠にあわただしい夫妻の住宅事情である。



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■細川斉護の婚約の儀御達

2024-01-18 07:27:33 | 歴史

文政十年(1827)正月十八日、細川斉護と松平(浅野)安藝守斉賢女・益姫との婚約が整ったことの御達があった。
斉護は文化元年(1804)九月十六日の生まれで、24歳である。元々は宇土支藩の藩主(中務少輔立政)であったが、先代・
斉樹の病気にあたり、文政九年二月廿九日に宗家をついだ。
現在、嫡子・慶前の江戸参府をご紹介しているが、この慶前は今回の益姫との慶事の2年前の宇土藩主時代に誕生している。
そして嫡子として宗家に入るのは9年後のことである。
二人の間には三人の女子をなされたが二人は夭折、末の勇姫が後に松平慶永(春嶽)に嫁がれた。
益姫(顕光院)は熊本で亡くなられているが、晩年・勇姫は母親を見舞うために汽船で熊本まで来られている。
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一舊臘十四日依召御名代細川邦勝殿登城之處、太守様え松      細川邦勝→ 人物の特定が出来ないでいる
 平安藝守様御息女益姫様御縁組御願之通被仰出候段御達      松平安藝守→浅野 斉賢 安芸広島藩の第8代藩主。浅野家宗家9代。
一右付て御物頭以下御中小姓以上麻上下着、廿一日・廿三         益姫→ 同上・女 23歳 (顕光院)
 日両日之内御花畑え出懸出仕御歡謁之御達

                  顕光院

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■細川斎護世子・慶前、江戸参府(5)

2024-01-18 06:34:13 | ご挨拶

■(弘化二年)八月朔 小雨
伏見御着、買扇十四本、大野傳兵衛江仕出ス、夜雨甚

■八月二日 雨
御出京、自身稲荷往還ゟ五条江出、寺町通り三条下り堺町ゟ内裡江
巡拝、猶寺町通り三条大橋ゟ大津江出、八ツ比着
一、於京師外史ヲ買フ、関原ノ顧問ニ備る為也、價一両二歩
(久太郎、若殿近習)( 式右衛門)
一、村上、国友旅館ヲ訪フ、村上不快ナルニ因而也

■八月三日 晴
武佐 御泊

■八月四日
すりはり御小立ニ被為有候而、倚軨小玩御取出、湖水御眺望、大年
と歟いへる者之詩二擬シ一首上ル
晴天獨立玉姫壇、一碧琉璃擁髻鬟、我拂四弦向明月、廣潟風起不堪
寒、窮甚シ
御作も可被在 思召也、嶺上ゟ御先仕、是夜陰雲四塞、恐明朝雨作

■八月五日 暁ゟ小雨降り、次第ニ強ク相成、関原迄 御先取、
驛舎中ニ古戦圖吟味、江戸屋と申者色々持し、並ヨリ大ナルヲ一枚
見調、少々之間違ハ有之候得共、先委敷候間取置、四ツ比御小立、
御着之上被為 召、本陣ゟ差出候絵圖ニて合戦之様子賜 話、圖面
大抵不分明ニ付、外史ノ大意を以申シ上、やかて雨強候へども、御
草鞋ニて御陣場江被為入 御供仕、案内者方角ヲ指點し、雨中ニて
山々等不分明二有之候、猶 御先祖様之御陣場可被遊
御覧、野中一町計東江御進、石田陣所東右郡ノ陣所遥ニ御見亘シ、
御帰り懸首墳ニ御立寄、猶一應御本陣江被為入、御召替有之、直
二御立、是ゟ御供落ル、御見物中始終風雨強、御合羽箱ニ入、御先
二越候故、御羽織之儘被為入、餘程被遊 御沾候、自分合羽用意無
之、於場所顧問之間傘を不用事ニ候ヘハ徹底沾濡、前条之絵圖并養
老瀑之摺圖一幅買取差出、別ニ程赤城江芸閣之書、石刻有之、皆
買取不申候
                       (秦滄浪、尾張藩儒者)
〇我不喜亀田鵬斎、其學姑置焉以其建碑刻字之多也、秦 士 鉉
 校左氏頗有儒風、而我讀桶狭間碑、養老瀑碑、請刻舶商字、亦不
 喜士鉉
    関ケ原ニテ一首
 慶長五年九月望、白帝司刑金氣旺、自辰至未天地動、山岳破裂海
 波颺、天道好殺為好生、掃蕩群陰洗穢腥、晦育否塞五百年、命世
 起而日月明、驊騮東出不破関、悵然下鞍松樹間、南宮雲起松尾
 霧、飛雨吹霧伊吹山、不避飛雨集如矢、水声疑聞銕騎起、顧問當
 時諸渓変化血、我祖沾咽知何水
〇明太祖撃張士誠而誤用則猶足以割拠一方、撃陳友諒而誤則事畢、
  東照公撃景勝而誤猶足以割據、撃石田而誤則事去、英雄皆不求
 萬至之策、石田求全而敗佳

