映画「サーミの血(原題:Same Blood)」(2016)

「レベッカ・マーティンソン:衝動的な捜査」(2020)というスウェーデンの警察もののTVドラマシリーズにサーミが登場していた。前作「レベッカ・マーティンソン:型破りな捜査」(2017)でもサーミがいそうなスウェーデン北部地域の物語だったが、登場していなかった。そのドラマでは、耳をカットしてマーキングすること(reindeer ear marking)による所有権がらみのサーミ同士の憎しみが関わっていて興味深かった。
サーミに興味をいだいて調べていたら、本作品「サーミの血(原題:Same Blood)」(2016)を見つけたので観てみた。作品の制作年を比べると、この作品の後に「レベッカ・マーティンソン」が制作されたように見える。本作の監督は、父がサーミ人の女性監督アマンダ・シェーネルで、自身の体験も踏まえられているという。
作品の舞台は1930年代で当時のサーミの子どもたちは、進学先のない寄宿学校でサーミ語禁止で限られた教科が教えられていたという。先住民の子どもへの教育は、オーストラリアでもカナダでも寄宿舎に収容して、先住民語金して教育が行われていたことが知られている。進学先がない理由は、知能が低いから都市に出ても適応できないので、年限が終わると元の居住地に帰還させるという政策によったらしい。作品の中で、主人公の少女エレ・マリャから相談をうけた教師の言葉としてかたられる。
計測したり、裸体を写真に撮ったりする人類学者(と思われる)、あるいは、主人公の少女に「ヨイク」(サーミの詠唱)を歌うようにせがむ若者たちは、自分たちが人類学専攻しているという。研究のためとか、知的好奇心というのも、無邪気な無意識の「悪」であることがわかる。また、スウェーデン人の悪意と偏見も描かれる。少年たちはサーミの子どもたちに差別的な言葉を吐き、抗議する主人公の少女の持つナイフ(トナカイの耳を切って所有権を表すために使われるサーミの主体性を象徴するもの)をつかって、少女の耳にマークを切り込む。これは、彼女をトナカイ同様に扱ったということだ。
しかし、作品はサーミの少女(老いをむかえ、妹の葬式に故郷に帰った老女)の視線で描かれる。寄宿学校のスウェーデン人女性教師にあこがれ、教師になりたいとおもい(彼女は優秀である)、彼女のドレスを借用してスウェーデン人のダンスパーティに潜り込んだり、そこで出会ったニコラスに一目惚れして、ウプサラの街にまで追いかけていったりする。学校に潜り込み、授業料が必要であることを知って、故郷に戻って母に自分の財産であるトナカイを売ってくれ、亡くなった父が残した銀のベルトを学資のためとたのむ。母に断わられると自分でトナカイを捉えて殺そうとする。母はそれをみて、銀のベルトを渡す。
成長して年老いた少女は、主流社会に同化し、教師を長く努め引退していたが、亡くなった妹の葬儀に行こうと誘う息子や孫娘に抵抗する。親族の家に泊まろうという息子に対して拒絶してホテルにひとり宿泊する。同宿の観光客は、サーミがトナカイ牧畜にバイクを使うことに対して「自然とともに生きているとおもっていたのに」と現実のサーミに対する幻滅をいう。老女は窓の外に自分自身の過去のすがたを見出し、回想するうち、棺にいれられた妹に詫びを言いに教会にいき、一族が放牧する場所へと戻っていく。
世界の先住民たち、日本のアイヌも含めて、かれらの置かれている状況、セルフ・アイデンティティ(個人や民族としての)のゆらぎがとても良く描かれていた。
サーミに興味をいだいて調べていたら、本作品「サーミの血(原題:Same Blood)」(2016)を見つけたので観てみた。作品の制作年を比べると、この作品の後に「レベッカ・マーティンソン」が制作されたように見える。本作の監督は、父がサーミ人の女性監督アマンダ・シェーネルで、自身の体験も踏まえられているという。
作品の舞台は1930年代で当時のサーミの子どもたちは、進学先のない寄宿学校でサーミ語禁止で限られた教科が教えられていたという。先住民の子どもへの教育は、オーストラリアでもカナダでも寄宿舎に収容して、先住民語金して教育が行われていたことが知られている。進学先がない理由は、知能が低いから都市に出ても適応できないので、年限が終わると元の居住地に帰還させるという政策によったらしい。作品の中で、主人公の少女エレ・マリャから相談をうけた教師の言葉としてかたられる。
計測したり、裸体を写真に撮ったりする人類学者(と思われる)、あるいは、主人公の少女に「ヨイク」(サーミの詠唱)を歌うようにせがむ若者たちは、自分たちが人類学専攻しているという。研究のためとか、知的好奇心というのも、無邪気な無意識の「悪」であることがわかる。また、スウェーデン人の悪意と偏見も描かれる。少年たちはサーミの子どもたちに差別的な言葉を吐き、抗議する主人公の少女の持つナイフ(トナカイの耳を切って所有権を表すために使われるサーミの主体性を象徴するもの)をつかって、少女の耳にマークを切り込む。これは、彼女をトナカイ同様に扱ったということだ。
しかし、作品はサーミの少女(老いをむかえ、妹の葬式に故郷に帰った老女)の視線で描かれる。寄宿学校のスウェーデン人女性教師にあこがれ、教師になりたいとおもい(彼女は優秀である)、彼女のドレスを借用してスウェーデン人のダンスパーティに潜り込んだり、そこで出会ったニコラスに一目惚れして、ウプサラの街にまで追いかけていったりする。学校に潜り込み、授業料が必要であることを知って、故郷に戻って母に自分の財産であるトナカイを売ってくれ、亡くなった父が残した銀のベルトを学資のためとたのむ。母に断わられると自分でトナカイを捉えて殺そうとする。母はそれをみて、銀のベルトを渡す。
成長して年老いた少女は、主流社会に同化し、教師を長く努め引退していたが、亡くなった妹の葬儀に行こうと誘う息子や孫娘に抵抗する。親族の家に泊まろうという息子に対して拒絶してホテルにひとり宿泊する。同宿の観光客は、サーミがトナカイ牧畜にバイクを使うことに対して「自然とともに生きているとおもっていたのに」と現実のサーミに対する幻滅をいう。老女は窓の外に自分自身の過去のすがたを見出し、回想するうち、棺にいれられた妹に詫びを言いに教会にいき、一族が放牧する場所へと戻っていく。
世界の先住民たち、日本のアイヌも含めて、かれらの置かれている状況、セルフ・アイデンティティ(個人や民族としての)のゆらぎがとても良く描かれていた。

