アンソニー・フリント、2011、『ジェイコブズ対モーゼス―ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』、鹿島出版社
久しぶりの一日中家にいる土曜日、本書を一気読みする幸せに恵まれた。
私が今住んでいるところは、古い社宅があったところで、その敷地全体を再開発して、スーパーやおしゃれな店舗とともに建設されたマンション群の一角だ。入居が始まって五年、一度は町内会を作ろうという動きがあったが二年ほどで頓挫して、解散してしまった。マンション居住者としての管理組合の一員ではあるが、地域住民と言えるのかどうか。
古くからの住民の中に降って湧いたような建物の居住する新住民のひとりとして、生活には満足してはいるが、子供がいないから地域とのつながりも、生まれようもない。それはそれでドライで希薄な人間関係は都市住民として不満はないが、とりわけ災害時に果たしてこのようなクールな新住民はどのように対して行くのか、気にかかっている。まあ、それはそれとしてしょうがないのだが・・・・。
ジェーンが関わったヴィレジでの運動は、意欲を持った女性にとっては非常に良い機会だったとしても、しかし、恐慌時代に生きた女性にとって、それはそれは、チャレンジングな機会にちがいない。とはいえ、期せずして明らかになった有能な都市行政官のモーゼスとの戦いは、市民運動家としては、ある種の宿命を感じざるをえない。
本書は、両者、つまり、市民の側に立ち開発にストップを掛けるジェーンと一方行政官として意欲を燃やす都市計画との戦いを、活写している。
日本は、長いものに巻かれるというのがある種の美徳と感じるように様々な機会で教育が為されてきて、3.11のような、未曽有な事態にあっても、国民は、素直である。こうした状況にあって、ジェーンは、どのようにふるまうだろう。彼女が関わったのは大都市の再開発に絡んだ案件であったのだが、おそらく、Fukusimaにあっても、やはり、彼女なりの対案を、運動を提案したのではなかったか。
市民運動家出身の首相が、なぜこのように右往左往するのか、かれの立脚点がどこにあったのか問われている。市民運動家の出身の彼にとってみれば、政争にまみれることなく、もうすこし、理念を示す機会があったのではないだろうか。
奇しくも、このようなタイミングで、本書が出版された(決して意図的ではないだろうが)のは、大変、奇遇と思える。
ジェーンは、粘り強く、既製の(官僚が、もしくは、モーゼスの美学がでちあげた)都市計画に、常に、住民の立場で疑問をなげかけた。現在の多民族状況において、また、多様な政治的欲求のもとで、はたして、ジェーンのような、むしろ、リバタリアン的な立場を主張できるかどうかおくとしても、しかし、それにしても、当該住民の意向を反映することなく、都市の住民の多様なあり方をうばうことは、それは、ありえないだろう。
開発かそれとも保存か、都市の再開発(いや、それだけではあるまい)にあって、つねに様々問いかけ続けるのは、ジェーンの側の立場だろう。行政はモーゼスの立場に立ちがちではあるが。しかし、そこで生活する住民はどのように受けとめているのか、それこそ、すべての基盤と考えるべきことであろう。