■八月六日 雨
洲股、尾越、二川ヲ渡リ清州 御昼休、暮候而宮驛御着、終日雨

■八月七日 雨
五ツ比大風雨、九ツ前晴懸リ、桶狭間 御立寄無之、夕方岡崎 御
着、昨日午時大平川橋落候由申傳、夜晴月光頗佳

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■匹婦の腹

2024-01-17 10:20:32 | 書籍・読書

 私は二日ほど前まったくの偶然に、室生犀星の詩「母と子」の朗読をYoutubeで見かけた。
朗読が余りうまくないなと思って途中で見るのをやめて、いろいろググるうちに「青空文庫」の「室生犀星・忘春詩集」というものの中に収められていた。(少々長い詩なので引用は控える)
なぜこのような切ない歌が並んでいるのか、これは犀星の生い立ちが影響しているのであろうと思いいたった。

 室生犀星には 夏の日の匹婦の腹に生まれけり という強烈な句がある。
私は犀星の小説と言えば、20代のころ姉が読んでいた「杏つ子」を読んだくらいで詳しくないが、俳句に関する本に親しむようになってからこの句の存在を知った。
そのときこの「杏つ子」が自伝小説だと姉から教えられた。その衝撃と共にこの句が自らの生母をうたっているというのだから、ことさらに衝撃的である。

犀星は加賀藩の下級武士の子と承知していたが、私生児であるという。父親のちょっとした出来心は使用人をはらませ、生まれるとすぐ養子に出された。
犀星はその生母を「匹婦」というのである。「匹婦」とは「教養がなく、道理をわきまえない者たちのこと。封建的な身分制度下で使われた言葉。」であるが、父親こそが「匹夫(父)」と呼ばれるべきではないのか・・・
犀星をしてそう叫ばなければならない、無念さや虚しさが胸を打つ。
預けられたのが僧侶の家でここが室生氏なのだが、実際預かったのはその僧侶の妾ともいうような人で、母の愛を受けることなく育ったと思われる。

 上の句を踏まえて「室生犀星・忘春詩集」を改めて読むと、犀星の心情に胸が迫り涙もろい私は少々やばくなる。
匹婦とされた生母と相まみえることはなかったようだが、子を奪われ捨てられたその人のことを思うとその言葉は過ぎるように思うけれど、捨てられた子の心もまた深く傷つけられている。

「母と子」を読むと、「匹婦」だとする生母に対する思慕の情が見受けられてホッとするのだが、作家・俳人としての表現が「匹婦」という言葉に集約されたようにも思える。
身をさらして作品を作り上げるのが、作家の業というものであろうか。


 

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■鎮魂の日に思う

2024-01-17 09:40:15 | 徒然

 1995年1月17日、阪神淡路大地震の状況を伝えるTVの映像にこのようなことが起こるのかと、ただ茫然としたことを思い出す。
家の下敷きとなり、また業火の許で亡くなられた皆様に改めて、お悔やみを申し上げたい。

 2011年3月11日には、東日本大地震が起こり大津波が各地を襲う状況がTV放映され、また息をのんだ。
あわせて、原発の被害の深刻さを思い知らされた。
 2016年4月14日には、自らが被災する熊本大地震が起きた。今年になってようやく避難先から終の棲家へ落ち着く場所を得た。

 そして今年の元旦の能登地震の被害のすさまじさは、うごめく地球の荒々しい息づかいに驚かされるとともに、寒気厳しい中17日が経過して今も孤立する集落が存在するとともに、電気や水道の復旧がままならず、苦しい生活を余儀なくされておられる皆様に心からなるお見舞いを申し上げたい。

 M6.5以上の地震被害は、私の80余年の生涯に於いて日本全国で50回以上起きている。
そして、上に述べた4回と同様、各地で被害を受けられた方々のその苦痛は何処も一緒である。
人間は強い、そんな被害を乗り越えて再起の道をたどって前へ進まれている。
歴史に親しむものとして思うのは、いま生きている人々は先人の幾たびかの戦争や災害などを乗り越えて不幸にして御身内を失われたかもしれないが、生きることを託された人たちである。
希望を捨てず、これからも強く生きていってほしいと強く願うものである。
1995年のこの日に生を受けた方が、もう三十路近くになられることを思うと、感慨深いものがある。
結婚もされて、新しい家族にも恵まれて楽しい生活を営んでおられるのだろう。幸多かれと願わずにはいられない。

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■細川斎護世子・慶前、江戸参府(4)

2024-01-17 06:59:37 | ご挨拶

■七月二十七日 陰、冷氣
朝六時 御発駕、御先ニ罷立、舞子一ノ谷之間二夜ヲ明シ、御通
差扣候處、御昼被 召候段、辛川ゟ被傳、兵庫御昼ニ出候處、湊川
等 御微行之御供仕候様被 仰付、則用意、墓道入口ゟ御供仕、御
一拝之上廣巌寺(楠寺)江被為入、什物等 御覧
 一、楠公遺墨、感状一幅、庄五郎殿江之一幅、感状ハ可然様二相
   見へ、庄五郎殿江之一書ハ可疑、倚軨一玩ニ之ヲ弁セリ
 一、弓 團扇  具足断爛ス、何レも無可観
 一、畫肖像 一幅洞雲
 一、同正季 一幅同
 一、醍皇震(宸)翰歌一首
 一、黄門公与千巌書一枚
 一、鎧  可疑
 一、太刀三振、無刃刀一口  皆可疑
楠寺より一旦本道江被為入、猶生田森江 御参詣相済、直ニ本道被
為入候ニ付、御忍之御供落ル
 明石須磨欲曙天、行人續声店頭眠、海濤時至如風雨、併得松聲落
 枕邊
 九郎在後二郎前、公子王孫争上船、憐箇腰弓青葉笛、吹愁不向海
 西天
 過湊川謁楠公墓作
身是菊池遣土民、讀碑慣拝南朝人、風雲惨憺湊川路、楠公墓下哭萬
巡、昔在妖氣逼皇室、君挙隻手捧天日、一時諸公炎乾燥、忠勇知畧
誰其匹、如我土姓先致身、君言元弘功第一、況其子孫六七葉、海鎮
勤王獨欝嵂、但恨史論軽徧隅、一新日州配君無、不知青山断雲夕、
二公去後片月孤、尓時盗猶遣宝玉、我振一臂制全驅、此道可往参ニ
公、當時猶費陳情書、倘説■近君姑輪、天下公論頼至誠、神尚彷彿
来告吾 此夜西宮 御着

■七月廿八日 陰
六ツ時 御發駕、御着、一昨々日海上不宜、御供船渡海之内、
鳳麟丸着不致候
一、作家書、御次仕出
一、謁

■ 同廿九日
  大坂御滞留、昨半夜鳳リン丸入津いたし候由、昼前荷物等差越
一、蚊幬一張、単物一組着、一買取、御前日立荷物之内、二箇取下
  ケ、仕分之上猶御勘定江差出

■ 同卅日 晴
  枚方江御通行、御供仕、具足箱ハ御次船二頼ミ、駕計二て参候
枚方道上作
〇行半南塘十里程、竹濃水碧近京城、涼生蒲柳戯風影、秋足草蟲咽
露聲、沙北青山翠髻鬟、波間落日紫金鉦、憶曽結夢蓬窓底、月落空
江夜多鳴
〇剛柔明暗氣也、飲食男女財利其五六分長於習
此夜枚方御止宿、雨

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■熊本史談会・令和6年1月例会ご案内

2024-01-16 09:30:09 | 熊本史談会

 令和6年1月例会は、「菊池の記憶の記録伝承人」坂本 博氏 ・坂本栄子ご夫妻を講師にお迎えして下記の如く
開催いたします。

昨年の8月例会に於いてご夫妻のお話を第一回としてお聞きしましたが、大変好評のうちに終了しました。
第二回も大いに楽しみにいたしております。どうぞご参会くださいますようお待ちいたしております。

                    記

期日:令和6年1月20日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
講師:菊池の記憶の記録伝承人  坂本 博氏 ・坂本栄子氏(ご夫妻)
演題:「菊池隈府の歴史」菊池の西南の役ー西郷坂の戦い 第二回

一般参加自由:
    資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    又、マスクの着用は随意と致しますが、ご記名をお願いいたします

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■「風説秘話」から、不破杢助殺害事件とその顛末

2024-01-16 08:48:01 | 人物

 不破太直家の8代目・太郎吉(杢助)がその若党によって殺害されるという事件が起こった。
杢助について侍帳では(1)御使番 四百五十石(2)御知行被召上候 寛政九年十二月二十九日 高四百五十石という記録があるが、
(2)の詳細は※寛政中12月29日、長崎御留守居在任中不破家若党により殺害さる。息数太・千次、甥鎌田軍助・同奥之允とある。
その風説秘話から、殊の顛末をご紹介する。
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一、寛政中十二月廿九日夜長崎御留守居不破杢助若黨主を害し出奔し其旨残二人の若黨より宿元へ注進せり晦日朝彼若黨不見故
  出奔などそ不致やと方々尋れ共不見故此段杢助江可申
と五比ニ帰り主人カ今を見ルに夜着の内より血流出たり是ハ如何と驚
  たれ共先御屋代何某を呼ニ遣一同ニ夜着を取見れハ
三刀斬て留も丈夫ニ刺たり然共外科を呼見せしに勿論療治不及との事也
  若黨共寝間者杢助居間の次の間の二階にて
程近きに殺害する時も一向不知且夜着より血流たらハ其侭取て見るべきに御屋代
  を呼て一同ニ見る事考不審也と人々云あへり
扨杢助二子数太千次ハ早速早速此次第を達シ彼表江罷越遂吟味討捨度由願捨ニ
  して正月三日宿を立杢助甥鎌田軍助興之允
も同願捨ニして同伴し島原を越て同五日長崎ニ着て聞ハ最早敵ハ御屋代か許ニ捕
  在由也たれハ早速右之者渡呉候様申せしかハ
御屋代返答に杢助様御跡役明日ハ爰許江御着之筈ニ御座候間其上ニ而御渡可申
  と也鎌田云不破兄弟父の仇を差置片時も待
兼何分押當難き躰ニ候殊ニ今日者杢助一七日ニ候間旁以是非相渡可被呉と云たれ
  ハ御屋代も理ニ折れ渡したれハ杢助居間の
庭の前ニて討たり又一説数太様五日八ツ比長崎ニ着せしに御留守居付之機密間物
  書方ニ逮在也早速渡呉可様云たれハ物書答て私
義勿論其心得候得共上分の御差図を相待申明日御跡役御着之上ニ而御渡可申
  一存ニてハ不相成と云不破兄弟鎌田兄弟是を聞父の仇
を置輡くも見合等と不能と云故鎌田云たるハ数太兄弟仇の在所を知か
  らハ輡も差置可申哉是非押當置てハ自然如何躰
の施義の振舞仕候も難斗其上彼者万一自滅にても致候而者口惜き次第なれハ
  是非/\御渡可被下跡の事ハ少も足下に難影
懸申間敷某万端受合可申と云しかハ物書然ハ跡之儀私越度ニ相成不申様御書付
  可被下と云鎌田直ニ其旨書付渡たれハ物書又云
此所は御屋敷内殊ニ公領之事ニ御座候故跡ニて死骸の取片付等如何と云鎌田
  夫ハ此方受取て後の事ニテ少も遣様御世話ニ及間敷
候可致様ありとて意ニ受取御屋敷ニてハ如何と思しかばも仕方無れハ杢
  助子屋の庭ニ路地より引入しに賊首下より見詰間あらハ
飛懸るべき勢なりしを数太抜討ニするを斬られしと振向しか者横頬
  を顎迄斬付たり二ノ太刀首打落し千次留を刺たり
扨前ニ菓子を供へし木具ニ首を載供へき也然ニ胴は公領之事故可埋処もな
  く海に沈んも御番所近邊首無骸流んも憚有り
寺も請取まじ葬禮者されす如何と思しに鎌田葬桶を買て是ニ逆様ニ蹈込銭少を
  添寺江遣せし候者無故障請取ぬ
別而是旨者早速飛脚を以云遣し宿へ者八日暮比ニ知れける 四人者十一日ニ長崎を立十五日ニ
  着此時首ハ持来し候と上よりハ
御仕置なかりし故井手口ニ埋たるとぞ右の賊捕られし事者長崎御屋敷より一里斗ニ茂木と云
  湊あり彼者此所に
参り船頭ニ銭を壱貫四百文を与へ何方とやらに渡呉候様頼此以前長崎中者早速船留の触ありし故船頭怪ミ
  此所者壱貫二百文
之渡也とて二百文ハ返して二三日中便船あるべしとて兎角偽寄て茂木より半里斗ニ観音を安置せる岩窟隠
  置たり
其後川尻の御加子共彼船頭の許ニ尋行しに不知と云う其■ニ公義の廻約行て尋し候者船頭倭て四日ニ窟ニ行便船あり
  と欺し候は彼者出来しに捕手共を見るより直ニ抜放て闘に既ニ手負も有■程なりしかとも大勢取巻終ニ捥し候者今者早々殺
  呉候エと頼しとかや扨連来り御屋代ニ内々
ニ手渡したりケ様之■公義之手に渡て者江戸江御届何角甚隙取事なれども御屋代
  不破か恩顧を給し者ニ而早速
手を廻し頼置しに依て如■也幼年之時杢助召使し者當時足軽ニ被召出居し候今度不破に従ひ長
  崎ニ罷越度願
たれ共不相済故然らハ御給扶持差上罷越申度旨願ひたれ共不済故願捨にして長崎ニ行しとぞ杢助同姓同参平不
  勝
手ニ付拝借奉願五十両斗も相済来し折節此変を聞て彼方へ差合たる又杢助弟何某其砌御手當也とて長崎江不行親類中の相
  談ニ茂不加との風説也

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